近代言語学の父と言われるフェルディナン・ド ソシュールは、構造主義に多大な影響を与えたとされる。彼は、人間の思考の根源的な媒体である記号の本質的なあり方を問うた。その影響は言語学にとどまらず、芸術論、情報科学など幅広い分野に与えたという。ソシュールの構想はあまりにも壮大で畏れ多いが、前記事の丸山圭三郎氏のおかげで、この大作を読む勇気が湧いた。
「一般言語学講義」は、小林英夫訳版もあるが、ここでは影浦峡 & 田中久美子訳版を選んでんみた。それは、翻訳者の二人が情報科学にも精通しているらしく、理系の人間にとって同じような視点から眺められると考えたからである。ちなみに、言語学は一般的には文系扱いされるが、情報伝達の観点からあらゆる学問において避けられないと考えている。...などという理由はこじつけで、実はこちらの方がずっと安い!
ソシュールは、1907年から1911年にかけてジュネーブ大学で三度の一般言語学の講義を行った。そして彼の死後、「一般言語学講義」が弟子たちのノートをもとに編集された。それは全17冊あって、本書はそのうちの10冊に相当するそうな。残されたノートにはセシュエやバイイといった高弟のものもあるが、エミール・コンスタンタンのものが格段に優れているらしい。本書は、単なるコンスタンタンのノートの翻訳版であるが、ソシュール自身が語った生きた言葉が残されていて、その思考がほぼ忠実に再現されているという。
まず、言語の歴史性や地域性、あるいはコミュニティといった言語学の多様性を語り、続いて言語機能の段になると、言葉の概念と脳内イメージとの結合、発話の仕組みなどを語り、ついに言語の本質の段になると、言語記号の概念とその恣意性、心的に構成される実体と単位、意味と価値の関係などを語ってくれる。なによりも本質的なことは、言語機能と精神の結びつきに対する多様な思索の試みが体感できることではなかろうか。音節や文節の区分、母音や子音の区別などの外的な現象を追いかけることは、無意味とは言わないまでも、言語学にとってあまり本質的なことではないように思われる。
ちなみに、日本語には「物事」という都合のよい言葉がある。形相を脳内で意識した時にはじめて言葉となりうる。語と概念と発音が要素として分離されている段階では、まだ「モノ」的な思考しか働いていない。だが、それらが結合した時に「コト」化する。つまり、「モノ」に働きかけて「コト」化した時に言葉に意味を与える。言語表記と精神の結びつきがあってはじめて言語となりうる。これが言語の本質といったところであろうか。言葉そのものに実体らしきものはないように思える。言語は記号と実体を結びつける表記法に過ぎないのだろう。だから、言葉によっていかようにも欺くことができ、仮想化を促進することもできる。言語能力とは、思考を具体化する能力と言おうか、あるいは言葉に実体を結びつけて言葉に力を与える能力と言おうか...
この書は、ソシュール自身によるソシュール入門書といった感がある。これでソシュールが理解できたとは到底思えないが、この書に出会えたことに感謝したい。
言葉の多様性は凄まじい。一人として同じ言葉を話す者はいない。それでもなんとなく意思疎通ができているから、人間社会とは不思議な世界である。いや、意思疎通ができていると信じているだけのことかもしれん。それは、地域的な空間的多様性と、経験的な時間的多様性の組み合わせによって生じる現象である。言語とは実に奇妙なもので、同一の言葉でも個人によって微妙に解釈が違う。客観性を帯びたはずの専門用語ですら、専門家たちによって微妙にニュアンスが違う。言葉は、時代とともに生き物のようにうごめき、像を微妙に変えていく。しかし、現代社会は知識優位性社会であり、辞典通りの知識をより多く蓄える者が賢いとされ、有識者などと呼ばれる。
人間が一般的に崇拝している客観とは、どこまで客観性なのか?主観性を完全に排除すれば思考の深さが失われる。もはや、真の客観性は数学の中にしか見当たらない。いや数学ですら不完全性に満ちている。言葉の最も重要な機能は伝達機能であって、その意味では真の客観性とは言い難いものの、多数決的な性質がある。言葉で真意を完璧に伝えることは難しい。外国語の翻訳では、完璧に単語をあてがうことは不可能であろう。結局、どのように解釈するかは受け手に委ねられる。それでも、ある程度の共通認識はある。そうでなければ、世界的に感動を与える音楽や詩が生まれることもない。言葉の音律と意味が見事に融合した時、そこに精神を動かす何かが生じる。
人間は生を受けた瞬間から、言葉に見舞われる。なんと騒がしいことか!生を受けた瞬間から、他人や社会との関係を認識せざるを得ない。なんと鬱陶しいことか!生まれながらにして騒がしさや鬱陶しさに感化されるから、孤独に対して特別な感情を抱くのか?異常に恐れたり憧れたりと...
あらゆる感覚は多数決に支配され、人間社会は自ら流布した世論に洗脳されるという自己循環に陥り、思考を正帰還で増幅させながら発散する。人間は、自らの精神を操る道具として言語を用いる。
しかし、精神を人間の発明した言語で完璧に表現できるとなれば、人間は精神の正体を解明したことになる。人類は、いまだ人間自身が何者なのかも分からないというのに。人間が思考を深めるという行為は、言語表現の限界領域で必死に言葉を探しているようなものなのだろう。精神の限界への挑戦とは、言語の限界への挑戦なのかもしれない。だが、言語を巧みに操れば操るほど、精神を欺き真理から遠ざかる可能性も否めない。したがって、人間は言語能力を獲得した瞬間から疎外に苛むことになろう。そして、酔っ払ってろれつが回らない状態こそ、精神は神聖な領域へと導かれるであろう。
1. 言語の多様性
言語の多様性には様々なレベルがある。各国語があるかと思えば、一つの国でも方言が入り混じる。世代間の言葉の変化もあれば、固有の集団でしか通じない合言葉のような現象まである。多様性はコミュニティの単位で存在し、言葉の縄張りを築きながら、ある種の自己存在論を主張しているかのようだ。そこには、人間の普遍性や一般性なるものが、ある程度存在するのだろう。
文明社会で共通しているのは、異なる話し方をすると話すことができないとみなすという誤った考えが働くという。知識がないと人間性が劣っていると言わんばかりに、仕事の能力で人間性を測るような思考が働くのも事実であろう。多くの民族や社会集団で、自分たちが操る言語が最も優れていると考えるだろうし、その意味では宗教的ですらある。自己存在優位性というのは誰でも夢見るもので、ここに差別の根源があるのかもしれない。絶対的な価値観が見いだせないならば、比較論に陥るしかない。それは、相対的な価値観しか見いだせない知的生命体の宿命であろうか。そして、同時に人間の多様性の原理でもあろうか。言語は、人間が意識した時にはじめて機能し、対比、対称、相対など、物事のあらゆる差異や同一性を認めた時に生じる。
本書は、印欧語族、アフロ・アジア語族、ウラル・アルタイ語族などの分類を紹介してくれるだけでも興味深いのだが、特に興味深い考察は、各国語の中間的な、あるいは過渡的な言語を発見することは難しいということである。方言には過渡的な言葉が入り混じり地域的な境界を見つけることはできないが、国語は比較的境界線がはっきりしている。フランスの文献学者ポール・メイエは、「方言の諸特徴は存在するが、方言は存在しない」と言ったそうな。方言の特徴の境界を辿ることはできても、方言が使われる地域の境界を辿ることはできないというわけか。こうした現象は地域だけではなく、時系列においても生じる。
ちなみに、日本では、島国で境界線がはっきりしているにもかかわらず、日本語自体の変化は凄まじい。明治の文献を読むと、嫌気がさすほど現代語に馴染まない。旧仮名遣い...旧漢字...大和言葉ともなればもう外国語だ。言語の変化は、社会の合理性に則っているのだろう。少なくとも法律が公用語でなければ国家として機能しにくい。一つの共同体における許容範囲内では、様々な多様性を見せるということか。言語は社会的産物というわけか。実はごく稀なケースとして、ベルギーのランブール地方にはドイツ語とオランダ語の過渡的な言語が残っているらしいが...
言語の相違を引き起こす原因は地理的な面が多いようだが、それは民族の移動性と関わりがありそうだ。では、現在のように移動手段が豊富となれば、言語圏の移動や言語そのものの変化は、ますます激しくなるだろう。ましてやネット社会で結ばれれば、わざわざ移動する必要もない。言語の境界が曖昧になれば、そのうち政治的境界も曖昧になるのかもしれない。ということは、政治屋の存在意義とはまったく余計な境界線をつくる連中ということか?未来社会では、民衆が政治システムを自由に選択でき、思想レベルで国籍が選べるような時代が来るのかもしれない。
2. 言語の本質と実体
言語を操るからこそ、あらゆる能力が実践でき、精神の高まりへと導くことができるのだろう。言語活動は、科学から心理学、個人から社会など様々な領域にまたがっており、統一性はどこにも見えない。
本書は、言語能力と言語を対比させながら、言語学を有機的組織として整理しようとする。そして、言語は概念と聴覚イメージが結合して成り立つとしている。
「聴覚イメージは物理的な音ではなく、心理的な音の刻印です。」
言語は目的や手段として作用し、言語能力によって脳内イメージと融合させる。それは受動性と能動性が連動する現象であり、もはや「言語シンボル」などでは表現できない領域にあるようだ。脳科学者が言語能力を左脳にあるとするのは生物学的普遍性であろうか。そして、慣習的合理性によって言語が変化してきたのは経験的能力でもある。言語は人間の普遍性と経験性が融合した結晶といったところであろうか。
「最初の原理あるいは最重要の事実: 言語記号は恣意的である。」
言語の要素を音節などで細かく区切れば、なんとなく単位なるものが見えてくる。しかし、それは言語上の単位ではないという。内的に結びつかないものを単位としても表面的な現象に惑わされるだけで、真の対象が見えなくなると指摘している。確かに、文字表記が言語の実体とは言い難い。言語の現象が内的なものだとすれば、その実体は極めて主体的で抽象的にならざるを得ないだろう。だが、実体を表すからには、何か物理的な要素が必要である。つまり、心的なものと結びつく前の状態のようなモノ。精神を実体で表現するという問題は、古代からある哲学上の問題であって、それを言語学が解決できるとは思えない。言葉の概念と聴覚イメージの結合のあるところに実体があるとしているようだが、心的領域にある実体を表現するには、これが限界であろうか。
実際に、文法に従って単語を羅列するだけでは精神的なものは現れない。だが、文豪たちの文章を冷静に眺めると、きちんとした文法に則っている。文法には内的に伝える経験的な規定があるが、文豪たちは文法を超越した何かまでも仕掛けてくる。それが心的結びつきというやつかは知らんが、実体として説明することは難しい。少なくとも、音や文節の区分などで説明できるものではなさそうだ。
3. 言語の構成と価値の原理
本書は、記号を構成する要素を、「シニフィアン(聴覚的なもの)」と「シニフィエ(概念的なもの)」を結合して定式化する。そこには論理的な思考と心理的な思考の双方が介在するとしている。ちなみに、丸山圭三郎著「ソシュールの思想」では、前者は「意味するもの(表すもの)」(現在分詞)で、後者は「意味されるもの」(過去分詞)としていた。この二つの要素を明確に説明することは難しい。区別するというよりは、対称性から類似性と相補性のようなものとしているのだろう。けして分離できない精神単位のモナドを構成するようなもので、アリストテレス的な精神構造を思い浮かべてしまう。ここには、ソシュールが精神の内にあるものの実体を苦慮しながら言葉を選んだことがうかがえる。研究対象を精神とした時点から、それを実体として説明すること自体に無理があり、哲学の領域に踏み込むことになる。言語学とは哲学だったのか...などと発言すれば、あらゆる学問は哲学に帰するであろう。
更に、言語の心的な結びつきとして価値概念を適用している。意味や意義と価値は同義語にも見えるが、言葉の意味が言葉に価値を与え、力を与えるという関係もある。将棋は、駒に表記される文字の意味を価値に置き換えるゲームで、駒の能力という価値を奪い合いながら互いに優位に立とうとする。単純な道路標識は見事に法律を示す。ビジネス界では、人材の持つ意味から潜在能力という価値を最大限引き出そうとする。精神の介在する領域では、あらゆる表記の持つ意味を、価値に変化させようと企てる。これが、言語表記の原理というものであろうか。
言語システムから価値が導かれるのは、そこに精神が深く結びつくからであろう。したがって、最初にシニフィアンとシニフィエが結びつく枠組みがあるわけではなく、価値との結びつきや心的な結びつきの方がはるかに本質的なのかもしれない。
4. 言語学の二重性、共時態と通時態
言語学がとるべき合理的な形とは何か?価値のシステムでは、時間に沿った価値の原因性と、現在の価値の原因性を分けて分析するのが理論的必然性だという。ここでは経済学が経済史と区分する例と重ねているが、経済学はあまりにも歴史を無視するために奇妙な価値観を創出しているとしか思えん。まぁ言語学は歴史に囚われ過ぎるという傾向があるので、そのことを指摘しているのだろう。そもそも人間は現在という瞬間だけで価値観を構築できないのだから、あらゆる学問において歴史をスライスしてみることは必要であろう。
本書も、静的な事象が生まれるためには、様々な進化的、通時的な事象が必要だとし、静態言語学と歴史言語学の二重性を唱えている。しかし、通時的な要因を疎かにしているきらいがある。一般の言語学に含まれるものの多くは、静態言語学に含まれるとまで言っている。歴史をあまり重視していないあたりが、文学との違いであろうか。
確かに、簿価よりも時価の方がはるかに重要なんだけど...んー、らしくない。
2011-02-27
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