2011-07-24

"ある明治人の記録 - 会津人柴五郎の遺書" 石光真人 編著

明治維新は、日本史でも珍しい革命的出来事として英雄的に語られることが多い。しかし、それは本当に英雄伝説だったのか?少なくとも民衆が蜂起した革命ではなく、武士階級によるクーデター的な様相を見せた。歴史の裁定は勝者に優しく敗者に厳しい。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは、まさにこの時代を象徴する言葉である。
本書は、柴五郎自身が死の三年前に著者石光真人に校訂を依頼した少年期の記録だという。
「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を越えたり。」
会津戦争で祖母、母、姉妹が自刃。降伏後、下北半島の僻地に移封され、公表をはばかるほどの悲惨な飢餓生活を送った。その無念さから、華やかな維新の歴史から抹殺された暗黒の史実を蘇らせる。そう、これは敗者が語った物語である。

列強国による植民地争奪戦のさなか、露、英、仏、米と相次いで軍艦が来航し開国を迫る。阿片戦争で清国が英国に敗れれば、もはや鎖国によって国家の安泰をはかることは難しい。そこに大飢饉や百姓一揆が追い打ちをかけ世情不安が広がると、下級武士たちの生活は圧迫され浪人騒動が頻発した。開国に踏み切っても、薩長の浪士たちは尊王攘夷を叫んで外国人に狼藉をはたらく。京都には各地から倒幕派が集まり、テロ事件を巻き起こすなどで治安を乱す。幕府の要職にあった会津藩は、京都守護職の任にあたり、幕府への不満を一手に引き受ける形となった。公武合体論を唱えるには京都が重要な地となるわけだが、武家側が幕府であろうが薩長であろうが、挙国一致とならなければ意味がない。各藩が伝統に固執しているとなれば、もはや廃藩は避けられない。そして、公武合体か、各藩連合の連邦制か、絶対君主制か、などの論議を尽くす間もなく武力革命に突入する。ただ、国家新体制と国家軍の創設の必要性は、幕府側も認めていた。だから、十五代将軍徳川慶喜は大政奉還を奏上して江戸城を無血開城し、会津藩も藩主松平容保(かたもり)をはじめ要職を辞して故郷に謹慎したのだろう。大政奉還がなれば討幕の大義名分も失われるはず。にもかかわらず、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らの策議により明治幼帝を擁し、慶喜公殺害と会津討伐の密勅が薩長両藩に下されたという。ましてや鎌倉時代から続いた封建制を一気に近代化しようというのだから、流血をともなうのもやむを得ない。
しかし、だ。無血開城で戦意喪失の相手ですら、朝敵の汚名を着せて徹底的に叩きのめす必要があったのか?それを言うと、徳川家だって難癖をつけては目障りな大名家を潰してきた経緯がある。恨みを持っていた連中がここぞとばかりに襲いかかるのは世の常であろう。また、徳川家が自ら幕府を放棄すれば、朝廷との関係を保ちながら再び実権を握ることができると目論んだことだろう。そして、革命のための流血というよりは、脂ぎった政権闘争の様相を見せる。それでも、革新派の中に、佐久間象山、吉田松陰、横井小楠、坂本龍馬といった錚々たる人物がいたことは見逃せない。彼らの視野は広く、見識も高い。だが、維新とほぼ同時に処刑や暗殺で姿を消したのは偶然であろうか?残るべき人物が残らず、残るべからず人物が残るのが、政界の力学というものか。
本書は、維新の評価はその成果に比して過大であり、残酷であったことを物語る。そして、倒幕派が外国人を殺傷するような行為が、尊王攘夷の真意を捻じ曲げたと回想している。ただし、会津藩側からの思い入れが強く、感情的なところもある。薩摩の芋侍め!とか、西南戦争で自刃した西郷隆盛には、ざまあみろ!のような記述も目立つ。それでも、維新を一方的な英雄伝説として崇めるのは乱暴ではないだろうか。日本の近代化の原点がこの時代にある以上、その分析を怠ることはできない。明治維新から始まった近代化は、いったいなんだったのか?本書は、それを問いかけているような気がする。

この時代に触れると、ある疑問が蘇る。
明治政府は、天皇を神格化し、日本国を神の国と崇めたのはなぜか?薩長をはじめとする幕末の志士たちは、欧米諸国に視察団として派遣されている。実際に、自由や平等のイデオロギー論争、あるいは議会や憲法などの政治体制を見聞したはず。にもかかわらず、その本質を無視して、国家元首と宗教的思想を結び付けたのはなぜか?彼らの視察はなんだったのか?民衆の精神を根底から支えているキリスト教の存在を、日本流に解釈した結果であろうか?大統領や国王が神様というわけではないが、天皇を宗教以上に崇める結果となった。多くの藩が乱立する中で手っ取り早く国家を団結させるためには、象徴的存在があると便利だ。廃藩置県を実施するためにもよい口実か。その意味で、維新当時の政治家たちの眼力は鋭い。そして、大日本国憲法は天皇と軍部を統帥権で結び付けた。となれば、天皇がよほどの指導力を発揮しない限り、軍部が神の代行となって暴走するのは避けられまい。それは、太平洋戦争という悲劇を経験したから言えることかもしれないが。いずれにせよ、天皇はしばしば政治利用されてきた。現在ですら、政治利用を企む政治屋どもがいるほどだ。
日本史を紐解けば、軍事面に無知な公家が武力を統制しようとして悲劇を招いた例は少なくない。治安維持が政治の最も重要な役割となれば、武力を束ねる幕府の力が強力となり、公家はお飾りとなってきた。その流れから、軍部が政治を主導する時期を経験することになったとも言えるかもしれない。シビリアンコントロールでは、軍隊の暴走を抑止すると同時に、軍事の素人が軍略に口を出すという矛盾を抱えている。太平洋戦争時の軍部の暴走は、統帥権の微妙な位置づけが素人の口出しを封じたと言えるかもしれない。そして、神の国と崇めた時点から、徹底的な敗北を喫するまで戦争を続ける運命にあったのではないか。つまり、既に維新時代にそのレールが敷かれていたのではないか。...などと発言すれば批難もされようが、アル中ハイマーな泥酔者にはそう思えてならない。

本書は、当時の中国観も披露してくれる。
柴五郎は、1900年北清事変(義和団の乱)で、その沈着な行動により世界から称賛された人物だそうな。歴史ではあまり知られていないようだが。そして、日本軍が中国の民主化を阻み、人民を中国共産党に売ったと回想される。当時の日本軍が、イデオロギー的な世界情勢をまったく分析せず、ただ大陸の夢を追いかけていたというわけか。国内経済が逼迫すれば、国内の不満から逃れるために対外政策に打って出るというのは、歴史事象として珍しいことではない。ただ、太平洋戦争時、戦後の世界が共産主義と自由主義の対立構図になることを想定した政治家がどれだけいただろうか?いたとしても排除されただろうけど。そんな分析もなく大東亜共栄圏を掲げたところでなんの説得力もない。思想哲学なるものを持たず、勢いだけで邁進するからヒトラーと手を結ぶことになる。米英だってスターリンと手を結んだではないかと言えば、似たようなものかもしれないが...
21世紀の今、中国共産党は自ら招いた経済矛盾に喘いでいる(放射能で喘ぐ国よりはましかもね)。急激な経済成長にブレーキをかけながら軟着陸させようと必死だ。インフレ抑制のための度重なる銀行準備金の引き上げと、その副作用。そして、情報統制で人民を洗脳しようと必死な様子がうかがえる。どこの国もインフレを恐れている。だが、先進国では贅沢を控え目にすればなんとか生活できる。一方、新興国はいまだ格差問題を抱えており、途上地域を置き去りにしたままのインフレは、飢えに直結する。格差に対する不満は暴動のきっかけとなろう。そして、自らの保身のために対外政策に執着するしかあるまい。となると、日本は標的にされやすいわけだが、GDP2位にもなった大国にいまだODAを送り続ける日本政府の態度をどう説明するのか?経済戦略において隣の巨大市場が大きな魅力であることは分かる。だが、現状では常に政治的リスクがつきまとう。企業戦略においても思想哲学なるものを踏まえておかないと、思わぬしっぺ返しをくらうだろう。その点、中国人の企業家たちは資産が簡単にチャラにされる可能性があることをよく心得ているようだ。さすが!

1. 会津戦争
会津戦争は、戊辰戦争の一局面。薩長の浪士は、江戸をはじめ各地で放火殺人を行い、世の中を不安に陥れたという。徳川の威信を傷つけ、会津討伐の気運も高まる。会津城内では、幼き姉妹が薙刀の稽古に励む。そして、東西南北に青竜隊、白虎隊、朱雀隊、玄武隊を編成。それぞれ東西南北の神の名をとっているそうな。
1868年、会津戦争が勃発した時、幼い柴五郎は面川沢の山荘にいたという。会津城下へ戻ろうにも炎の海、山荘には難民が溢れる。やがて、祖母、母、姉妹の自刃の知らせが入る。武家の習わしとはいえ、幼い妹までも懐剣で自害。城下を焼き払い、一族郎党皆殺し、しかも、民衆は財を奪われ強殺強姦。これが伝統的な戦の習いではあるのだが...
会津の百姓や町民は薩長軍を歓迎し、これに協力したと説く者もいるが、それは誤りであると指摘している。そして、民衆に加えた薩長軍の暴虐の数々は全東北に及んだが、その記録が故意に抹殺されたことは不満に堪えないと語る。

2. 地獄の流刑地
徳川慶喜と松平容保は罪を許される。佐幕派の南部藩から処罰として陸奥国を三郡に割き、これを斗南(となみ)藩として旧会津藩に与えられた。23万石から3万石となるが、痩地なので実質7千石だったという。それでも、藩士一同感泣して受け入れる。徳川家が数々の大名家を潰してきたことを考えれば、恩赦はありがたいことであろう。
しかし、乞食小屋にて窮乏の極致。おまけに辛い長い冬。犬の肉を食う境遇。常食はオシメ粥をすする。ちなみに、オシメ粥とは方言で、海岸に流れ着いた昆布やワカメなどを集めて干し、棒で叩いて木屑のように細かく裂いて、これを粥に炊くそうな。下駄も草履も持たず裸足なので、家に入る時はいつも桶で足を洗う。吹雪の季節は氷点下15度を降る。
「薩長の下郎武士どもに、会津の乞食藩士どもが下北で餓死したと笑われるぞ!」と父から叱責される12歳の少年期を、祖母、母、姉妹とともに自害した方がましだったと回想している。
「過去もなく未来もなく、ただ寒く飢えたる現在のみに生くること、いかに辛きことなりしか、あすの死を待ちて今日を生くるは、かえって楽ならん、死は生の最後の段階なるぞと教えられしことたびたびあり、まことにその通りなり。死を前にして初めて生を知るものなりとも説かれたり、まことにその通りなるべし。今は救いの死をさえ得る能わず」

3. わが生涯最良の日
乞食生活にも、ようやく光がさす。廃藩置県が実施された頃、藩政府の選抜により青森県庁の給仕として遣わし、大参事野田豁通(ひろみち)の世話になることが決まる。少年13歳。
野田は、熊本細川藩物産方頭取石光真民の末弟で、勘定方出仕の野田家に入籍、実学派の横井小楠の門下で、後に陸軍に入り初代陸軍経理局長、男爵を賜る。かつての敵軍の将だが、義侠無私の人で後進をよく養い、討幕派と佐幕派をまったく差別しない人物だったという。彼との出会いが、柴五郎の将来を決定付ける。野田は、陸軍会計一等軍吏に就任した時、陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)を受験することを勧める。そして、合格した日を「わが生涯最良の日」と呼び、ここでフランス式教育を受けたという。

4. 維新の回顧録
1873年、皇城炎上。維新にあたり各藩は思惑を剥き出しにする。薩長土肥連合の藩閥政府は征韓論で割れる。この頃、仕官学校の教育方針は、フランス式からドイツ式へと変更され、軍服もドイツ式になったという。右大臣岩倉具視、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通ら48名が条約改正、欧米視察で留守中に新政府反対の口火を切ったのが旧薩摩藩主島津久光。
「皇統も共和政治の悪弊に陥らせられ、ついには洋夷の属国と成らせらるべき形勢」として、大久保利通、西郷隆盛の罷免を直訴。各藩主や重臣らも若輩らの暴走を危ぶむ。そして、西郷隆盛や板垣退助らの征韓論は、岩倉具視らの欧米諸国との関係を配慮する慎重派に敗れた。
西郷隆盛は参議を辞し薩摩に帰郷するが、続々と不穏な動きが現れる。江藤新平の佐賀の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族の騒動が続く。自由民権運動と言えば聞こえがいいが、結局は士族民権を主張したに過ぎない。ただ、時代の流れとして、その段階も必要であろう。フランス革命がブルジャワジーによる権力抗争で終わり、真の共和政を獲得するまでに相当な時間がかかったように。
更に、西郷隆盛が第二の維新を目論んだかどうかは知らんが、西南戦争が始まる。大久保利通と西郷隆盛は征韓論を境に訣別し、10年に渡る西南戦争の末に西郷は自刃した。内務卿大久保も暗殺される。ともに会津の元凶が世を去って、ようやく維新の動揺が収まる。
本書は、強引な明治維新で、議会や国軍の創設、廃藩置県など近代国家としての形式は整えたが、未熟でひ弱な新体制を生んだと回想している。世界史では、革命といわれる血の変革が成功すると、すぐさま新政権で内部分裂が生じる。フランス革命しかり、ロシア革命しかり、中国の文化革命しかり。明治維新も例外ではなかったようだ。

5. 近代化と富国強兵
西洋の植民地政策に刺激され富国強兵で邁進すると、軍拡気運を高めるがゆえに軍界に志を持つ者が少なくなり、素質の低い者が混ざると指摘している。そして、日露戦争までは日本軍は立派であったという。ロシア軍クロパトキン将軍の回想録には、世界に稀にみる軍隊だと賞揚しているという。捕虜の扱いでも国際法を尊重して、むしろ日本軍の負傷兵や遺族の扱いの方が卑屈であったとか。その厚遇で、日本に帰化した外国人が相当数にのぼるそうな。だが、その後、徳川太平3百年がそうであったように、優れた指導者が育たなかったと指摘している。
現在でも、日露戦争までの態度を讃える意見は多い。乃木将軍とステッセル将軍は握手して、ともに勇敢さを称えたと伝えられるし、ルース・ベネディクトは著書「菊と刀」で、日露戦争の写真を見ても、どちらが戦勝国なのか区別がつかないと語っていた。だが、新渡戸稲造は、著書「武士道」の中で、武士道は徳川泰平の世に既に廃れていたと語っていた。
本書は、日本の近代化を「宗教を破壊して天皇信仰を唱えただけでは、市民としての生活信条は育たなかった。」と回想している。それにしても、対米戦争を決意した連中に米国留学経験者が多かったのはなぜか?単なる語学留学だったのか?今でも英語かぶれすればそれだけで賢いとされるけど。

6. 柴五郎の中国観
北京籠城でのキリスト教徒中国人への姿勢や、占領した北京市内での警察業務への姿勢は、会津の心情から発しているという。諸外国が清国を侵略していくと、宗教に救いを求めキリスト教徒が増えていったという。義和団は攘夷求国を目的として決起した集団であり、それが会津人と重なって映ったのかもしれない。
「北京籠城が日本軍の勇敢な働きで解かれたが、その後の各軍によって警備区域が定められた。日本担当区は柴五郎中佐が警務衙門長として軍政を受け持ったが、軍紀厳正で中国人民を厚く保護したので、他の区域から日本区域に移住してくるものが多かった。」
この功績で列強国に称賛されたそうな。そして、この頃の中国政策の方向を維持していれば、民主的中国と良好な関係を保てたと指摘している。当時、大陸進出を夢見る軍部にあって、中国に好意的な人物は邪魔な存在だったに違いない。柴五郎は、北京籠城の功績を英国大使に譲ったという。その謙虚な態度が、日英同盟の足掛かりになったという説もあるそうな。だが、米英が日本を盾にしながら対ロシア政策をとっていたこともあるだろう。
また、太平洋戦争をイデオロギー闘争の前哨戦といった観点から捉えているようだ。それは、中国共産党に栄光を与え人民を売ったのは、愚劣な日本軍の中国政策にあると指摘しているところからもうかがえる。重慶にあった蒋介石には、「日本人は百年先のことはもちろん、十年先のことさえ考える能力を持たない」と笑われたとか。んー、今の政府に言ってやれ!
柴五郎は、太平洋戦争は最初から負けると断言していたという。

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