日本文学に「文章読本」という系譜があるのを知ったのは、十年ぐらい前であろうか。
明治から大正デモクラシーに渡って、富国強兵の下で欧米文化が急速に流入し、日本語の口語体までもが欧文かぶれしていったと聞く。小説家たちは文章の乱れに危機感を募らせ、この時代に集中して一つの系譜を築き上げた。そこには、谷崎潤一郎、菊池寛、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一などの錚々たる名が連なる。まず、自ら小説を書くことはありえないので、読者の視点に立つと言われる「三島版」を手に取った。次に、正統派と言われる「丸谷版」を手に取ると、「谷崎版」が格段に力を持った傑作であると絶賛していた。こうして本書に辿り着いたのであった。
ところで、おいらは義務教育の時代に文章のセンスがまったくないことを徹底的に叩き込まれた。したがって、文章を書くことに無神経で、精神を解放する手段ぐらいにしか考えていない。そんな文章オンチでも、ちょっとはうまく書きたいと思うものだ。そして、つい題目に釣られてしまい、自分の文章が悪文の典型と説教されて自己嫌悪に陥るわけさ。無駄な言葉が多い!などと指摘されると頭が痛いが、美味い酒をやりながら気持ちよく相殺されるという寸法よ。前戯の大好きなアル中ハイマーに改める能力があろうはずもない。ちなみに、達人でさえも書き過ぎてしまう傾向があるそうな。なーんだ、酔っ払いのお喋りメカニズムと同じではないか。
本書は、文章の要素を、用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄の六つに種別している。ただし、厳格な分け方ではないという。言語学的にいえば、文章体、口語体、和文体といった文体で分類するのだろうが、ここでは感覚を重視している。また、それぞれの要素は互いに密接に拘わるため、完全に切り離して論じることは不可能だという。六つの要素を、並列的、立体的に思考するのであろう。中でも、含蓄を強調し「饒舌を慎むこと」としている。
「この読本は始めから終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります。」
小説では、精神を露出することを主眼にするであろう。だが、どんなに巧みに表現しても必ず論理的な隙ができる。厳密に表現すれば、言葉も多くなり、芸術性が失われ、せっかくの文章が色褪せる。どんなに誘導しようと企てたところで、読者の解釈に委ねるしかない。精神を表わすには、思わせ振りの方が合理的なのかもしれない。
本書は、文章道で大切なのは理屈ではなく実践であると励ましてくれる。なるべく多くを読み、多くを書き、感覚を研くことだと。これはプログラムを書く心得にも通ずるものがある。プログラミング言語に馴染もうと思えば、優秀なプログラマのコードを読み、まず真似てみることであろう。昔はメモリ使用量という合理性があったが、今では分かりやすさという合理性の方が強調される。
ところで、心に思うことを他人に伝えようとすれば、いろんな方法がある。原始的な身振りや手真似から、溜息や咳き込んだりと。それでも、明瞭に伝えようとすれば言語であろうか。だが、言語は万能ではない。言葉をくどくどと費やすよりも、泣いたり笑ったりする方が説得力があり、沈黙ですら何かを語る。言語は、物事を論理立てて説明するには威力を発揮するが、精神を説明するとなると意外と不自由なものである。精神の奥底にある芸術性や美的感覚を表すには、言葉の達人でもなければできない。酔っ払いが語れば、言葉足らずで誤解を招き、言葉多くて不快にさせる。
ちなみに、独り言にも様々な癖がある。鏡に話し掛けるのも奇妙な癖であろうが、バーに若い女性が一人でやってきて、氷を指で回しながらグラスに話し掛ける姿には感動するぜ。
1. 話術と文章術
文章は、「話すとおりに書く」という意見をよく耳にする。だが、話す言葉と文章の言葉とでは感じ方が違う。話す言葉には、目や顔の表情、身振りなどが加わり、与えられる情報量が多い。対して、文章の言葉は、付加的情報がない分、読者の想像力で補うことになる。どちらが、結果的に情報量が多くなるかは、受け止める側の感覚に委ねられる。
「口で話す方は、その場で感動させることを主眼としますが、文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるように書きます。」
話術と文章術は別の才能に属すという。必ずしも話し上手が文章上手とはならないと。文章の上達法では、「文法に囚われないこと」、「感覚を研くこと」が重要だという。
また、言葉を重ねるほど効果がなく、かえって不明瞭になると指摘している。
「口語体の大いになる欠点は、表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥り易いこと」
まさしくアル中ハイマーはこの呪縛に嵌る。ただ、同じ言葉を繰り返すことが必ずしも無駄とはならない。違った表現を使って同じ意味を繰り返すことも無駄とは限らない。こうした方法で感情を効果的に揺さぶることができれば技となる。凡人が書くと無駄な言葉も、達人が書くと必要な言葉に変身するから摩訶不思議!
2. 実用的と芸術的
文章には、実用的と芸術的の区別はないという。自分の心にあることを出来るだけ素直に表現すること、余計な飾り気を除いて必要な言葉だけで書くことが大切だという。なるほど!
ただ、最も実用的な文章が優れた文章になり、そこに芸術性が顕れるとも言っているが、これはにわかに信じ難い。詩や歌、あるいは綺麗な文字を連ねたり、語調の良い文章が必ずしも実用に近いとは思えない。しかし、ゲーテの韻文のように語調が整っていれば精神に入り込みやすいのも事実だ。ゲーテの言葉がよく引用されるのは、芸術的でありながら実用的というわけか。なるほど、精神の領域で、最も素朴なところに芸術性が現れると解釈すれば納得できる。言葉を操れる境地とは、精神との一体化ということであろうか。達人たちは、キーとなる言葉を掌握するための論理的思考に優れ、考えを構造的に眺めることが得意なのだろう。少なくとも、多くの言葉を知らなければできない芸当ある。
古き時代では、芸術性を意識しながら、わざと実用から遠ざかる言葉を使っていたようだが、口語体が発達した時代では、凝った文章よりも実用的な文章の方が説得力を感じることがある。ましてや、新語や造語、おまけに外来語までも入り乱れる時代だ。本書は、現代の世相はますます複雑となり、分かるように、理解させるように書くことで精一杯であると語る。
「分からせるように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まること」
3. 音楽的効果と視覚的効果
文字の体裁では、字面(じづら)という要素が重要だという。形象文字の威力は独特の視覚的美感を与え、欧米語には真似できないところだろう。達人たちは、漢字や仮名を巧みに混ぜながら、視覚的効果で仕掛けてくる。現在では、フォントや強調太字など多彩なレタリングで、重要事項を視覚的に表現することは容易い。本書は、現代の口語文で最も欠けているのは、「音調の美」であると指摘している。読書では黙読するのが常で、朗読する習慣がなくなったからだという。
「文章道において、最も人に教え難いもの、その人の天性に依るところの多いものは、調子であろう」
文章は、目で理解するばかりではなく、耳で理解するとこもあるので、文章を綴る時は朗読してみるのが良いという。音調から頭に入りにくい悪文が検証できるからである。とはいえ、文章の間合いやアクセントの付け方は読者によって様々で、作者がリズムを意図したところで違った調子で読まれる。
そこで、「音調効果を誘導する方法」を紹介してくれる。様々な読み方がある場合は単純にルビを振ればいいが、多用し過ぎると理智的効果を損なうと指摘している。技法としては、わざと漢字の宛て字を使うと視覚効果が得られるという。例えば、「威嚇す(オドス)、強要る(ユスル)」といった具合に。特に、森鴎外の漢字の宛て方は優れていて、言葉の由来に遡って語源の上から正しい文字を宛てるという。博学でなければできない芸当だ。一方、わざと理解に苦しむ宛て字を使うのが夏目漱石だそうな。例えば、「ゾンザイ」を「存在」と宛てたり、「ヤカマシイ」を「矢釜しい」などと書き、おまけにルビも振らない。無頓着で出鱈目にも見えるが、これが内容にしっくり嵌り俳味と禅味を補うという。もはや論理を超越している。
また、「送り仮名の効果」を紹介してくれる。例えば、「酷い」を「酷ごい」と書くことで、「ヒドイ」ではなく「ムゴイ」と読ませる。「泡を食って」を「泡を食らって」と書くことで、「アワヲクッテ」ではなく「アワヲクラッテ」と読ませる。なるほど、国語辞典に囚われては、できない発想だ。
「日本の文章は読み方がまちまちになることをいかにしても防ぎ切れない」
ところで、いつも悩まされるのが、句読点の付け方である。本書には句読点がほとんど使われない例も紹介されるが、こういう感覚は宇宙人だ。
「句読点と云うものも宛て字や仮名使いと同じく、到底合理的には扱い切れないのであります。」
文章のテンポも重要であろう。達人たちは、わざと思考を立ち止まらせるために、テンポを変えたり、読み辛い調子を交えたりする。音調に限らず文字の形によって変化を加えることもある。作家たちの想像力には脱帽するしかない。とはいっても、すべての読者がその効果を感じられるわけではあるまい。それでも彼らはこだわりを見せる。これぞプロ意識というものか!
4. 語彙の少ない日本語の特色
「われわれの国語には一つの見逃すことの出来ない特色があります。それは何かと申しますと、日本語は言葉の数が少く、語彙が貧弱であると云う欠点を有するにも拘らず、己れを卑下し、人を敬う云い方だけは、実に驚くほど種類が豊富でありまして、どこの国の国語に比べましても、遥かに複雑な発達を遂げております。」
日本語の語彙が乏しいかどうかは分からないが、それは文化的に劣っているのではなく、お喋りでない国民性にあると指摘している。外交交渉が苦手なのもそのせいだと。単一民族というのもあろうが、「以心伝心」、「肝胆相照らす」という伝統がある。現代ではそうでもないが、寡黙を美徳とし、能弁家を蔑むところがある。内気の性格や控えめで謙遜することは、日本では美徳であっても、西洋では卑怯や因循になるという。言葉足らずが執着心がない、短気で簡単に見切りをつけるという印象を与えるのだろうか。日本人は論理的に論じるのが苦手だとよく指摘される。
語彙が少ないと曖昧になりがちだが、その分、漢語や西欧語を容易に取り入れるだけの柔軟性を備えている。とはいえ、政治では奇妙な現象を見る。日本語には「公約」という立派な言葉があるにもかかわらず、「マニフェスト」などと舌のまわりにくい言葉を持ち出す。約束事として説得力がない単語というわけか。そして新語を必要とし、更に政治屋の説得力を失うわけか。高齢化社会で老人を新語で欺瞞しようというわけか。
日本語は和漢混交で発達し、明治時代から西欧語と融合しながら発達してきた。現代人が古典を読むには、同じ日本語でありながら翻訳を必要とするが、こうした現象は西欧ではあまり見られないそうな。日本語は外国語に比べて、流行語の移り変りが激しいらしい。
ところで、翻訳のために、原作の精神を貫き、リズム感のある作品に仕立て上げることもあるという。「源氏物語」は日本人にも分かりにくいと聞く。名文と評する作家も多いが、森鴎外は名文とは言い難いと評したという。しかし、アーサー・ウエーレーの英訳は、原作よりも精密で名訳と評されるらしい。
日本語と西欧語には性格的に相容れぬところがあって、西欧では意味を細かく明瞭に書く傾向がある。ただ、明確に分かりやすく書くということは、想像の余地を奪うことにもなろう。科学、哲学、法律などは誤解を招かないように書く分野で、西欧語の方が向いているのかもしれない。日本語は主語を省略することが多く、時制も適当だが、その点、西欧語はしつこい。ちなみに、特許の文章は主語がしつこい。むかーし、特許の締切に追われると、しばらくその調子から離れられなくなり、会話がぎこちなくなったりしたものだ。
「語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る充分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。」
2011-02-13
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