2011-06-26

"人口論" トマス・ロバート・マルサス 著

人口の推移には、古くから非線形の問題がある。そこで、実践的な方法として、政治算術という統計学的手法がある。最初の科学的分析は、ジョン・グラント著「死亡表にもとづいた自然的政治的観察」(1662年)あたりであろうか。これは、ロンドン市で死者数を集計することによって、ベストの流行を予測しようとしたものである。彼は、死亡だけでなく出生についても研究し、人口増加は64年ごとに倍増すると結論付けた。実際には、非線形的でもっと抑えられ、環境の変化で人口増加率も変動する。
一方、T.R.マルサスは、人口増加率は人口自体に依存すると主張した。そして、人口は幾何級数的に増加するが、食糧生産は算術級数的つまりは一定の公差しか増加しないとした。すなわち、人口増加がいずれ食料増加を上回り、深刻な食料危機が訪れるとしたのである。マルサスは、貧困の原因を人口問題と絡めた。しかし、多くの経済学の書はマルサスをいまや過去の遺物として扱う。それは、爆発的な人口増加が引き起こした産業革命を経て、技術革新によって莫大な人口を養うことができたからであろう。ただ、経済学が、伝統的に失業問題を疎かにしてきた根源がこのあたりにあるように思えてならない。
地球空間に限りがある以上、人間社会はどこまでの人口増加を許容できるのか?このまま人口増加を続ければ、あらゆる土地は農地とされ、人々は高層ビルに押し込められるだろう。土地の有効活用においても、農地もまた地下深く潜り、あるいは高層化するだろう。あるいは富裕都市は浮遊都市となるのか?
いずれにせよ、いつかは限界に達し、食糧危機、資源不足、エネルギー不足に喘ぐだろう。そして、人間社会は秩序を失い、原始時代へと回帰するのか?その魔のサイクルから逃れるには、技術革新によって宇宙へ飛び出すしかあるまい。かつて先進国が海を渡って植民地を追い求めたように。人類はいまだ消費を煽るだけの経済政策しか見いだせず、持続可能な経済システムを作り出せないでいる。やはり永久機関の実現は不可能なのか?

経済学の系譜を遡れば、マルサスはアダム・スミスを受け継ぐ過渡期に位置づけられる。このあたりの古典派時代は、宗教改革の余韻が残り、倹約を善とし浪費を悪とする思考が強いようだ。倹約といっても、私欲のために財貨を貯めるという意味ではなく、経済循環に貢献するような効率的に金を使うということである。自由放任的な思想も、啓蒙思想に対する反発という形で現れ、極端に自由を崇めるような感覚ではないようだ。
同時代を生きた経済学者では、デヴィッド・リカードと対立的に論じられるのを見かける。実際、二人は対立していたそうな。そして、リカードの方が重要人物として扱われるようだ。確かに、リカードの「比較優位説」を知った時は目から鱗が落ちる思いであった。だが、「人口論」も称賛に値するだろう。それは、現在の社会問題を語っており、その先見性に感服せざるを得ないからだ。「人口論」という題目からしても社会学に属すと言った方がいい。その内容も資本理論や経済循環について語っているわけではなく、経済学に社会学的観点を与えたとも言える。マルサスには、資本理論に没頭した経済学者には見えないものが見えていたようだ。

人類史において、自主的に人口抑制をかけた例はあまりない。戦争や大量殺戮や流血革命、あるいは疫病や気候変動といった人間の不徳と運命的な不幸によって抑制がかけられてきた。現在では、アフリカなどの途上国で人口抑制政策がとられているが、これも国家による強制である。政治的な抑制は奇妙な思惑が絡むので好ましいとは思えないが、こうした風潮は広まるかもしれない。先進国で高齢化社会を迎えて人口安定期に向かう一方で、なおも発展途上国の飢餓が共存する。ただ、富の増加が必ずしも生活環境を良くするわけではない。家族が扶養できないとなれば、結婚をためらうか、子供をつくることをためらうだろう。老後の面倒をみさせるために子孫を残す者もいるだろうが、そんな思惑はだいたい外れるものだ。そして、自主的な傾向として晩婚化や非婚化といった現象が生じる。資本が雇用しうる人口に比して過剰となれば、経済も圧迫される。「人口論」の原理は、まさしくこうしたところにある。
人口が増加するということは、無理やりにでも仕事を創出しなければならない。犯罪の存在は、それを監視する仕事を創出する。ネット社会でウィルスが蔓延すれば、セキュリティ業界が繁盛する。戦争の根絶は、その代替として周期的な飢餓をもたらすだろう。そして、善悪が共存する中で、弱肉強食によって経済循環をもたらす物騒な社会となる。未来社会では、経済刺激策として、影で犯罪やテロや戦争を仕組むことになるかもしれない。いや、既に過去にもあったかぁ...

1. ゴドウィンとコンドルセの批判
本書の特徴は、ゴドウィンとコンドルセの批判書にもなっている。というより、その性格の方が色濃い。名指しせずに皮肉っぽくするとか、もう少し抽象的に綴れないものか。わざわざワイドショーに付き合うこともなかろうに、ちと惜しい気がする。まぁ、読んでる分にはおもろいけど...マルサスは、啓蒙的理性で徹底的に論駁されたようだ。啓蒙思想の全盛時代、よほど感情的風潮に嫌気がさしていたのだろう。後に、カントが三大批判書で攻撃する分野でもある。
科学界ではニュートンの影響力が強く、あらゆる宇宙現象はいずれ科学が解明するだろうと言われた。その意識は現在でも受け継がれるが、科学の進歩は永遠で、ムーアの法則が永遠に続くと考えられた。これを精神面で拡大解釈すると、人間の認識能力は永遠に高められ、いずれ神に登りつめるだろうとなる。身体は次々と病原菌を凌駕しながら寿命を延ばし、ついには人間は完全な理性と身体を獲得して社会は完成するだろうと考える。経済学的に言えば、自由放任思想によって、いずれ経済システムは自然法則によって完成するというわけだ。ゴドウィンとコンドルセの思想の根源には、「人間の完成可能性」なるものがあるという。そして、嫉妬、悪意、復讐という類いの精神は、すべて制度の産物としているそうな。いささか乱暴な議論である。
対して、マルサスは、あまりに完全で理想的な模範は、改善を促進するよりもむしろ阻害するという立場をとる。そして、社会の必要労働を全員に仲良く配分することは不可能としている。
ここでは、人口増加による人間社会の枯渇が、収穫逓減の法則を語っているようにも思えてくる。そして、その先にケインズ的思考が見えてくる。実際、ケインズはマルサスがセイの法則を否定したことを高く評価したという。資本主義は、資本の循環による自然増殖システムとして成り立ってきた。いや、自転車操業システムと言った方がいいか。その循環システムの中で、人間精神は本当に進化しているのか?人類は、神に近づこうとしているのではなく、悪魔になろうとしてはいないか?そもそも、人間という有機的な構造体に無限論が適応できるのか?本書はこうした疑問を投げかけているような気がする。

2. 二つの公準
本書は、二つの公準から組み立てられる。一つは、人間の生存には食料が欠かせないこと。二つは、男女間の情念は自然であり必然であるということ。この二つは人間が生きる上で不変であるとしている。ここでは情念と表現されるが、情欲と言った方がいいかもしれない。情欲と理性ではどちらの方が強いかと問えば、そりゃ情欲だろう。人間社会で最も理性が高いとされ、しかも、それを自負する政治屋たちですら脂ぎった欲望を公然とみなぎらすのだから。一方で貧乏だからといって、性的欲求が減るわけでもない。貧乏子沢山と言われるが、昔は子供も労働力の一員であったから、それなりに合理性はある。避妊対策も貧乏ほど難しい。人間は、世界を愛し、人間を愛し、子供を愛し、...と、あらゆる愛を美徳とする。そういえば、バリバリの実業家は不倫する確率が高いという話を聞いたことがある。創造欲と性欲の根源は同じということか。避妊技術が進化すれば、情念が衰えなくても望まない出産は減るだろうけど。
人間の情念は、人口増加の方向にバイアスをかけるだろう。生物学的には、過去に存在した動物や種族が、性欲を減退させて自然消滅した例がある。生活環境が劣悪となれば、人類もそうなるのかもしれない。寿命が短く流産や夭逝も珍しくない時代に早婚が奨励されたことは、それなりに合理性がある。寿命が延びれば結婚年齢が上昇するのも、それなりに合理性がある。ゴドウィンは、男女間の情念はいずれ理性的に消滅すると主張したという。本書は、二つの公準から次の帰結を導いている。
「人口の力は、人間のための生活資料を生産する地球の力よりも、かぎりなく大きい。人口は、制限されなければ、等比数列的に増大する。生活資料は、等差数列的にしか増大しない。」
生存手段が豊かになれば人口は増加傾向を示し、その結果、人間社会に不均衡が生じ、なんらかの抑制する作用が働くという。その作用とは、紛争や伝染病といった人間の不徳と不幸である。そして、そう遠くない将来、人口を生活資料の水準に等しく抑制する必要に迫られるとしている。

3. 農業と工業の優劣
農業と工業はどちらも商品を生産する産業である。だが、人間が生きる上では喰うことが最優先なので、農業の方が優位であっても良さそうな気がする。
しかし、工業の方がはるかに付加価値が高く、軍備に直結するので、手っ取り早く国力を増大させる。そして、先進国は工業化を推し進め、農作物を輸入に頼る傾向がある。工業化は、工業労働者の所得を上昇させ、農業労働者の所得を虐げてきた。ただ、この時代では、特にフランスのエコノミストたちから、生活必需品を生産する農業は生産的労働とされ、工業は不生産的労働とされ、工業労働者を見下した感覚が残っているようだ。当時の工業市場が不安定なのに対して農業市場が比較的安定していたこともある。第一次産業と第二次産業で分類されるのも、その余韻であろうか?「不健康な製造工業」と表現するあたりは、マルサスの資本者階級への嫌悪感が表れている。
食糧不足はそのまま社会問題となるので、伝統的に政府が使命感を持って農業に介入してきた。それだけに、その性格も保守的になりがちで、現在では余計な政治介入が癒着と化す。地球の未来像を想像すれば、農業優位に回帰し、保守と革新という性格も入れ替わるかもしれない。

4. 救貧法批判
いつの時代も、新興市場は保守派から批判的な目で見られがちだ。産業革命期では、工業の勢いが資本者階級を勢いづけ、労働者をますます隷属的にし、階級間の対立を激化させた。社会不安が蔓延すると、金儲けや金持ちは悪徳とされ、平等を崇める社会主義的な活気が沸き立つものである。そして、生活補助などの社会保障制度の整備が叫ばれる。ちょうどこの頃、フランス革命の気運がイギリスにも伝播したという。
本書は、イングランド救貧法が穀物価格の高騰と貧困を助長する元凶だと指摘している。特に教区法を廃止すべきだと訴えている。この法律は、部分的な成功はあっても独立精神を損なう傾向が強く、自由と平等の真の原理を破壊したという。教区の食糧を期待して結婚したり、自分の子供に不幸を与えながら他人に依存するような風潮が現れたそうな。
また、経済循環を弱めることなく極端な層を一定程度に減少させることは、不可能かもしれないとも言っている。餓死寸前の困窮の存在は、人口過剰の警告として作用するとしている。
「われわれは社会から富と貧困とを排除することをおそらく期待しえないけれども、それでも極端な層の数を減少させ、中間層の数を増大させる統治様式を見いだすことができれば、それを採用するのは、うたがいもなくわれわれの義務であろう。」
生活保護のような政策が、ある程度貧困層の救済に役立つのは間違いないだろう。だが、自立精神を促すものでなければ、再起する意志までも砕かれる。ここが補助金政策の難しいところで、下手をすると単なるバラマキ政策となり財政を圧迫するだけで終わる。また、貧困層の生活が多少なりと改善されれば、物価を高騰させるだろう。そうなると貧困層を拡大するという負のスパイラルに陥るかもしれない。貧乏が明日の活力を生み出すところもあるので、必ずしも悪とは言えない。自立を目指す貧乏ならば名誉であるが、他人にたかる貧乏は不名誉といったところであろうか...

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