2011-06-05

"価値と資本(I/II)" John Richard Hicks 著

岩波文庫版の「価値と資本(上/下)」を本屋で見かけたのは、三、四年前であろうか。それが貴重な機会だったことを後で知ることになる。復刊したと思ったら、すぐに絶版になるのだから。手に入らないとなると、欲求は余計に駆り立てられる。ということで、図書館をあさってみた。
本書は、岩波現代叢書版の全二巻で、I巻が1952年発行、II巻が改訂1965年発行というアンバランス。I巻は旧漢字で少々悩まされる。こういう古典こそ電子書籍に期待したい。

J.R.ヒックス著「経済史の理論」には、彼がノーベル経済学賞を受賞した時、次のように語ったと解説されていた。
「そこからすでに抜け出してきた仕事に対して栄誉を与えられたことについては、複雑な心境である。」
経済学者が自らの業績を皮肉るのも珍しい。自分の研究を検証し改めることは、自己否定にもなるので勇気のいることだろう。なんとなく彼の前半の作品「価値と資本」に興味がわく。副題には「経済理論の若干の基本原理に関する研究」とある。この「若干」というところに控え目な様子がうかがえる。
「最後にわたくしは、必要とされる種類の世界観を理論だけから形成することができるとは考えない。われわれが案じて採ることのできる経済哲学に到達しうるまでには、あらかじめわれわれの動学的過程を、資本主義の発展に関するわれわれの歴史的知識と対決させることが特に必要である。」
本書には、至る所に「不完全」という言葉が躍る。経済現象を法則化できないと言い訳めいても映るが、それが現実だ。あらゆる価格が需要と供給の均衡で決まるならば、健全な交換システムが構築できるだろう。だが、需要曲線にしても供給曲線にしても、商品個々によって違えば、経済状況によっても曲線が左右に移動し、厳密には決定できない。方程式が決定できないとなれば体系的理論も色褪せる。そして、できることといったら条件を前提しながら、傾向を示すぐらいか。
一般的には、商品需要が高まれば価格は上昇し、利率も多少なりと上昇する傾向があるぐらいのことは言えるだろう。貨幣の限界効用を不変と仮定すれば、商品価格の下落が需要を高めるぐらいのことは言えるだろう。しかし、現実はそう単純ではない。一次的効果が的確に予測できても、だいたいにおいて二次的効果は逆方向に作用したり、直接的効果と間接的効果で相殺したりする。貨幣は、あらゆる取引の代替物として価値の指標とされるが、貨幣そのものの価値が変動する。本来、貨幣価値と商品価値の間に一定の比率が認められてもよさそうなものだが、これまた将来価値という予測不能な評価が加わる。これらすべては主観的傾向が強い。
更に、価格予想はあらかじめ市場に盛り込まれたりと様々な形で作用する。例えば、証券から貨幣への需要の移動を助長しても、利率の過敏な反応が商品価格の上昇を抑制するかもしれないし、商品需要の増加が貨幣需要と相殺して利率は上昇しないかもしれない。はたまた、富裕層では価格上昇がかえって需要を誘発するかもしれない。おまけに、エコノミストたちが自身満々に語る経済予測が、多くの選好や効用に影響を与えやがる。
となれば、「不完全」を連呼して、愚痴ってないとやってられない。
本書は、「所得効果などの現象から一般的に言えることは何一つない!」とまで言っている。

本書の流れは...
前半部は、欲望と満足の関係から主観的価値を論じながら、ワルラスやパレート流の理論を吟味する。そして、従来の乾燥的な議論が現実の経済から乖離してきたことを回想する。
後半部は、動学的経済学の基礎を扱い、貯蓄と投資、利子と物価、ブームとスランプを対比させながら限界効用を論じる。そして、動学的均衡の結論は、ケインズ理論に近いと認めている。
また、一般均衡経済学において、動学的理論を持ち出したサミュエルソン教授の貢献を讃えている。さっそくサミュエルソンの「経済学」を検索してみると、これまた絶版中か。流れに任せて、次に借りてくるかぁ...

本書の主題は、貨幣、貯蓄、投資の総括的な変化が、価格、生産、利率に及ぼす効果についてである。それは、ミクロ経済の観点から生産、消費、投資などの行動を考察しているが、マクロ経済の足掛かりになりそうだ。
その特徴は、時間概念としての利率の扱いであろうか。つまり、動学的な分析である。長期間で観察すれば、静学的に捉えるのもそれなりに合理性があろう。しかし、経済現象には、過敏に反応する要素、そこそこ柔軟な要素、硬直化した要素など、あまりにも性質の違うものが複雑に絡む。投入と生産、収入と支出、契約と遂行、貸付と返済などを対応させても、同時に施行されるわけではない。時間の経過は価値の変化をもたらし、それを吸収する役割を果たすのが利率ということになる。利率は危険度の指標としての役割もあるが、時間的リスクと捉えてもいいだろう。ちなみに、ケインズは「利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である。」と語った。
ところで、名目利率が常に正を示すのはなぜか?限りなくゼロに近づくことはあるが...利率は人間の欲望を写しだしているのか?何をやっても時間の収支は赤字なので、その慰めのために編み出した仕掛けなのか?いくらGDPがプラス成長をしても、人生の豊かさがプラスになるとは限らない。人間が経済現象を解釈しようとすれば、自然現象から乖離していく。需要と供給は相変わらず非対称性のままだ。実質利率の計算式が機能しているのかも疑わしい。そもそも、真の利率を人間が算出できるとしたら、経済現象は完璧に説明できるのではないか?今日、利率は崇められるほどの信用は得ていない。それどころか、経済学を批判する立場の人々からは悪魔とされる。熱力学ではエントロピーが正になると主張するが、経済学では利率が常に正を示す。人間認識が関与するあらゆる物理現象は、エントロピー増大の法則に従いカオスへ向かうというわけか。

人間が生きるということは消費を意味する。したがって、消費動向を測定することは意義深い。消費者の行動は、欲望と満足によって測られるが、これらを数値化することは難しい。経済学用語で言えば、消費者需要と限界効用ということになろうか。主観性を数値化できるということは客観性で測定することであり、既に矛盾している。これが経済学の最大の問題であろうか。
価値判断とはまさしく人生観を表わしている。それは所得や家族構成などによっても影響され、更に人生観の多様化が進む。したがって、平均的な家庭を対象にした経済政策を施しても特定の所得層にだけ効果を与えるだけで、むしろ不公平を助長することになろう。GDPのような経済指標は、あくまでも平均値に過ぎない。一様分布を示すような状況ならば平均値の意味も大きいが、多様化の進む状況では平均値の意味を汲み取ることは難しい。ましてや格差の大きい社会では平均値はずっと上方にあり、平均値を過信すれば経済刺激策の対象は高所得層に向けられる。富裕層が牽引役となって貧困層を活性化させるという意見もあるが、効果が行き渡る前に不況局面に突入するのが経済サイクルというものである。
一方で、平等という癒し系の言葉に憑かれ、すべての所得層を対象とした経済政策を施そうなどという思考は、社会分析や経済分析を放棄したと言えよう。不況局面であっても、すべての産業が不調なわけではない。好況局面であっても、すべての産業が好調なわけではない。成長する産業があれば衰退する産業もある。経済危機とは、あらゆる財が下落し代替財が存在しないような状況であって、まさしくこうした状況に経済政策を必要とする。
しかし、ケインジアンを自称する政治屋たちは、どんな経済局面であっても不況政策を実施しろ!と叫ぶ。その裏で、特定団体への利益供与、あるいは政治屋と民間団体の癒着構造が見え隠れする。おそらく、ケインズはあの世で呟いているだろう。「私はケインジアンではない!」と...

1. 消費者余剰と限界効用
消費者心理は所得効果の影響が大きいという。必需品に対する購買意欲は一般的な傾向を示すだろうが、所得の違いは代替品の選択幅を変える。
本書は、経済理論のあらゆる法則において、所得効果がなんらかの不完全性をもたらすという。商品の価格設定が高いか安いかという評価にも個人差がある。評価以上に高いと思えば購入を控えたり、あるいは、購入後に後悔したりするだろう。販売側も、ボランティアでない限り、商品を過小評価して販売するケースはごく稀だ。となれば、総効用と総市場価格とのあいだにギャップが生じることになり、消費者は支払い価格よりも効用の余剰を享受することになる。商品が増えれば有難味も薄れ、限界効用は逓減するだろう。需要曲線が右下がりになる根拠がここにあるようだ。贅沢品は限界効用逓減の法則が顕著に現れやすいだろう。必需品は最初から限界に近いだろうから。景気が低迷して物価が高騰しても、必需品なら買うしかない。消費者は奴隷化し、仕舞いには暴動を起こすしかあるまい。いずれにせよ、消費者余剰の総収支は消費者から見て赤字になりそうな気がする。

2. 補完財と競争財
ある商品が、補完財となるか競争財となるかは、個人の価値観で違うだろう。また、価格の変化が、それが補完財になったり競争財になったりと消費者の意識を変えることもあろう。富裕層はより高い質を求め、貧困層はより低価格な代替品を求めるといった傾向もある。はたまた、どんな代替品ですら買えない困窮もある。贅沢さの指標も個人差が生じる。
となれば、商品科目によって経済政策の重みが違ってもよさそうなものである。昔々、米価が経済指標として使われたのはそれなりに合理性があった。現在では、消費税があらゆる物品に対して同率というのが、はたして合理的なのかは疑問だ。ただ、消費税だけで社会の多様性に追従できるほどの指標を示すことは難しいだろうが...
中世では、教育格差、情報格差、経済格差など、あらゆる格差が生まれつき存在していた。個々に能力差があるのは自然であるが、それが運命付けられるのは経済循環の観点からも合理的とは言えない。近代化はあらゆる運命的格差を排除してきた。しかしまた、逆戻りの感がある。競争と協調、自由と平等は、振り子のように揺れ動く。自然界において、あらゆる状態を継続しようとすれば、周期的運動が必要なのだろう。

3. 動学的均衡
静学的に扱う間は明らかにならなかった事が、動学的に扱うと明らかになった事があるという。それは、投入量と産出量の関係で表わされる生産関数が、中間生産物の数量に依存することだそうな。
では、中間生産物の数量や資本量はいかに決定されるのか?それは利率を通じて決定されるという。なるほど、低い利率は、より長い中間過程を促し、中間生産物の数量も大きくなるというわけか。中間生産過程における資本量が利率との関係を与えると言ってもいいかもしれない。
動学的均衡では、利率や為替レートなどリアルタイム的に変動する要素が重要な役割を果たす。ただ、貯蓄と投資が時間的に均衡するのは、ほんの一瞬であろう。長期的な生産計画は安定的な運営をもたらし、長期的な低利率が経済均衡に近づけるのかもしれない。しかし、現実には、低利率のまま低迷した経済が継続中だから頭が痛い。しかも低利率だからリスクも低いとも言い切れない。
本書は、時間的要素を排除してきたことが、利子理論の妨げになってきたと指摘している。
マーシャル流に言えば、こういうことらしい。
「すべての商品について一時的均衡を与えうるほどの短い期間はまず存在しない。
すべての商品の供給がその期間内に調整できるほどの長い期間はまず存在しない。」
経済学は、短期と長期という変数を加えて、ますます混沌へと向かうわけか。政府の打ち出す景気刺激策は打ち上げ花火で終わることが多く、その後の経過ではむしろ悪影響を与えるのもうなずける。となると、ちょっとぐらいの不況では余計な経済政策はやらない方がいいのだろう。普段は国会で揉めてるぐらいで丁度いいのかも。刺激というからには瞬間的に煽るということなのだが、経済危機ともなれば多少の経済的暴力も必要となろう。
ところで、現在では、情報化社会がリアルタイム性を高め、投機行動を煽り不均衡が顕著化する。高度な情報化社会では、情報の優位性が失われ均衡へ近づきそうなものだが...市場に参加するプレイヤーは経済人的価値観が強く、一般社会の価値観ほどには多様化が進んでいないのか?いや、人間の欲望は一方向性が強いだけのことかもしれん!
そもそも、価格変動が予測しやすいのは不均衡状態という矛盾がある。バブル経済では株価が上昇し、経済危機では株価は下落するのは、アル中ハイマーなド素人でも予測できる。したがって、投機屋が不均衡状態を好むのも自然であろう。均衡状態がすべての人々にとって合理的とは言えないのだ。いや、バブル経済が永久に継続するならば、すべての人々にとって合理的だろう。長続きせず、簡単に弾けてしまうから困ったちゃんとなる。しかも、弾力性の許容範囲を軽く超える。その時期を予測することもほぼ不可能で、確率論に頼るしかない。つまり、博奕なのだ。
投機行動を悪魔のように言う評論家もいるが、投機にも経済循環の役割がある。投機行動は、対象物への思い入れを排除して価格の高下のみに反応するので、機能すれば客観的な価値を与えるかもしれない。機能すればだけど...そうなれば、群集心理を出し抜いて儲けようなどという恣意的な影響も薄れるかもしれない。アノマリーな現象も減るかもしれない。クリスマスのようなイベントは景気刺激策としての役割も大きいのだが...

4. 利子と流列
経済現象を形成するすべての要素が同等の弾力性を持っているわけではない。証券取引所では、休日もあれば取引時間外もあって、その間にエネルギーが蓄積される。商品では、投入から生産までの過程を通さないと市場に現れないので、必然的にタイムラグが生じる。投入では、労働力や設備投資などが絡むため、生産計画は将来予測を盛り込んだ緻密なものとなろう。在庫管理はそれだけで企業存亡にかかわるので、生産者はリスクを考慮して市場動向をうかがいながら投入量と生産量を決めることになる。タイムラグがあるにせよ一度の投入が一度の生産に対応するような単純な関係であれば、まだしも手に負えそうだが、現実には一対多、多対一、いや、ほとんど多対多という関係であろうか。
そこで、流列の概念が導入される。ちなみに、流列とは、資金の正味額を時系列に並べたような関係とでも言おうか。設備投資などの効果を評価するためには、投入時点や収入と支出の差額の流れなどを時系列で追うようなことが求められる。その特性を眺めていると、微積分が有効な手段となりそうだ。動学的現象の静学的考察といったところか。企業でいう「資本効果」は、消費者でいう「所得効果」に位置付けられるかもしれない。人員や設備投資などの投入は生産工程以外の要素にも絡むので、かなり複雑な関係がありそうだが...
また、利子変化の理論は価格変化の理論よりも、はるかに困難な事情があるという。価格は、現在価格と予想価格の間で断続的に変化する。それは、売られる時期からずれることによって生じるぐらいなものか。対して、利子はあらゆる継続期間の貸付に対する割引率の変化だという。割引価格の系統的な変化はあるだろうが、資金調達などが絡むと借入利率も考慮しなければならない。

5. 不完全な安定性
本書は、一時的という条件付きで「不完全な安定性」を唱える。そして、企業単体や私的個人を分析することによって、それが経済全体系の分析に移行できるとしている。基本的にはミクロ経済の延長上にマクロ経済があるのだろうが、にわかに信じ難たい。
とはいっても、10年前なら簡単に納得していただろう。経済学拒否症のおいらが、独立して少しづつ経済学を勉強するようになると、しばしばミクロ経済とマクロ経済で逆方向のエネルギーが働くことに気づかされる。個人の行動は容易に予測できても、群衆化するとまるで予測できない干渉現象のような別のエネルギーが生じるのだ。物理学で言うと、素粒子単体では運動力学で説明できるのに、群集では波動性を持ち出さないと説明できないのと似ている。現実に、超エリートたちが考案した経済政策はしばしば裏目になる。経済現象を形成するすべての要素が同等の弾力性を持っているならば、本書が言うように不完全性でありながらも力学的には均衡へと向かうだろう。そして、利率の変化が、ある許容範囲においては不安定を抑制する方向に働くだろう。価格の変化も、需要と供給の関係も、ある程度は均衡化に寄与するだろう。
しかし、いくら価格や利率に柔軟性があっても、労働賃金は硬直化する。実質賃金では低下することもあろうが、名目賃金の低下を労働者は絶対に許さない。そうなると、賃金変動は失業者の変動で調整するしかない。だが、安易に労働者をクビにすれば企業イメージを悪くする。したがって、ある程度の自発的失業は社会にとって不可欠となろう。
ケインズは失業と経済均衡の関係を考察した。悲しいかな!安定要因の一つに失業の存在は必要という考えは、本書も認めている。人間に欲望がある限り、新たな工夫を創出し続けるだろう。そして、失敗を繰り返さなければ成長もありえない。経済成長を促すには、ある程度の景気変動は必要であろう。だが、ケインズはすべての財が一斉に暴走することを示した。ユートピアな世界を構築しようとすれば、あらゆる欲望を放棄し、あらゆる認識を放棄するしかなさそうだ。そして、麻薬漬け人生こそ幸福というものか...

0 コメント:

コメントを投稿