2011-06-19

"サムエルソン 経済学(下)" P.A.Samuelson & W.D.Nordhaus 著

上巻の続き...

経済学は「おニュー」がお好き!
「新古典派」って新しいんだか?古いんだか?「新自由主義」ってどんな自由なんだか?「ニューケインジアン」なんて、ほんの少し改良されたぐらいにしか見えない。それを言い出したら、「ニュープラトン」や「ニューデカルト」など世間は騒がしくしょうがない。「ニューニュートン」なんて言い出したら、ろれつが回らない。大して新しくもないから、わざわざ強調するのか?合理性を強調するのも、そこに大した合理性がないからか?はたまた、他人の出資までも含めておきながら、「自己資本」とはこれいかに...縄張りを強調しているのか?経済学者は寂しがり屋なのだろう。そういえば、80年代頃に流行した「ニューハーフ」という言葉は今も使われるのだろうか?ちなみに、アル中ハイマーは「ニューボトル」に弱い!

時代背景に照らせば、過去の経済学者たちの考えはそれなりに納得できる。
重商主義は、封建的束縛から民衆が解放されつつある時代に、主観の強すぎる価値観に若干の客観的視点を与えた。そして市場メカニズムが、君主の影響や世襲制の強い管理経済の下で、正当な価値をもたらすと考えた。投機行動は、対象となる商品や企業に特別な思い入れがあるわけではなく、その価値が増加することにのみ関心を抱く。投機が機能すれば、企業や政府の思惑を排除した、より客観的な価値が得られるかもしれない。機能すればだけど...
新古典派は古典派を進化させて、経済成長の主な要因は資本と技術革新にあるとした。それは近代経済の根幹でもある。だが、資本投入や経済成長が永遠に続くと考えて、需要よりも供給が優先されるところに弱点がある。すべての発明が公平に満遍なく起こるわけではない。発明が資本や労働に対して有利に働くこともあれば、労働機会を圧迫することもある。当時の識者たちは資本主義を実質賃金の変動で判断した。これは、現在でも残っている傾向であり、実質利子率とインフレ率との関係ばかりを凝視する風潮がある。
その一方で、市場が暴走する様子を見せつけられれば、そこに不完全性があると考えるのも自然であろう。ケインズ理論は、「恐慌」の処方箋としての政府介入の必要性を唱えた。だが、ピラミッドでもなんでも造ってしまえという政府支出は、一部の業界と癒着して無駄な公共投資を助長する。
結局、経済問題は、複合的な方策で臨機応変に対応するしかないのだろう。経済学には、そのために偉人たちの残した多くの遺産がある...はずだが...

E.B.ホワイト曰く、「民主主義とは、人々の半分以上が二度に一度以上は正しいという点に、繰り返し気付くことである。」
この言葉は、多数決の限界と民主主義の不完全性を唱えている。民主主義の欠点は、徐々に変化するしかない、変革しずらいシステムということである。経済状況は刻々と変化するために、多くの場合で刺激策を投じた時は手遅れとなる。即座に対応するには、流血革命しかないのか?
市場経済が曝け出す最大の問題は、恐慌であり、極端な貧困と不公平の創出であろう。市場経済が野獣と化すたびに政府は存在感を増す。だが、多くの先進国で政府介入の是非が議論されるのは、しばしば経済政策が失敗するからである。そして、レーガンやサッチャーのように小さな政府を唱える方向と、その後の反発が繰り返されてきた。ただ、こう度々政策転換されては、どの政策が成功して、どの政策が失敗したのかも分からなくなる。そして、ますます論争が激化し、人間社会は経済政策の実験場と化す。
ほとんどの経済分析や巷での討論は、インフレや失業、政府や日銀の政策転換、あるいは自動車産業や半導体産業の景気動向といった短期的な関心事に焦点をあてる。本書は、この手の関心事は長期的な経済成長の潮流の中のさざ波ほどでしかないと指摘している。政府の短期的な政策がうまくいったように見えても、しばしば長期的には悪影響を及ぼす。経済運営や安定社会で求めれるのは長期的視野であろう。だが、世論は目先の方策に注目し、しかも移り気が早い。

1. 経済史の流れ
経済学的な思考の始まりは、既にアリストテレスに見られる。初期の教義は、正当な価格が真の価値を教えるとした。その思想を継承したスコラ学派たちは、貸付金に対する利子を法外な高利として反対した。高利の禁止は、現在においても法律として残っている。
経済学という学問が現れたのは、17, 18世紀の重商主義のあたりであろうか。重要主義者たちは、当時台頭しつつあった民族国家の枠組みの中で、軍事力や経済力を支援した。特に、イギリスやフランスで金銀を信奉する連中が強力で、後にアメリカ革命の引き金となる。デイヴィッド・ヒュームは、重商主義の分析で、「金流動メカニズム論」を提起したという。重商主義は、商品価値を市場メカニズムに委ねるという若干の客観性を与えた。重商主義に強く反対したのが、重農主義で、農業だけが経済的余剰の源泉とした。人間が生きるためには食糧が最も重要であって、重農主義的な考えも分からなくはない。
その頃、経済学を最初に築いたのがアダム・スミスと言われる。善意から法律や規則によって経済を改善しようとしても、世襲的意識や地主の権限などで客観的な裁きはできない。そこでスミスは、むしろ利己心を自由放任のもとで飼い慣らす方が合理的だとし、「神の見えざる御手」に委ねる自然原理、すなわち完全競争市場こそが真理だとした。それも一理あろう。政治家の善意というものは公平性に欠けるのだから。君主制が優勢である時代に、政府の介入を否定したのだから、スミスが庶民的立場にあったとも言えそうだ。
次に、自由放任経済が失速しつつある時、収穫逓減の法則が発見された。その頃、マルサスやリカードが登場する。マルサスは賃金鉄則なるものを言いだし、人口増加が不可避的に労働賃金の水準を押し下げるとした。リカードの貢献は、経済的レントの性質の分析で、その説は今日でも生き残っているという。二人とも、産業革命で資本主義が絶好調にある時、収穫逓減の法則に賭けたようだが、こうした思想は社会主義者たちを喜ばせたことだろう。だが、産業革命をはじめとする技術革新が、収穫低減の法則を凌駕することになる。
続いて、経済学は、新古典派とケインズ派で分裂する。需要曲線を無視して、ひたすらセイの法則を信奉する古典派を継承したのが、新古典派である。だが意外にも本書は、新古典派経済学者たちが、自由放任の信奉者であったと速断してはならないと指摘している。一部はそうだが、大部分では資本主義の不平等性に批判的だったそうな。新古典派は、需要が限界効用に依存するという考えを加えて、市場メカニズムの理論を進化させたという。ワルラスは一般均衡分析の手法を創り上げた。シュンペーターは、一般均衡論を発見したワルラスこそ最も偉大な経済学者だと讃えたという。
その頃、世界大恐慌が発生して資本主義は信用を失い、マルクスの資本論が社会主義者たちを勢い付ける。そして、ケインズ革命が、市場メカニズムの不完全性に対して政府介入を唱え、経済循環におけるマクロ経済学が始まった。ただ、それで自由放任思想が消えたわけではない。自由市場における自由意思論者や、合理的期待形成論者が、それだという。

2. 人口論
T.R.マルサスの「人口論」は、前々から目を付けていたが、本書のお陰で余計に興味がわく。マルサスは、人口増加が経済を圧迫して、労働者を最低生存水準にまで落とすと考えた。その理論によると、賃金が生活水準を上回るたびに人口が増え、やがて生存水準以下の賃金となり、死亡率を高めて人口減少を招くとしている。つまり、賃金が生存水準に等しい時にだけ均衡が得られるというものである。
経済学では、マルサスの評価が意外にも低いようだが、それはなぜだろう?マルサスが産業革命による技術革新の奇跡を予見できなかったのは仕方があるまい。皮肉なことに、産業革命期に爆発的な人口増加が始まる。そして、技術革新が失業を上回る勢いで賃金を高騰させ、急激な経済成長を続けることになる。こうなると、マルサスの理論も廃れてしまう。しかし、現代社会になんらかの警鐘を鳴らしているような気がしてならない。
現在でも遺伝子改良などの農業技術が人口増加傾向を支えているが、エネルギー問題や環境問題が経済成長の足枷になっている。いずれ技術革新で克服されるかもしれないけど。となると、人類は永遠に発明と技術革新からは逃れられそうにない。人類はやがて居住地を地球外に求めるしかなくなるだろう。

3. 比較優位の理論
デヴィッド・リカードは、この理論を発見しただけでも賞賛に値するだろう。とても古典派だと蔑む気にはなれない。各国が共存して国際貿易が成り立つのも、この理論のお陰と言っていい。
絶対優位のメカニズムでは、得意とする分野に特化して生産を拡大すれば効率的な経済が実現できるとしている。しかし、あらゆる物品が対外優位性だけで成り立つとすれば、先進国の効率性がすべての利益を独占してしまうだろう。
対して比較優位のメカニズムでは、対外優位性のない国でも、国内における相対的に能率の良い分野で輸出し、相対的に能率の悪い分野で輸入すれば、国際貿易に充分に参入できるとしている。これは、国々が産業分野において、だいたい特化するようになっていることを説明している。
本書は、そのメカニズムを弁護士と秘書の関係で説明している。ある町で一番有能な女弁護士は、同時にその町一番のタイピストでもある。ここで、なんで性別が関係あるのか知らん?さて、彼女はタイピストとしての秘書を雇って分業すべきか?雇わずに自らタイプの仕事もやった方が効率が良いか?その答えは、秘書を雇うべし!女弁護士の報酬は秘書の給料よりもはるかに高いので、法律に専念した方がより多くの報酬を得ることができるというわけだ。それは、絶対的な関係ではなく相対的な関係からの能率性で結論付けている。
なるほど、この理論で、先進国の慢性的な財政赤字も比較優位性で説明できるかもしれない。まず、発展途上国は、海外投資を受け入れ経済成長を拡大するために債務国となるだろう。やがて、経済が成熟してくると、過去の借金に対して配当や利子が増え、生産も限界に近づく。そして、途上国への投資も必要となり、貸し借りが均衡化し、やがて債権国となるだろう。更に、債権国として成熟すると、対外投資が貿易赤字と均衡し、収支赤字が慢性的になる。したがって、慢性的な財政赤字は先進国の宿命であろうか。逆に言えば、金融投資能力が強力とも言えるのだが。
比較優位の理論は、経済学の相対性理論的な存在なのかもしれない。

4. 保護主義と自由貿易
比較優位の理論は、国々がどのように特化し、いかに国際分業から利益を得るかを教えてくれる。にもかかわらず、政府は保護政策をとり続けるのはなぜか?関税や数量割り当ての形で輸入障壁をつくるのは、絶対優位性を信じているからであろうか?アメリカの自動車産業の衰退が、日本での雇用を生みアメリカに大量失業をもたらした現象を眺めるだけでも、絶対優位性を信じるのに充分ではある。だが、為替変動などのリスクを抑えたり、生産効率を高めるために現地生産という方法を用いれば、現地の雇用問題は結果的に解決するだろう。そもそも現地の人々に収入がなければ商品の購入もできない。また、価格競争において、優劣を極端にしてしまうような関税政策が、経済循環にとって良いはずがない。現実に、政府の奇妙な補助金政策が国内産業を衰退させる。業界が官僚的体質に陥っては経済活動を硬直させるだろう。偏重した政策による国内生産の煽りは経済のどこかに歪みが生じる。
その一方で、保護主義的な政策は、経済人にとっては一般的に否定的であろう。それも一理ある。より公平で効率的な流通機構を持っている国は、その流通システム自体を輸出し、海外の消費者に還元するだろう。ただ、自由貿易の行き過ぎが、独占や寡占を生みだすのも事実である。
極端な自由化は競争の原理を暴走させ、極端な平等化は自国産業を衰退させる。現実に、選挙活動が利益供与を求める政治団体と化し、政治家は平等を掲げながら利益供与政策を公然と実施する。報復のための関税や、対輸入救済策などと叫びながら...

5. 為替レートと国際金融制度
国際金融の歴史は、破綻と再建を繰り返してきた。市場を為替レートが支配する一方で、金融制度で暴走を防止してきた。だが、現在では金融制度がそれほど効果を上げていないように映る。金融制度は民主主義と同じくらい不完全なのかもしれないが、人類はそれに勝る方策をいまだ発見できないでいる。外国為替市場が為替レートを決定する要因は、基本的には貨幣に対する需要と供給の関係にある。貨幣の信用は、貨幣発行者である国の信用でもあって、その国が経済危機となれば暴落するだろう。
かつて為替は金本位制で運営されたが、やがて変動為替相場で運営されるようになる。為替は、生産、インフレ、外国貿易など国家間の主要な項目にかかわってくるので、不完全な市場に委ねるにはあまりにも無神経であろう。そこで、管理された変動為替相場というのが現実的となる。
国際金融制度は、第二次大戦後に急速に進化した。それは、世界恐慌と大戦によって国際経済が破壊された経験とも言えよう。具体的には、GATTとブレトン・ウッズ体制ということになろうか。ブレトン・ウッズ体制が、IMFや世界銀行、あるいは為替率体制を確立する。IMFは、国際的貨幣制度の管理をし、世界銀行は国際的借款のための資本を蓄える。よく耳にするのが、IMFは世界経済の安定を使命とし、世界銀行は貧困層の撲滅を使命とする...ということであるが、ほんまかいな???
第二次大戦後の30年間は、事実上アメリカドルが基軸通貨の役割を果たす。ブレトン・ウッズ体制では金がドルと同等の地位にあったが、1971年にニクソンが公式にドルと金のリンクを切り離してブレトン・ウッズ体制は終焉する。現在は完全に為替率が国際機関によって管理されているわけではない。ほとんどの国で屈伸的な相場を保ちつつ、なんらかの政府管理を共存させている。実際は、世界世論によって国内政策に影響を与えるので、準グローバル化といったところだろうか。アメリカ経済が健在な時代はドルが基軸通貨の役割を果たしてきたが、現在では移り気が多いようだ。だが、経済ニュースを眺めていると、いまだに円高や円安は対ドル相場が強調される。本当に経済情勢に興味のある人は、ユーロやポンドなど、多くの相場を眺めているのだろうけど。
ところで、ギリシャ危機は同じ通貨で統一することの危険性を警告しているように思える。つまり、為替変動が経済リスクを吸収する役割もあるということだ。一国の経済が破綻したとしても、独自貨幣が存在していれば、貨幣の相場が暴落するだけで国外への影響を最小限に抑えられる。イギリスがいまだにポンドを保持している理由は、ユーロ圏への信用格差の問題であろうか?国債がGDP比に対して膨大になろうとも、それを引き受けているのが国内で閉じていれば、国際社会から締め出されるだけで国際的リスクは回避できるだろう。となれば、社会的、経済的リスクを分散する意味でも、価値観の多様性というのが人間社会の実践的方法であろうか。

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