2011-07-17

"名画で読み解く ブルボン王朝12の物語" 中野京子 著

名画で読み解く...シリーズ第二弾。ハプスブルク家編では著者の歴史センスに感服した。キレは相変わらずだが、なぜか?インパクトがいまいち。650年対250年では泥沼の熟成度も違うのか?いや、エリザベート級の美女が見当たらないだけのことかもしれん。

隣り合ったハプスブルク家とブルボン家は、事あるごとに戦争を続けてきた。ところが、マリー・アントワネットの婚姻をきっかけに蜜月となる。いや、水面下の陰謀合戦に移行したと言った方がいい。ブルボン家の印象としては、太陽王ルイ14世がひと際輝いている。その栄華に全ヨーロッパの王侯たちが憧れ、フリードリヒ大王やマリア・テレジアまでもがフランスかぶれになる始末。その分、ルイ15世以降はその他大勢という印象が残る。そして、ルイ14世の晩年あたりからフランス風の倦怠感が蔓延し、ヴェルサイユ宮殿には口先だけで出世した凡人で溢れていく。宮廷では、仮装舞踏会、芝居、トランプ賭博などの遊戯に明け暮れ、王妃は宝石や衣装で浪費し国家財政を危うくしていく。その間、ロベスピエールなどの共和政と自称する恐怖政治や、王家に野望を抱いたボナパルト家が割り込み、ブルボン家の歴史は、真の共和政を獲得するまでのお膳立ての役割を担っていたことが見えてくる。君主政とはいえ議会が存在するからには、選挙で王党派が激減することもある。すると、選挙制度を都合よく改変し、議会を解散してしまうような強引な政策がまかり通る。議会が機能しなければ、民衆は暴徒化する。
本書は、アンリ4世に始まり、ルイ13世、14世、15世、16世、18世、シャルル10世の七代を通して、王家の腐敗から共和政へと傾いていく様子を物語る。そして、ハプスブルク家が、自ら血縁を濃縮して徐々に腐っていったのに対して、ブルボン家は革命によってギロチンの切れ味のごとく滅亡していくのであった。血みどろと華麗の共存する絶対王政の物語。これぞ歴史の醍醐味というものか。ちなみに、ドイツ語では、「歴史」と「物語」を同じ単語「Geschichte」で表すそうな。

祖先を遡れば、ハプスブルク家がスイスの片田舎の一豪族に過ぎなかったのに対して、ブルボン家も似たようなもの。権力を握る家柄というものは、激動期に偶然と幸運から転がり込んだりするもので、新興企業や新産業が創出される様子と似ている。
スペイン王朝は、両大国に接しながら、ハプスブルク家、ブルボン家、ボナパルト家で持ち回りをされてきた。ちなみに、現在のスペインは立憲君主制で、国王フアン・カルロス1世はブルボン家の遠い血筋にあたるそうな。どこの国家でも、王家や権力者の血筋が純粋に守られてきたのかは疑わしい。あのルイ14世でさえも???流産や夭逝が当たり前の時代では、王位継承は国家を揺るがす重大問題となる。国家安泰のためには、様々な企てが画策されてきたことだろう。秘密婚や不倫が陰謀と複雑に絡み、産まれるまでの算段では完璧な演出がなされたに違いない。そして、真相を知る者は突然死を迎える運命にある。ましてや歴史文献として残されるはずもない。
ちなみに、秀頼が秀吉の実子というのは本当なのか?などとおおっぴらに言える者はいなかっただろう。腹の中の子が本当に自分の子なのか?それはDNA鑑定でもしない限り、男には信じることぐらいしかできない。

フランスという国は革命の好きなお国柄と言おうか...日本人には理解しがたい流血革命の歴史...自由と平等を獲得することの難しさを浮き彫りにする。それは、ドラクロワの作品「民衆を導く自由の女神」に描かれる三色旗に象徴される。その背景には、根深い宗教対立がある。フランスではカトリック系の勢力が強く、イギリスではローマ教会から離脱しイングランド国教会があるので、両国は宗教対立の火種を常に抱えている。アンリ4世が「ナントの勅令」で宥和政策をとれば、一時政治情勢は安定するが、「ナントの勅令」が廃止されると、プロテスタントは厳しく弾圧され大量の亡命者を出す。亡命者には優秀な技術者や富裕な商業者が多く、プロイセンなど近隣諸国を富ませる結果となる。宗教弾圧に喘ぎながら民衆は自由と平等に目覚めていき、そこに王朝の腐敗が重なって、革命の気運を高めていく。
フランスが君主政を終焉させ完全に共和政へ移行したのは、ルイ・ボナパルト(ナポレオン3世)の後で1870年頃ということになろうか。マルクスがナポレオンを演じた道化師と蔑んだ男の失脚は、ほんの150年前のことだ。明治維新が1868年頃だから、日本の近代化とフランスの民主化プロセスがほぼ重なる。ただ、日本では民主主義はまだ始まっていないという意見もよく聞かれる。いまだ自由と平等を手探りしている段階なのかもしれない。人間が考案した制度が完璧であるはずがない。にもかかわらず、民主主義の実践的な手段となっている選挙制度に疑問を抱く者は少数派だ。一票の格差では違憲判決も見られるが、いまだ見直される雰囲気がないのはなぜか?安全志向が強すぎるから、自己改革もできないのか?この国では、民主主義を獲得するまでの肝心なプロセスを省いてきたのかもしれない。将来に渡って日本では絶対に流血革命が起こらない!とは言いきれんが...

1. ブルボン王朝の始まり
1559年、ヴァロワ朝のアンリ2世が馬上槍試合の事故で命を落とす。これはノストラダムスが予言したという。そして、長年軽んじられ惨めな思いをしてきた王妃カトリーヌ・ド・メディシスが表舞台に躍り出る。王の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエは追放され、カトリーヌの息子3人が次々にフランス王となる。まず15歳の長男フランソワ2世が王位を継承するが、虚弱で在位わずか一年で病死。続いて10歳の弟シャルル9世が継承。この時期に宗教内乱へ突入し、ユグノー戦争勃発、そして「聖バルテルミーの虐殺」。バルテルミーの祝日に、一発の銃声が引き金となって群衆がプロテスタントたちに襲いかかり、3千人もの犠牲者の血がセーヌ川を赤く染めたという。その首謀者がカトリーヌという噂や、黒幕がフェリペ2世という説など、真相は闇の中。その二年後、シャルル9世は結核で死亡。これまた子がいなかったので弟アンリ3世が継承。彼は女に興味がなかったという。
母カトリーヌが死去すると、宗教戦争は3人のアンリの王権争いの様相を呈す。ヴァロワ朝のアンリ3世、名門貴族キーズ家のアンリ、ブルボン家のアンリによる「三アンリの戦い」。当初、同じカトリックのアンリ3世とキーズ公が結託して、プロテスタントのブルボン家のアンリを圧倒していたという。だが、国民の人気はキーズ公に集まり、アンリ3世に暗殺される。アンリ3世もまたドミニコ会修道士と謁見した時、キーズ公の暗殺で使った血まみれの短剣を見せられ、そのまま襲われて死亡。漁夫の利を得たのがブルボン家のアンリで、国王アンリ4世を名乗る。
当初、アンリ4世は国民の5分の1のプロテスタントからしか支持されず、パリ入城すらできなかったという。そして、しらみつぶしにカトリック系の領主たちを弾圧していく。ただ、スペインにはカトリックの牙城であるフェリペ2世がいて、隣国にプロテスタントの国ができたことを許すはずがない。フランスはイギリスの援軍を得てスペインを撃退。しかし、アンリ4世は改宗しないと国が収まらないことを悟り、カトリックを宣言して大貴族を買収する。
ところで、ブルボン家の先祖は、古いカペー王朝の傍流にあたるという。その名称はブルボン・ラルシャンボーの町に由来。後に、王位を剥奪されたルイ16世は「ムッシュ・カペー」や「ルイ・カペー」と呼ばれ馬鹿にされることになるが、それはカペー王朝の始祖がどこの馬の骨か分からないというところからきているらしい。ただ、ヴァロワ朝ではブルボン家の当主は筆頭親王だったというから、世継ぎがなければアンリ4世が継承しても問題はないということのようだ。

2. アンリ4世と陰謀の悪臭
アンリ4世は、カトリーヌ・ド・メディシスの娘マルグリットと結婚。王妃マルゴと呼ばれる女性だ。マルグリットはキーズ家のアンリを愛していたが政略結婚させられたという。王は色事に明け暮れ、仮面夫婦だったという。また、姑カトリーヌを嫌っていたらしい。アンリ4世の母がカトリーヌに毒殺されたという噂もあったとか。国王夫婦には長年の別居で子ができない。アンリ4世は世継ぎ問題を解決するために、既に自分の子を3人産んでいる愛人ガブリエル・デストレを王妃にしたいと考えた。だが、妻に離婚を拒否される。そうこうしているうちにガブリエルが突然死。結局、高額な年金を保障して離婚は成立。カトリックでは基本的に離婚が認められないはずだが、ローマ教皇が認めた。というより、もともとこの結婚が無効だったということにしている。宗教の解釈はなんでもありか。
そして、アンリ4世はメディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚。宗教内乱で国庫が空っぽ状態だったので、大富豪メディチ家からの持参金を当てにした政略結婚である。マリーが、派手にマルセイユに到着すると、そこにはアンリ4世の姿はなく愛人と小旅行中だったとか。王妃の太めの外見と、大金にものを言わせる態度が気に入らなかったという。また、マリーはフィレンツェのルネサンス文化に親しんでいたので、フランス文化を低俗と見ていたらしい。莫大な年金が前妻に払われるのも気に入らない。不仲とはいえ世継ぎを産めば勝ち、長男はルイ13世、長女はスペインのフェリペ4世の王妃、次女はサヴォア公妃、三女はチャールズ1世の王妃となる。
結婚10年目、アンリ4世は留守中の統治権を王妃に委ねるため、サン・ドニ聖堂でマリーの戴冠式を挙行した。これはマリーの強い要望によるものだという。しかも、翌日にアンリ4世は暗殺された。享年56歳。首謀者はカトリック信者とされるが、陰謀の香りがしないわけがない。

3. ヘンリエッタ・マリアとチャールズ1世
イングランドのステュアート朝二代目チャールズ1世に嫁いだのが、アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリア。ハプスブルク家の牽制のための政略結婚であるが、宗教上の問題を抱えていた。イングランドは、ヘンリー8世の時代にローマ教会から離脱し、イングランド国教会の下にある。カトリック総本山を認めない国が、カトリック国から妃をむかえれば揉めるのは必定。フランス側は、結婚の条件としてカトリック擁護を約束させた。ヘンリエッタは、それを盾にセント・ジェームズ宮殿内に華麗なカトリック礼拝堂を建築させ、国民の不満を煽る。ただ、政治問題は別にして夫婦仲は良好だったそうな。生涯チャールズ1世は愛妾を持たず妻一筋だったという。先代のジェームズ1世は、スペイン戦争や宗教内乱などで財政を悪化させたまま、チャールズ1世に引き継いだ。そこに、クロムウェル率いるピューリタン革命が襲う。国王軍は敗れ、チャールズ1世は裁判にかけられ斬首。ヘンリエッタは故国フランスに逃れる。イングランド国王の斬首はフランス革命よりも150年も先んじている。しかし、国王の手に触れて病気を治してもらうといった風習も残っていて、クロムウェルと民衆も乖離していたので、チャールズ1世は「殉教王」として人気が急上昇したという。共和制を樹立したクロムウェルが9年後に病死すると、すぐさま王政復古が叫ばれ、チャールズ2世が戴冠している。チャールズ1世は、妥協を許さず、逆らう議会を頭から抑えつけようとして墓穴を掘ったという。アンリ4世のように、統治優先で都合よく改宗したり、エリザベス1世のように曖昧な態度のできない人物だったそうな。

4. ルイ13世とルイ14世の誕生秘話
8歳の息子ルイ13世が継承すると、母マリー・ド・メディシスが摂政となる。そして、スペイン路線をとり二重結婚を推進する。長女エリザベートをスペイン王フェリペ4世へ嫁がせ、ルイ13世にはフェリペ4世の姉アンヌ・ドートリッシュを王妃に迎える。とはいっても、4人とも7歳から10歳の幼な子。ちなみに、「ドートリッシュ」「オーストリアのアンヌ」という意味だそうな。スペイン王女とはいえ、オーストリア・ハプスブルク家の血筋というわけだ。アンヌは美女であったが、二度の流産でルイ13世と疎遠になったという。ルイ13世は同性愛者だったとか。王妃には他の男が寄ってくるわけだが、デュマの小説「三銃士」には、有名な恋愛物語があるそうな。イギリスの皇太子、後のチャールズ1世が、ヘンリエッタ・マリアと婚姻話が進行中に非公式でパリを訪れた時、側近のバッキンガム公が一目惚れして愛の告白をしたという。ちなみに、イギリス一のハンサムだったとか。その後も激しく迫り、庭園での密会やベットに侵入など、様々な証言が残されているという。
さて、母マリーはというと、ルイ13世が成人しても政権を譲ろうとしないので親子で不和となる。そして母をブロワ城へ追放。その後二人は和解するが、マリーはルイ13世が信頼を置く宰相リシュリューの失脚を画策する。結局、面倒な母をコンピエーニュ城に軟禁。マリーは城を脱出して各地を放浪し、ケルンでひっそりと死んだという。
宰相のリシュリュー枢機卿は独裁的な実力者で、私利私欲に走らないルイ13世の時代では欠かせない存在だという。リシュリューは、富国強兵や反プロテスタント政策をとる。何よりも重視したのはハプスブルク家の牽制で、三十年戦争ではあえてプロテスタントを支援する。そして、ハプスブルク家と二十年もの戦争を続けることになる。
その頃、ローマ教皇の特使が派遣されリシュリューの信任を得た。この人物こそジュール・マザラン。フランスに帰化して枢機卿となり、後に宰相後継者となる。やがて、マザランとアンヌが惹かれあう。実は、マザランとアンヌは秘密結婚までしていたという有力な証言があるという。えぇっ?ということはあの太陽王の血筋は???などと地雷を踏むことになるから闇に葬られるわけか?アンヌが最後に流産して17年目に突然懐妊が報じられる。まるで豊臣家の展開ではないか。二年後、さらに二人目を産む。後のオルレアン公フィリップである。まもなくリシュリューが病死すると、すぐにルイ13世が結核で逝去。ルイ14世が王位を継承して、アンヌが摂政となる。アンヌ・ドートリッシュは、姑マリー・ド・メディシスとは違って、ルイ14世が成人するとすぐに政治から身を引き、慈善事業と祈りの日々を送ったという。その引き際は見事だったそうな。

5. 太陽王の輝きと暑苦しい照り返し
アンヌ・ドートリッシュが40歳近くに産んだ奇蹟の子は、フランスをあらゆる面で第一位の地位に押し上げた。海軍はスペインやイギリスを凌ぐ。リゴー作「ルイ14世」の肖像画は、右腕を王笏で支え左肘を突き出し、右足に体重を載せ左足を前に出す、お馴染みのポーズ。身長160センチそこそこで背の低いことがコンプレックス。大袈裟な鬘と派手なハイヒールで誤魔化す滑稽な太陽王。バレエで鍛えた脚線美。すでに63歳にして歯抜け状態は、口を閉じていれば分からないという。成人するまでマザランが宰相として補佐し、クロムウェルと同盟してスペインを撃退するなど、現実路線で帝王学を伝授される。ルイ14世はとうてい教養人とは呼べる人ではなく、「本など読めて何になる!」と言い放ったという。戦争好きで、ネーデルランド戦争、オランダ戦争、アウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争を仕掛ける。ただ、軍事の才能がなかったというのが定評だそうな。
最晩年は、戦争をやり過ぎたことを後悔し、したたかな外交政策で小国を味方につけたりと政治力を発揮したという。王の全能性を広く知らしめることで国内の求心力を図り、国外へも強烈にアピールするなど、宣伝の才能は長けていたそうな。バレエを奨励し自らも踊る。アポロンに扮して宮廷舞台で踊ったことから、「太陽王」と呼ばれるようになったという。
しかし、晩年の太陽王の人気凋落ぶりは甚だしい。亡くなると民衆は歓声をあげ、葬列を見送る人の数もまばらだったという。その在位期間はフランス最長で5歳で戴冠してから72年間。ただ、戦争好きで財政破綻ともなれば、照りやまぬ太陽は暑苦しい。息子グラン・ドーファンは継承することなく49歳で病死。その子プチ・ドーファンも29歳で死去。その弟は、スペイン王フェリペ5世となる。そして、プチ・ドーファンの子、つまり曾孫のルイ15世が王位を継承する。長すぎる政権は、宮廷を硬直化させマンネリ感が漂う。王が亡くなった途端に王宮のオーラは失われ、下水設備は不完全で非衛生的、庭園の水も濁りがちで悪臭を放つ始末。太陽が照らさなければ、栄華は偶像化するだけ。ルイ14世は、ナントの勅令を廃止し、官職からユグノーを締め出した。神聖ローマ帝国などの周辺国は、アウクスブルク同盟を結成してフランスと対抗する。この時期にフランスから逃亡した亡命プロテスタントの数は約20万とも言われるそうな。ルイ14世は、5歳の曾孫に「戦争をしすぎるな」と遺言したという。

6. マリア・テレサとスペイン・ブルボン王朝の始まり
ルイ14世はマザランの姪マリー・マンチーニと恋仲になる。だが、階級の下との結婚など論外で、マリーはイタリアへ嫁がされ仲を引き裂かれる。そして、スペイン王女マリア・テレサを王妃に迎える。ブルボン家とスペイン・ハプスブルク家との婚姻は戦後処理のピレネー条約の和解条項で、莫大な持参金付きの王女をもらい、生まれた子にはスペイン王位継承権は与えないと契約する。マリア・テレサは、父がフェリペ4世、母がルイ13世の妹なので、ルイ14世とはいとこ関係。垢ぬけないファッションセンスに、容姿もぱっとせず、落ち目となりつつあるスペイン出身ということで、もの笑いにされる。ルイ14世は、律儀に遊び、律儀に戦争をし、律儀に王妃の寝室に通う。この時代、恋愛結婚の不可能な王侯貴族にとって妻を愛することは下品という奇妙な風潮があったという。形だけを維持するのが相手への思いやりということらしい。王には愛人が数え切れないほどいる。その寵姫たちは、弟オルレアン公フィリップの妻ヘンリエッタ、毒殺されたとの噂のフォンタンジュ公爵夫人、4人の子をもうけたルイーズ・ド・ラヴァリエール、7人の子をもうけたモンテスパン侯爵夫人、マントノン侯爵夫人...こりゃハーレムじゃ!マリア・テレサも王家出身なので王の女癖は諦めていたようだ。彼女が44歳で亡くなった時、ルイ14世は「彼女が余に迷惑をかけるのはこれが初めてだ」ともらしたという。
その後、故国スペインでは、王カルロス2世が世継ぎを遺さずに亡くなる。ルイ14世は、マリア・テレサは賠償金のために巨額な持参金を持って来るはずだったが、約束が果たされていないことを理由に介入する。そして、スペイン・ハプスブルク家との間に、スペイン継承戦争が勃発。以降、スペイン王はオーストリア人からフランス人になり、オーストリア・ハプスブルク家はスペインとの関係を断たれる。ルイ14世の孫アンジュー公フィリップが、フェリペ5世としてスペイン王となる。ルイ14世は、「良きスペインであれ。されどフランス人たることを忘れるな」と言って孫を送り出したという。

7. ポンパドゥール公爵夫人と美王ルイ15世
公式寵姫ポンパドゥールは、ルイ15世の時代では欠かせない美貌と才覚のキャリアウーマンで、政治を牛耳ったという。おまけに、ルイ15世が政治に関心がないときた。夫が公爵でもないのに公爵夫人とはこれいかに?王が特別にポンパドゥールの領地と公爵の位を与えたそうな。平民出身の寵姫で、しかも政治に口を出すとなれば、王妃や王太子からは敵視される。だが、隙あらば引きずり落とそうとする輩には反撃を許さず、領地へ追い返す。宮廷こそが全世界と思い込む貴族連中には、田舎に流されることを恐れ、次第に寵姫にひれ伏す。
彼女は、フリードリヒ大王を3方面から囲んだ「ペチコート作戦」の一人。オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアと、ロシアのエリザヴェータ女帝と、ポンパドゥールの3人。長年、敵国同士だったフランスとオーストリアはこの時期に友好関係に入り、後にマリー・アントワネットが嫁ぐ布石となる。フリードリヒ大王を憎むマリア・テレジアの戦争は、フランスとロシアを味方にして七年戦争となる。そして、フリードリヒ大王の敗北寸前で奇跡が起こる。エリザヴェータ女帝が急死すると、大王ファンのピョートル3世はプロイセン側へつき、オーストリアとフランスは敗北。大王に味方したイギリスは、フランス領のアメリカ、インドを奪取。戦争の敗北は、ここぞとばかりにポンパドゥールを非難の的にする。公式寵姫というシステムは、政治責任を押し付けるのにもってこいというわけか。栄華と権力の裏腹には、落ち度がなくても咎人の汚名を全て引き受けるほどの覚悟がいる。
一方、ルイ15世は美王と呼ばれ、群がる女性も多ったという。裕福で美貌でなんでも手に入るとなれば、倦怠感に苛まされ、生きる意欲も薄れるだろう。国政は臣下に委ね、深刻な退屈人生。堅苦しいルイ14世に飽き飽きしていた貴族連中にとっては、遊び呆ける王の方がありがたい。ポンパドゥールに惹かれたのも、上手く遊んでくれたからだという。ポンパドゥールが死ぬと若い女をあさりまくり、女狂いになったとか。ルイ15世は天然痘で死去したが、それも年若い赤毛の百姓娘と関係して感染したと噂されたという。

8. フランス革命の餌食となったルイ16世
ルイ15世の孫が王太子となったのは10歳。美王ルイ15世とは違って見映えが悪くおどおどした性格で、とても王の器ではない。三男なので王冠が回って来る可能性が低く期待もされていない。だが、出来の良い長男は病死。次男も夭逝。王位を継承するはずの父も36歳で病死。王位のプレッシャーからか、引きこもるようになったという。ルイ16世といえば、その王妃はマリー・アントワネット。ここで、ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が結びつく。ルイ16世の悪い評判は、浪費家マリー・アントワネットが追い打ちかける。おまけに、異国の妃の言いなり。急速に太りだしたおかげで貫禄はつくものの、寵姫を持たず政務を果たさない、騎士道精神もなければ戦場経験もない。彼は、フランス革命の恰好の餌食となって、「ルイ・カペー」と嘲笑わらわれながらギロチンへ送られた。

9. 百ドル札の顔ベンジャミン・フランクリン
独立宣言の起草に貢献したフランクリンは、理系の人間には嵐の中で凧を上げて雷が電気であることを証明した話の方が馴染みがあろう。彼は70歳の時、独立戦争の資金援助を請うために、フランスを訪れ直接ルイ16世と交渉したという。青年たちの間で「自由」や「独立」が話題になっていたところに、フランクリンのユーモアと率直な言動が人気を得た。そして、義勇軍として大勢が新大陸に渡ったという。その中に、後にフランス革命で活躍するラファイエットもいたという。
フランクリンは、条約締結後そのまま大使として残りパリ滞在は9年にも及ぶ。当初、ルイ16世は戦争に踏み切る気がなかった。そもそも絶対王政が自由主義国家を支援するのも奇妙である。だが、宿敵イギリスの弱体化は願ってもない。サラトガの戦いで貧弱なはずのアメリカがイギリスに勝利すると、側近たちから早く参戦した方が得だとせっつかれる。優柔不断な王は条約締結にサイン。イギリスもしたたかで、敗戦を覚悟すると、アメリカを自国製品の市場にした方が得策だとして方向転換し、密かにアメリカをフランスから引き離して単独講和を結ぶ。
対してフランスでは、戦争が国家財政を圧迫して王朝への信頼を失墜させ、革命の気運を高めることになる。この戦争で損をしたのはフランスというわけか。既にルイ14世の頃から財政は悪化方向にあり、その感覚が宮廷内で慢性化して、危機の境界が誰にも分からない状況にあったという。なんとなく現在のごく身近な某国の財政状況を語っているように見えるのは気のせいか...

10. マリア・ルイサとスペイン・ブルボン王朝のその後
ルイ14世の孫アンジュー公フィリップが17歳でフェリペ5世となって、スペイン・ブルボン王朝の開祖となる。彼は、いつまでたってもスペインに馴染めなかったという。宮廷内ではカタロニア語を禁じるほどに。華麗なヴェルサイユ宮殿生まれには、スペインは落ちぶれた片田舎に映るようだ。陰謀の渦巻く異国の宮廷で、神経は変調をきたす。41歳で退位して16歳の長男に王位を譲るものの、すぐさま息子が病死。ますます王冠が重くなり、鬱病で悩まされる人生。フェリペ5世が63歳で逝去すると息子フェルナンド6世が継承。その後、子供ができなかったので死去すると腹違いの弟カルロス3世が継承。
カルロス3世は歴代で最もまともで、マドリッドの都市整備などで国力をかなり回復させたという。長男は知的障害があったため、次男を王太子とする。後のカルロス4世だ。事あるごとに父はカルロス4世を馬鹿にしたという。それで本当に駄目人間にしてしまったのかは知らん。カルロス4世は従妹マリア・ルイサと結婚。後に「スペイン史上最悪の王妃」と異名をとる女性だ。
ところで、宮廷画家ゴヤの作品「カルロス4世家族像」の真ん中に描かれるマリア・ルイサの醜さは悪意でもあるのか?マリア・ルイサは舅のもとで公務をこなし、気に入られていたという。そのことが、ぼんくら王を軽蔑し鼻面で引き回すようになったとか。王妃は14人の子を産んだが、そのうち2人は愛人ゴドイの子と噂される。ゴドイは王妃の寵愛から宰相に成り上がる。王太子、後のフェルナンド7世は両親を嫌い、母の愛人が牛耳る宮廷で反対派を募る。間もなくナポレオンがスペインへの野望を露わにするが、その時ナポレオンを引きいれたのがこの王太子で、親を売ったわけだ。カルロス4世は、妻子と妻の愛人とともに亡命。マリア・ルイサは、イタリアでゴドイに看取られて死去。フェルナンド7世はナポレオンと会見するためにフランスへ赴くが、そのまま拘束される。結局、ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン王となってホセ1世を名乗る。だが、民衆の間では反フランス運動が盛んになり、フェルナンド7世を返せ!と叫ぶ。フェルナンド7世もルイ14世の子孫なんだけど...
ナポレオンが失脚するとフェルナンド7世が返り咲き、異端審問を再開して裏切り者を処刑する。絶対王政への反対者を徹底的に弾圧して、ボナパルト家以上にスペインを血の海とする。ここまできて、民衆はようやくフェルナンド7世が悪魔だったことに気づくわけか。フェルナンド7世は息子が遺せず、3歳の娘イサベル2世に継承させた。そして、またもや王位継承問題となり女王は亡命。その後、イサベルの息子アルフォンソ12世が継承し、その息子13世へと続き、実権はフランコ独裁政権へと引き継がれる。ちなみに、現在のスペイン国王フアン・カルロス1世は、アルフォンソ13世の孫にあたるそうな。

11. 恐怖政治からナポレオンへ
1789年、国民議会は人権宣言を採択。あの「人間は生まれながらにして自由で、権利において平等である」と謳った17カ条。1792年、国民公会が招集され、共和制樹立。だが、民衆はパンの高騰に喘ぎ、各地で暴動が頻発した。そもそもフランス革命は、恐怖政治へとつながるわけだから民衆の勝利ではなかろう。新興資本家たる大ブルジョワジーが主体となった革命と言った方がいい。人権宣言とは、富裕層の人権だったのだ。
左のジャコバン派が右のジロンド派を追い詰める。だが、ジャコバン派では相変わらず内紛が続き、ロベスピエールがダントンやロベールを次々と粛清する。ジロンド派は、その内紛を突いてテルミドールのクーデターを起こすと、ロベスピエールはギロチンへ送られ、革命の方向はますます右へ右へ。そして、大ブルジョワジーは武力行使の必要性を痛感する。担がれたのは、北イタリアを制圧し英雄に祭り上がられたコルシカの軍司令官ナポレオン・ボナパルト。だが、第一統領から皇帝の称号を得ると、ロベスピエール以上の野望を剥き出しにする。どんな英雄も誇大妄想には勝てないということか。これに幻滅し公然と避難した人も少なくない。
まず、実母が息子の野望を見抜いて大反対し、戴冠式を欠席したという。スタンダールは「革命の子をやめ、ふつうの君主になりたかった」と非難したという。ベートーヴェンは「彼もだたの人間に過ぎなかった。これからは己の野心のため全人権を踏みにじり、専制君主となるだろう」と言い放ち、ナポレオンに献呈するはずの交響曲第3番は題名を「ボナパルト」から「英雄」へと変えた。戴冠式では、教皇ピウス7世がローマから呼びつけられながら戴冠の儀を行わせてもらえず、ナポレオン自身が自分に戴冠し、教皇の神権を否定するパフォーマンスをやってのけたという。ナポレオンが英雄で居続けられるのは戦争で勝利し続けること、それは本人が一番理解していたことだろう。そして、たった一度の敗戦で失脚。ロシア遠征の敗北でエルバ島へ流された。

12. ルイ18世とメデュース号事件
ナポレオン失脚後、戦後処理のウィーン会議で、ルイ16世の弟ルイ18世が帰還して王政復古する。しかし、ルイ18世は、昔の王政の権威と亡命貴族たちを復活させたために民衆から顰蹙をかい、1年も経たずエルバ島を脱出したナポレオンに復帰の機会を与える。ただ、ナポレオンが復帰するということは、戦争が続くことを意味する。民衆はそれを望んではいない。ワーテルローで敗戦すれば、たちまち百日天下も終わる。
再び王冠をかぶったルイ18世は、恐怖政治やナポレオン登場の背景から何も学ばず、相変わらず革命前の大貴族らを優遇した。そんな時、メデュース号事件が起こる。植民地セネガルに兵士や移住者を運ぶメデュース号の艦長が元亡命貴族で、その無能振りで暗礁させたあげく、自分らだけ救命ボートで脱出し、平民147人を筏に打ち捨てたという事件。病死、餓死、人肉を食すなど、生き残ったのはわずか10人だったという。事件は国際的スキャンダルとなる。その様子を描いたのが、ジェリコーの作品「メデューズ号の筏」

13. シャルル10世と諦めの悪い王党派
病死したルイ18世を継いだのは弟アルトワ伯で、シャルル10世を名乗る。とはいえ既に66歳。ランス大聖堂の戴冠式や聖別式などの華やかな王朝儀式を復活させ、亡命貴族の財産を補償したり、財産分与を防ぐための長子相続法を復活させる。亡命貴族や聖職者への優遇や国王への権力集中は、経済不況と重なって、民衆ばかりでなくブルジョワジーの不満も招く。シャルル10世は、戦争によって不満を紛らわそうとアルジェリアへ出兵。ちなみに、フランスのアルジェリア支配は、この時からド・ゴール大統領が独立を承認するまで続くことになる。この侵略戦争も民衆を宥めることはできす、選挙は反政府派が勝利する。
シャルル10世には思いこみがあったという。ルイ16世は軟弱な政策をとったばかりに革命を招き処刑されたと。シャルル10世は強腰を崩さず、王の権威を知らしめようとする。そして、緊急勅令を出す。なんと!選挙後にまだ召集もされていない下院を解散し、選挙法を改変して報道の自由を禁止したという。ルイ16世は英国史を研究して、チャールズ1世処刑の原因を強硬路線に見出したとして、その反対路線をとった。今度は、弟シャルル10世がルイ16世の反対路線をとったわけだが、双方の失敗は情勢が読めなかったことであろう。既に人権思想が高まっていたことを完全に無視すれば、三色旗が翻って七月革命が起こるのも仕方があるまい。
国民にとって恐怖政治へ回帰することが最も怖い。過去の革命の経験から、国民は革命後の秩序が重要だと認識していたという。第二のロベスピエール、第二のナポレオンの出現を阻止するためには王家は残しておく方がいい。ただし、絶対君主制を夢見るのは論外。では誰が王に相応しいか?ブルボン家の支流オルレアン公ルイ・フィリップに白羽の矢が立つ。ルイ14世の弟から始まる6代目で、ルイ・フィリップ1世を名乗る。シャルル10世は退位させられたが、処刑もされずに見くびられたという。もう王政復古に戻る心配がないほど、民衆やブルジャワジーたちは懲りていたということか。
シャルル10世は、息子夫婦とイギリスへ亡命、6年後にイタリアで死去。それでも、王党派は諦めきれずにシャルル10世の息子アングレーム公をルイ19世と呼んだという。アングレーム公は、ルイ16世とマリー・アントワネットとの間の娘マリー・テレーズと結婚していた。王党派は次にシャルル10世の弟ベリー公の息子シャンボール公をアンリ5世と呼んで夢にしがみつく。しかし、無力な貴族たちが亡命先で騒いだところで、負け犬の遠吠えでしかない。二人が子を残さずに世を去ると、ブルボン家は完全に滅亡。ルイ・フィリップもまた18年の在位中に保守反動化していき、とうとう民心から見放され二月革命で追放される。
これで王政は完全に終焉し、やっと本格的な共和政が到来した...かに見えた。いやまだ、ルイ・ナポレオンって奴が残っている。ナポレオン・ボナパルトの甥だ。

14. ドラクロワの作品「民衆を導く自由の女神」
この絵画は、歴史教科書などでお馴染みで、誰もが一度は目にしたことがあるだろう。このロマン主義を代表する傑作は、革命フランスの原点とも言うべきものがある。そもそも、なぜ胸をはだけた女性が市街戦の最前線にいるのか?実は、彼女は人間ではなく、人間の姿をした抽象概念だそうな。人間中心主義的思想であるのは間違いないのだろうが、宗教画の意味合いが強いのだろう。このあたりのセンスが西洋画の分かりにくいところである。擬人像「自由」は、従来フリジア帽(先端の垂れた円錐形の帽子)をかぶった女性として描かれるのが決まりだという。それは、ローマ時代に解放された奴隷が女神フェロニアの神殿でフリジア帽を与えられたところからくるらしい。この絵では、フリジア帽をかぶった上半身裸の女性が、左手に銃剣を握って、右手で三色旗を掲げている。これがフランス国旗となるのだが、青、白、赤のトリコロールカラーは、自由、平等、博愛を表す。つまり、ルイ18世が禁止した旗が振られているということらしい。なるほど、大ブルジャワジーのフランス革命から、ようやく民衆のフランス7月革命へ辿りついたことを描いているわけか。ちなみに、ドラクロワは富裕な外交官の家に生まれたが、本当の父親はタレーランという説もあるという。父親はブルボン王朝を支持し、息子はそれを否定したということか?

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