2011-06-12

"サムエルソン 経済学(上)" P.A.Samuelson & W.D.Nordhaus 著

しばしば、経済政策は富める者を一層豊かにし、貧しい者を一層貧困に追い込む。そして、特定地域に飢餓まで生みだしてきた。現在の市場経済が、金融支配を強めていると感じている人も少なくないだろう。経済が奇妙な方向へ向かってはいないか?と疑問を持ち始めたのは10年ぐらい前であろうか。そして、最も毛嫌いしている学問の書を少しずつ読むようになった。市場経済を少しでも理解するために株式投資にも手を出し、泥酔者心理が投機的行動に向かいやすいのも実感している。
科学的分析とは、現象を説明する時に余計な解釈を排除し、ひたすら真理の探究に努めることであろう。しかし、エコノミストたちは、わざわざ余計な解釈を持ち込んで混乱させやがる。せっかく過去の偉人たちが、優れた着眼点やアプローチ法を提案してきたにもかかわらずだ。その根底には、イデオロギーから脱皮できない複雑な思考回路があるからに違いない。経済学ほど「合理的行動」という言葉を強調する学問も珍しいが、自ら合理性を放棄するかのようでもある。人間は、金が絡むと本性を剥き出しにして冷静さを失うというわけか。実にもったいない学問である。
...というのが経済学の印象である。
ところが、本書はそんなイメージを少し変えてくれる。
経済学系の書を眺めていると、時々サムエルソンを讃える言葉を見かけるので、前々から目を付けていた。しかし、分厚い大百科事典の風貌が威圧感を与える。それでも、図書館で恐る々々近づいてみると、意外にも嵌ってしまった。なるほど、経済学の教科書と言われるだけことはある。用語の説明が丁寧なのがいい。経済学は用語の定義を疎かにしがちだが、その意味で異質である。ケインズの「一般理論」が、経済学を専攻した人ほど読み辛いというのは本当かもしれない。
「経済学とは、さまざまの有用な商品を生産するために、社会がどのように希少性のある資源を使い、異なる集団のあいだにそれら商品を配分するかについての研究である。」
最初に出会うべき書であった。随分と遠回りしたものだ。この書が絶版中とはなんとも惜しい!

本書で、まず気づかされたのは、経済学用語が異質だということである。
例えば、「限界」とか「性向」といった言葉のニュアンスが、本来の日本語とまるっきり違う。
「限界」は、ある一単位の増加に対して、何かが増加する量を示す場合に使う。限界というよりは「より均衡」ぐらいでいいだろう。「限界費用」で言えば、生産量を一単位追加する時、その分の追加費用を意味する。これは、単位生産量に対する費用の変化量であって、関数の傾きや勾配を示している。そして、導関数で簡単に求められることがすぐに分かる。つまり、費用関数の微分が「限界費用」である。「限界消費性向」で言えば、消費関数における単位あたりの勾配ということになる。本当に限界に達するという意味では、傾きや勾配がゼロに近づいて関数が平らになる部分ということになる。
「性向」は、精神的傾向というよりは比率の意味合いが強い。「消費性向」で言えば、消費に向かう意欲といった精神的傾向に思えるが、実は可処分所得のうちの消費の割合を指す。つまり、消費性向 + 貯蓄性向 = 1 の関係にある。単に、可処分所得に対する消費率や貯蓄率で良さそうなものである。ただ、精神的傾向を数字で表すとなれば割合ということになるのだろう。それも、分からなくはないが...
ちなみに、国会討論で消費性向の議論がされると、酔っ払いにはチンプンカンプン!彼らの議論から乗数効果との関係がまったくイメージできない。本書は、このあたりも説明してくれる。そして、「インフレ」にも専門家によって解釈の違いがあることを指摘している。インフレ率が明確に定義できてもインフレそのものの判定は、消費者物価指数や生産者物価指数、あるいはGDPデフレータなどでなされ、しかも、これらの指数は前年度比で示されるに過ぎない。したがって、指数自体にどこまで妥当性があるのかを判別するのは難しく、インフレかデフレかも様々な見解が入り混じる。そして、明らかにインフレ、明らかにデフレとなって見解の一致をみるので、経済政策は手遅れになりがちとなる。こうした曖昧な解釈が氾濫した状況でインフレ懸念といった議論がなされるから、経済政策が混乱するのも仕方があるまい。
...なるほど、本書を読めば、チンプンカンプンな経済討論がだいたい翻訳できそうだ。ちょいと前までは、マネーサプライを貨幣供給量と表現することにも違和感があった。「選好」や「効用」といった言葉もとっつきにくい。「好み」と「満足」でだいたい表現できそうだが...
本書の翻訳では、spending(支出)やcrowding out(押し出す)などをカタカナのまま残すという配慮がなされる。やはり微妙にニュアンスが違うようだ。経済学はほとんど欧米からの輸入であり、用語を日本語に当て嵌める難しさがある。それは、どの学問でも見られる傾向であるが、特に経済学では普通の言葉が奇妙な専門語化しているところに、より混乱を招く要因があるように思える。経済学者の感覚が一般から乖離していて、それが翻訳語にも現れているのか?それとも、経済学者は、普通の言葉に風変わりな意味合いを持たせながら、専門の縄張りを築こうとしているのか?一般人を締め出すには最高の方策ではあるが...

経済報道がチンプンカンプンなのは、経済学の専門性が高いのだろうと思った時期もあった。だが、ちょいと考えてみれば、経済ほど日常生活に直結するものはない。所得がなければ生活もできないし、収入があれば消費と貯蓄の割合を考えるのは当たり前だ。あらゆる流通や職業は、需要と供給の関係から生じる。実は、経済学ってあまり専門性がないんじゃないかい?
人々は、家計や所属する企業など個々の構成体としてミクロ経済学と直接的に拘わり、財政赤字や税制や国際貿易など選挙の争点でマクロ経済と間接的に拘わる。したがって、マクロ経済の方が専門性が高く、政治屋や報道屋によって欺瞞されやすい。おまけに、情報の偏りは思考を偏重させる。結局、民主主義は報道の奴隷になるしかないのか?
政治屋たちは、互いの経済知識がないことを罵り合い、国会は経済用語の試験場と化す。しかし、考えようによっては、それで経済政策が先送りされるのは最善策かもしれない。基本的に経済政策への期待度は乗数効果的なものが大きい。つまり、失策もまた乗数効果を発揮するだろう。くだらない経済政策を実施するぐらいならば、何もしない方がマシということになりそうだ。そして、自由放任思想は永遠に活気づくわけか。大方の経済政策は、需要と供給のメカニズムに対する善意によって実施されるが、それが未熟なためにしばしば非効率を生み出す。特定業界へ利益をもたらしても社会全体として不況になるばかりか、優遇したはずの産業ですら打ち上げ花火で終わり、産業自体を壊滅させてしまうことも珍しくない。おまけに、再建意欲までも失わせ、補助金をたかる構図が完成する。
それは、重商主義時代からの経済政策の伝統であろうか。マクロ経済学は、いまだ失業のメカニズムを説明できないでいる。人間社会が高度化、複雑化するほど、インフレと失業が同時に克服できないのは、それが真理だからであろうか?政府の経済政策は、迷走を続けるしかないのか?おまけに、国が富めば財政赤字は慢性化するしかないのか?それは、時間の収支や人生の収支が常に赤字であるように...

1. 経済学のパラドックス
マクロ経済の現象が、しばしばミクロ経済では正反対の現象になる。個人や企業体にとって好ましいことが、社会全体としては好ましくない方向に作用することは珍しくない。
本書は、それを「節倹のパラドックス」「合成の誤謬」で紹介する。マクロ経済学で分かりにくいのは、貯蓄が投資と一致するという考え方であろうか。貯蓄が増えることは個人的にはありがたいことだが、全体ではそれが投資に向かわなければ経済循環は硬直化する。家計(ミクロ的)では、貯蓄した分がすべて投資に回ることはない。貯蓄が増えれば投資も増える傾向にあるだろうが、通帳の残高を眺めて快感を得る人もいるだろう。投資量が貯蓄量と同じになるという考えは、安易過ぎるような気がする。
しかし、マクロ的には、その年度の投資の追加量から貯蓄の追加量が決定され、政府支出が総投資量へどのように刺激されるかという議論が盛んに行われる。それは、国の貸借対照表からある程度は理解できる。実際に、行政は予算の全額を消化しなければならないと思っている。ただ、経済政策を決定する政府与党を選択するのは有権者であり、ほとんど家計感覚で経済政策を眺めているだろう。民衆が、まともにマクロ経済学を勉強するわけがないのだから。となれば、政治屋や報道屋は、民衆にいかにミクロ経済との違いがあるかを説明する義務があろう。しかし、当選しか考えない政治屋は良いことしか言わないし、それを信じて民衆は一票を投じる。結局、国家財政は悲惨な方向に向かうしかないのか?国債の累積赤字がGDP比200%になるのを知れば、世論はなんとなく増税の必要性を認めるだろう。海外からも増税を指摘されるとなれば、デフォルトの危機か?と不安にもなろう。昨年6月のサミットで財政赤字目標が掲げられ、日本が例外扱いされたのは不名誉であるが、そんなことは言ってられない。だが、大震災に遭遇してもなお、相変わらず国会は揉めている。これぞパラドックスだ。

2. 経済学の基本原理を抜粋すると、こんな感じであろうか...
(1) 経済循環の源泉は貨幣
貨幣が登場してから経済学が誕生したと言ってもいいだろう。貨幣は交換の潤滑油となり、仮想社会を構築した。古代から、偽造貨幣を製造して敵国の経済を破綻させようと目論んできた。現在では、電子マネーの登場などで更に利便性を高め仮想化を拡大する。金融社会は、貨幣供給に乗数効果をもたらし、ますます実態経済を曖昧にする。

(2) 基本的な原理は、需要と供給の関係
求める者がいなければ、価値という概念も成り立たないだろう。

(3) あらゆる傾向は、「収穫逓減の法則」と似た状況にある
限界効用も逓減の法則に従うという。成長はいずれ息切れし、資源や資本もいずれ枯渇するだろう。人口も増加傾向にある。こうしたことを相殺してきたのが、産業革命などの技術革新であった。では未来は?

(4) 乗数理論的な現象
莫大な人口社会では、経済効果は善し悪しにかかわらず乗数的な傾向を見せる。それは世論の反応も同じだ。

(5) 莫大な人口増加に対応するためには、無理やりにでも職を生みだす必要がある
利便性が高まれば仕事が減って楽になりそうなものだが、その分失業も増える。高度な情報化社会が利便性をもたらせば、情報漏洩やコンピュータウィルスなどの高度な社会問題が生じる。いまやセキュリティ対策は当然だという風潮があり、無防備な者が悪いと煽りながら強迫観念にまで押し上げて、セキュリティ業界が繁盛する。これも必要悪なのか?まさか、ウィルスをばらまいているのは、セキュリティ部門じゃねぇだろうなぁ...

(6) 自由と平等の綱引き
どちらも美しい言葉だけに憑かれやすい。

3. マクロ経済学
ジェームス・トービン曰く、「総じて経済の目的と言えば、現在または将来の消費のための財貨またはサービスの生産である。私は思うに、挙証責任は常に、生産増加でなく減少をはかるもの、利用できるはずの人間なり機械なり土地なりを遊ばせておくものの側にある。この種の無駄を正当化するために如何に数多くの理由が発見できるかは驚くばかりだ。たとえば、インフレの心配、国際収支の赤字、予算の不均衡、国の過大な負債、ドルへの信頼の喪失などの理由がそれである。」
マクロ経済学を本格化させたのは、経済に対して政府介入の必要性を認めさせたケインズ革命である。マクロ経済が右肩上がりの成長を続けていれば、民衆は個々の構成体のミクロ経済だけを気にしていればいい。だが、経済が息切れをすると、政府介入が必要となる。とはいっても、政府介入の度合いを決めるのは難しい。政府に積極的な役割を求めるか静観を求めるかは、経済学派で最も意見の分かれるところであろう。景気動向によっても介入レベルが変わってくる。景気動向の指標では、GDP、雇用率、インフレ率、輸出額などに注目する。
今日よく見かける議論は、潜在的生産力との比較でGDPギャップであろうか。尚、本書は、時代からしてGNPを用いている。ただ、GNPだけでなく、経済純福祉の概念を取り入れているところに注目したい。経済的に豊かになると余暇の時間が増える。人生としては、こちらの方が贅沢であろう。だが、福祉度が上昇して心理的に満足しても、GNPは下がることになる。これを経済指標としてマイナスと捉えるのはいかがなものか、と疑問を呈している。
更におもしろいのは、GNPの議論で、通常の経済学では扱われないアングラ経済の重要性を指摘している点である。ところで、GDP指標には、アンダーグラウンド的な領域はどこまで反映されているのだろうか?麻薬取引やマネーローンダリングなどを加えると、病院や弁護士の需要が高まるだろうから間接的に含まれているのだろう。いや、裏社会はほとんど表沙汰にならないはずなので、それらを加えるとGDPが倍に跳ね上がったりして...政治屋が、ここぞという時に根拠もなく名目GDP目標を高く設定できるのは、裏社会を体験的に熟知してのことか?

4. 経済政策
主な政府政策は、財政政策、金融政策、対外関係、所得政策の四つだという。
財政政策は、政府支出と課税の調整である。政府支出は、公共事業などで雇用を創出する場合など、経済全体の支出にも関係する。景気刺激策として課税を減らせば、消費意欲を刺激できるだろう。租税項目で、投資課税優遇措置などで減税の特典を与えれば、投資誘導もできるだろう。
金融政策は、貨幣量を調整することにより間接的に利子率を変動させ、GDPの縮小やインフレ抑制をする。
対外関係は、通商政策によって自国の貿易に影響を与える。その主な手段は為替レートの調整である。
所得政策は、より正確には賃金物価政策と呼ばれるという。インフレを抑制する伝統的な方法は、政府が財政政策や金融政策を用いて経済活動を減速させ、失業率を高めるという荒療法であった。だが、民衆の支持は得られないので、政府は失業率を抑制しながらインフレ抑制を模索してきた。賃金の引き下げは労働者が抵抗する最も厄介な方策であり、今日ほとんど耳にすることはない。
ところで、アメリカの政策担当者は、極端にインフレを恐れる傾向にあるように映るのは気のせいか?インフレ傾向が生産や雇用を過剰にし、いずれしわ寄せがくるのは明らかで、資産価値を目減りさせる恐れがあるので、その気持ちも分からないではない。とはいえ、アメリカは高い失業率を維持してきたという現実がある。
「指導者が、合衆国で民主党員であるか共和党員であるかの別なく、イギリスでは保守系、フランスでは社会主義系という違いがあっても、国は、失業とインフレーションとのあいだの短期的な競合的選択を免れることはできない。すべての国民が学んだことは、物価と賃金が自由市場で決定される経済においては、インフレ率を削減する政策のためには高失業率と大GNPギャップという高い代償を払わなければならぬという教訓である。」
経済が成熟するほど、インフレと失業を同時に克服できないのは、それが真理だからかもしれない。

5. 乗数理論と貨幣供給の仕組み
乗数モデルは数学的には単純である。
例えば、追加的所得に対して、3分の2が常に消費されるとすれば、乗数連鎖の合計は以下のようになる。

 1 + 2/3 + (2/3)^2 + (2/3)^3 + ... = 1/(1 - 2/3) = 3

この乗数効果は、投資と産出の関係にも適応される。
更に、銀行の貨幣供給の仕組みが乗数効果と絡むと、興味深いことになる。銀行の準備金は、預金の支払いに対して備える金額で、実際には3%から12%で規定されているという。仮に10%としよう。ある人が1,000ドルを預金すると、銀行は100ドルだけ準備金として保持し、900ドルをどこかに投資して利子率を稼ごうとする。投資先がその900ドルを更にどこかの銀行に預けると、その準備金で10%だけ保持しながら90%をどこかに投資できる。それを繰り返せば、数学的には貨幣供給量がたちまち10,000ドルになるという。

 $1,000 x (1 + 9/10 + (9/10)^2 + (9/10)^3 + ...) = $1,000 x (1/(1-9/10) = $10,000

なんとも奇妙な話だ。少なくとも財務表では、貨幣量は増殖することになるのだから。金融業は一般企業とは違った対応が必要なのだろう。だが、現実には政治的に癒着しやすい構造がある。無理やり国債を引き受けさせられるという気の毒な面もあるけど。
貨幣量の仮想化が加速すれば、政府の貨幣政策も効果を失うだろう。そうえいば、中国は金融引き締めのために、銀行準備金を史上最高水準まで引き上げたりしているなぁ。別の仮想化の思惑があるのかもしれないが...
ところで、貨幣の発明者は偉大である。なにしろ、価値を永遠に増幅させる仕組みを作り出したのだから。人間は、価値を知らないから、無理やり価値評価して満足感を得ようとする。そりゃ、実体のないものに憑かれるわけだ。人間社会が仮想化に邁進するのは、それが精神の本質だからかもしれない。
オスカー・ワイルド曰く、「冷笑家(シニック)とはどんな人間か。それは、あらゆるものの価格を知っていて、何ひとつ価値を知らぬ人間のことである。」

下巻へ続く...

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