2011-07-03

"君主論" Niccolò Machiavelli 著

日本の政治が三流と言われて久しい。東日本震災後の政治のゴタゴタと報道のあり方は、太平洋戦争期と重なって映る人も少なくないだろう。戦時中は索敵の不徹底が悲劇を繰り返し、国民は終戦直後まで勝利を信じさせられてきた。そして今、三ヶ月前の原発報道は何だったのか?情報に対する姿勢はなんら変わっていない。いや、大本営の乱立はむしろ質ちが悪いか。
不思議なのは、政治が機能しなくても経済力はしっかりしていることだ。ほとんどの国で経済の整備は国家主導でなされるが、この国は邪魔をしている。鍛えられているということか?外国人からは、日本は国家や企業などの組織において現場がしっかりしているとよく指摘される。言い換えれば、リーダシップ論やマネジメント論といったものが根付かないと揶揄されているのだけど。
政策立案で現場主義や現実主義を唱えれば、それなりに良く聞こえてくる。だが、現場の分からない輩にまともな助言をしても無駄だ。余計なポストを設けたり、対策本部を乱立させたり、命令系統を複雑化することは絶対にやってはいけないこと。そんなことは、ちょいとマネジメント経験があれば分かるはず。とっとと現場に権限を委譲する方がいい。政治主導とは、余計な存在感を示すことなのか?こんな状況であっても、マキアヴェリストを称する者は少なくない。あの世でマキアヴェッリは呟いているだろう。「私はマキアヴェリストではない!」と...

「君主論」は、いろんな翻訳版があって目移りしてしまう。とりあえず一番安そうな講談社学術文庫版(佐々木毅氏訳)を手に取ってみた。本書は意外な面を見せる。というのも、その題目からして独裁論のようなものと勝手にイメージしていたからである。こんなことなら、もっと早く手にしてもよかった。
ここでは君主のあり方が論じられるのだが、君主という形態だけでなく政治全般のマネジメント能力について論じられているように映る。それは、幸運や偶然によって得た支配権や、実力で勝ち取った支配権など、様々な支配権の獲得方法を論じながら、いかに民衆を統治するかを重視しているからである。支配や征服のあり方を論じながら共和政を考察したり、はたまた世襲制や完全に新しい政権などの権力誕生の過程なども考察する。マキアヴェッリにとって君主権とは、君主政だろうが共和政だろうが、あまり区別がないようようだ。
また、モーゼを優秀な指導者の一人とするなど、政治的統治能力を宗教と区別なく扱っている。これには宗教家たちから攻撃されたことであろう。当時にしては勇気のいることであり、優れた点とも言えよう。したがって、「君主論」というよりは「統治論」と言った方がいい。ただ、独自の植民地論を展開したり、過激で独裁君主的な発言もちりばめられ、時折不愉快にさせられる。
「戦争を避けるために混乱を放置すべきではなく、戦争は避けられないのであるから、先に延ばせばかえって自らにとって不利になるだけのことである。」
この記述だけを平和主義者が拾い読みすれば、マキアヴェッリは批判の矢面に立たされるだろう。陰謀に関しては、「君主は批判を招くような事柄は他人に行わせ、恩恵を施すようなことは自ら行うということである。」と発言している。また、「人間は恩知らずで気が変わり易く、偽善的で自らを偽り、臆病で貪欲である。」といった人間悪魔論的な議論も展開される。だが、それはそれで胡椒が効いていていい。人間が善悪の双方で本質を抱えている限り、人間悪魔論的な考察を避けるわけにもいくまい。人間善人論的でくすぐったくなるような理想像ばかり並べ立てるよりは遥かに現実的である。
また、当時のイタリアが特殊な政治状況で病んでいたからこそ、「君主論」という題名を与えたのかもしれない。それは、最終章の題目が突然「イタリアを蛮族から解放すべし」という感情論で締めくくっていることからも伺える。

時代はルネサンス末期。国内で勢力拡大を目論むヴェネツィア人の野心が、フランス王国と通じるという売国行為のために権力バランスが崩壊し、教皇の権力を異常に拡大させてしまう。その一方で、カール5世率いる神聖ローマ帝国の圧力に曝される。非常に不安定な政情となれば、民衆は強力な指導力を発揮する英雄的政治家の登場を願うものだ。ただし、強力な指導力は民主主義と衝突するところがある。
いつの時代でも政権を維持するには、その時代の有力者たちを満足させなければならない。ローマ帝国時代では、民衆よりも兵士の方がはるかに強力であったために、兵士たちを喜ばせなければならなかった。貴族社会では貴族を喜ばせ、貴族が腐敗すれば君主もそれに加担するという始末。産業革命期では、資本階級を喜ばせた。では、民主主義では民衆を喜ばせるように政権運営がなされているだろうか?なるほど、一部の民間団体が既得権益を強化させて政治支援団体と化す。
となれば、問題は選挙制度であろうか。一つの選挙区の規模があまりにも小さいために地元との癒着を強める。そして、当選回数が多いほど党内で幅を利かせ重要なポストに就く。おまけに、チルドレン議員を増殖させて派閥を利かせる。得票数からすれば国会議員よりも知事の方が権威がありそうなものだが、国を背負うということで格付けは上だ。真の権威を与える意味でも、一つの選挙区の規模を大きくし、国会議員の数を大幅に減らすべきであろう。日本では、かつて民意が反映されて国家元首が決まった例があまりない。我が国に民主主義はないという意見が少なくないのもうなずけよう。

統治術という観点からすれば、それが君主政であろうが共和政であろうが、はたまた民主政であろうが、対象が民衆であることに変わりはない。今日の民主政治は、法律や政治手法といった手段ばかりに目を奪われ、根本的な政治への信頼は失われつつある。統治術の基本原則には、政治への信頼がある。たとえ独裁政権であっても、公明正大な権力運営がなされるのであれば問題はない。だが、歴史はそれはありえないことを十分過ぎるほど証明してきた。だからといって、平等を崇め過ぎれば合法的に搾取され、自由を崇め過ぎれば独占形態に辿り着く。君主が暴走することもあれば、民衆が暴走することもある。政治が暴走することもあれば、法が暴走することもある。宗教的な暴走もあれば、世襲的な暴走もある。どんな政治体制であっても、人間社会は常に暴走する危険性をはらむ。民主主義の暴走は、独裁政権と同じくらい危険であることを肝に銘ずるべきであろう。
あらゆる組織で政治的な要素が絡み、政治術には人間操縦術が秘められる。つまり、政治とは、マネジメント能力に他ならない。しかし、だ!真にマネジメント能力のある者は、民主政治には向かないのかもしれない...などと考えてしまう。
政治では欺瞞するのが巧みな者ほと優位となり、マネジメント能力よりも宣伝能力が問われる。現場を知らない人間がマネジメントをやれば、混乱を招くのは必定。彼らのできる事と言えば、「情報を出せ!」と脅すことぐらい。情報が集まったところで分析能力がないのに。好転した組織の影では、意思決定の権限を持つマネージャが穏やかな独裁者として振る舞っている。わざわざ善人を演じるような肩の凝ることを嫌い、無骨な態度で合理的に目的へ邁進する。企業体においてマネージャの地位に就く者は、民主的な投票で選出されるわけではなく、組織の上層部が独占的に意図する。真の実力者には、ある程度の独裁的裁量を容認する必要があろう。ただし、それを支えているのは、マネージャを含めたメンバー全員が共通の目的意識や哲学意識を持っているからであるが。
国会議員になる資格として、地方自治体や産業界などで実績を持った者でなければならないといった風潮を築き上げない限り、永遠に国政は現場と乖離し続けるであろう。つまり、選挙民の意識にも問題がある。こうした背景から、政界には真のマネジメント能力を持つ人材、あるいは組織が出現する可能性は極めて低いだろう。地位が人を作ると言うが、地位を得た者は視野が狭くなるというどこぞの調査報告も本当かもしれない。
「君主にとって必要なのは、信義の資質を有することではなく、それを持っているように見えることである。」

1. マキアヴェッリ
ルネサンス末期、フィレンツェで育ったマキアヴェッリは、イタリア政治の没落を身をもって体験した世代だという。1494年フランス王シャルル8世のイタリア侵攻によって、イタリア情勢は一変する。メディチ家に支配されていたフィレンツェは、共和政へと復帰し独立都市国家となる。その時、マキアヴェッリは書記官に登用され、教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアとの交渉や、フランス王国と神聖ローマ帝国との均衡などで働いたという。しかし、再びフィレンツェはメディチ家の支配に戻り、マキアヴェッリは一時追放される。「君主論」は、フィレンツェ郊外に隠棲していた1513年後半に書かれたものと推測されるという。
政界復帰を願ったマキアヴェッリは、メディチ家に接近する。だが、共和政の首謀者とみられ、教皇レオ10世(大ロレンツォの二男ジョヴァンニ・デ・メディチ)に警戒される。マキアヴェッリは、後任のジュリアーノ・デ・メディチ(大ロレンツォの三男)に「君主論」を献呈したかったという。結局ジュリアーノ・デ・メディチの死後、この作品は紆余曲折を経て、小ロレンツォ(ロレンツォ・デ・メディチ)に献呈される。
彼は、不本意ながら著作策動に力を注ぎ、「君主論」と並行してもう一つの主著「リウィウス論」(ティトゥス・リウィウスの初めの十巻についての論考)を執筆する。彼の生前で名声を最も高らしめたのが喜劇「マンドラゴラ」だという。「戦術論」は唯一生前に刊行された作品だそうな。
小ロレンツォと教皇レオ10世が相次いで死去すると、マキアヴェッリとメディチ家の関係は改善される。新たにフィレンツェを統治したジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の配慮で政界に復帰する道が開かれる。また、ジュリオ・デ・メディチに「フィレンツェ史」の執筆を依頼されたという。
ジュリオ・デ・メディチが教皇クレメンス7世になった頃、神聖ローマ皇帝カール5世がフランソワ1世を破り勢力を拡大する。反皇帝同盟の足並みは乱れ、教皇クレメンス7世も神聖ローマ皇帝とフランス王のどちらにつくか迫られる。イタリアは軍事的に崩壊し、教皇は囚われの身となって、あの悪名高い「ローマ略奪」が発生する。尚、本書では「ローマ劫掠」と表わされる。フィレンツェでも反メデイチ家蜂起が起こり、再び共和政へと戻る。マキアヴェッリは、メヂィチ家に接近したことで裏切り者呼ばわれされながら世を去ったという。だが、政治形態では共和政に対する情熱が最も強いようだ。それが恨みからきているのかは知らん。彼にとって最大の征服者は共和政ローマだったのかもしれない。

2. 君主の資質
少なくとも民主政治では、善人そうに見えなければ、あるいはそう見えるように演じられなければ、政治家にはなれない。残酷と慈悲、あるいは恐れさせるのと敬愛されるのとではどちらがいいか?と問えば、いずれも後者を評判としながら、前者を実行できる人物としている。
「優柔不断な君主は、現前の危険を回避しようとして多くの場合中立政策をとり、多くの場合滅亡する。」
慈悲といっても、お人良しや発泡美人では政治はできない。民衆の憎悪は、良い行いからも悪い行いからも生じる。誰かが汚名をかぶらなければならないというのも、政治の本質であろう。
本書は、「君主 = 有徳者」という一般的な議論を批判する。君主の資質では狡猾さが必要というわけだ。民主主義では、本音を隠し欺瞞するのが上手な者ほど有利となる。真に優れた人物は実直すぎて誤解されるところがある。また、あまりにも誠実な言葉を発言すると照れくさくもなり躊躇もしよう。善人はちょいワルオヤジを演出したりするものだ。
対して、悪人が悪態を見せることは滅多にない。政治能力よりも宣伝能力の高い人間が、マスコミとうまく付き合う。したがって、政治家向きの人間は、必然的に悪徳を身に付けることになりそうだ。政界とは、欺瞞することに抵抗のない脂ぎった欲望の強い人間でもなければ、自殺に追い込まれるような世界なのだろう。堂々と善人面ができるのも、政治家の能力ではあるのだが...彼らはいつも法律を盾に言い訳をするが、もはや理性が働かないことを宣言しているようなものだ。脂ぎった欲望に憑かれた連中を取り締まる方法は、法律しかないのかもしれない。なるほど、彼らはそれを十分過ぎるほど自覚しているから法律に頼るのか。

3. 独自の植民地論
新たな領土を獲得した場合、風俗慣習が似通っていてすんなりと権力が受け入れられる場合もあれば、その逆もある。言語、慣習、制度が違えば、当然ながら、その統治は困難を極める。植民の代わりに軍隊を駐留させる場合は費用がかさみ、新たな領土からの全収入を守備隊のために費やすことになる。その結果、領土の獲得はかえって損失をもたらし、多くの人々を傷つけることになる。
しかし、植民にした場合は、大して費用がかからず有益な方法だという。新しい住民に土地や家屋を与えれば、そのために奪われた人々だけは憤慨する。だが、少数派だから気兼ねすることはないという。おまけに貧しいから害をなすこともできないと。ここでは、文句の言えない少数派は、徹底的に財産を奪い取り、刃向かえば見せしめにできる...とった過激な発言がある。
「人間は些細な危害に対しては復讐するが、大きなそれに対しては復讐できないからである。それゆえ、人に危害を加える場合には、復讐を恐れなくて済むような仕方でしなければならない。」
人間は、寵愛されるか、抹殺されるかのどちらかでなければならないという。国家が少数派の犠牲によって成り立つというのも事実だけど...ちょっとムカつく!

4. 自由都市の征服方法
「実際のところ、自由な国制を享受していた都市に対する支配権を維持する最も安全な方法とは、それを破壊することにほかならない。そして自由な国制に慣れ親しんだ都市の支配者となった者がそれを破壊しない場合、自らがかえってこの都市によって破滅させられるのを待っているようなものである。」
んー!最も安全な方法は、最も危険な方法となろう...
征服された都市は、自由の名や過去の制度を口実にして、常に反乱を起こす機会を待つものだという。どんなに時間が経っても、どんなに恩恵を与えても、決して忘れ去られるものではないからだそうな。共和国には、多くの生命力と、支配者に対する憎悪の念が強く、復讐欲も強力で、自由の記憶を捨て去ることはできない。その好例として、フィレンツェに従属したピサが、百年後に反乱を起こした事件を持ち出している。
んー!ここまで分かっていながら、なぜ最も危険な方法を選択するのかは分からん。現代感覚では、少々読み辛いところであろうか。

5. ルイ12世の過ち
フランス王ルイ12世がイタリアにすんなり侵入できたのは、ヴェネツィア人の野心のお陰だという。ヴェネツィア人は、ロンバルディアの半分を獲得しようと企てる。ルイ12世は、ヴェネツィアと同盟してロンバルディアを獲得し、イタリア戦争でシャルル8世の失った名声を取り戻した。ジェノヴァは降伏し、フィレンツェは味方となり、イタリアの各地から味方となるべくフランス王と会見した。やがて、ヴェネツィアは自らの行動の軽率さに気づく。ルイ12世は全イタリアの3分の2を支配してしまったのだから。
しかし、ルイ12世は、その支配能力の欠如から教皇の権力とイスパニアの勢力を巨大化してしまったと指摘している。イタリアで味方になった多くは弱体で、教会やヴェネツィアを恐れ、ルイ12世に味方せざるを得なかった。彼がイタリアに安全と保護を与えたならば、すんなりとこの地を統治できたかもしれないが、ミラノに入ると反対のことを行う。教皇アレクサンデル6世にロマーニャを占領するように援助する。その行為が、教会に精神的権威に加えて世俗的権威までも与え、教会を強大ならしめたという。
「ルーアン枢機卿はイタリア人は戦争というものを理解していないといったので、私はフランス人には支配というものが分かっていないと応答した。」
そして、一つの過ちが次々に過ちを重ねることになったという。ナポリ王国では、ルイ12世に従属する王をそのままにしておくべきだったのに、それを退けてイスパニア王と分割し、ルイ12世を追い出すような能力の持ち主を王に据えてしまった。かくして、フランス王国は味方を失い自滅していったと分析している。
「領土獲得欲というものは、極めて自然で当然のものである。権力のある者が領土を獲得するのは称えられることでこそあれ、非難されるものではない。しかし、能力のない者が是が非でも獲得しようとするのは、誤りであり非難に値する。」

6. ヴァレンティーノ公ことチェーザレ・ボルジア
「君主論」のチェーザレ・ボルジアに関する記述は有名らしい。
本書は、チェーザレ・ボルジアを偶像とし、他力で君主に就いた例として持ち出している。チェーザレ・ボルジアは、父教皇アレクサンデル6世の幸運によって支配権を獲得し、父の不運によって地位を失ったという。マキアヴェッリは、チェーザレ・ボルジアから直接話を聞いたと証言している。「父の死が、自分を瀕死にするとは考えもしなかった」と。
ここでは、教皇の選挙で誤りを犯し、教皇ユリウス2世を誕生させたことを痛烈に批判する。後に、政治における教皇の影響力を巨大化することになるのだが、その元凶がこの人物にあったという。教皇アレクサンデル6世以前では、諸侯や弱小貴族たちでさえ、教皇の俗権を軽侮していたという。だが、ユリウス2世が登場すると、フランス王でさえも恐れさせ、ヴェネツィアを破滅させるほどにまで教皇の俗権を強力にしたと指摘している。そして、ユリウス2世の後、レオ10世では教皇の俗権を巨大化させたという。
ただ、教権と俗権の対立はもっと古くからあったはずで、その象徴的な事件がカノッサの屈辱であろう。聖職叙任権をめぐって対立したが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世の前で跪いて決着した。その流れからすると、もともと11世紀あたりから教皇が権力を拡大する方向にあったと思われるが、教権の上に俗権までも手にしたのが、この時代ということになるのだろうか?このあたりの歴史の解釈は難しそうだ。ちなみに18世紀にもなれば、神聖ローマ帝国ですらヴォルテールに「神聖でもなくローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と揶揄されることになるのだが...

7. アレクサンドロス大王の支配
「アレクサンドロス大王が征服したダレイオス王国で、アレクサンドロスの死後でさえも、その後継者に対して反乱が生じなかったのはなぜか?」
アレクサンドロス大王は、短期間でアジアを征服し、多くの現地人を登用した。そして、征服するや否や亡くなった。その政治体制は、一人の君主とその従僕たちによって支配した。彼らは君主の恩恵と同意により大臣として統治を補佐する。また、各地の諸侯たちは伝統的な血統によって地位が保障され、君主と諸侯の共存によって統治した。進軍を続けるためには、あるいは、大国ペルシャの影響範囲を考えれば、文化の共存という寛容さが必要だったのだろう。現実的な方策である。
このような例は、当時のトルコ王国とフランス王国の違いに見られるという。全トルコ王国では、一人の君主によって支配され、すべての他の人々は従僕である。王国は行政区に分割され行政官が派遣されるが、君主の思いのまま更迭され転任される。
対して、フランス王国では、多くの古い家柄の諸侯がいて、諸侯たちは人民に主人と仰がれる。諸侯たちには特権があり、それを君主がむやみに奪うことはできない。それゆえに、トルコを征服することは難しいが、一旦征服すれば維持が容易いという。
トルコの民衆は、一人の王に隷従し、王に恩義を感じており、それを腐敗させることは難しい。だが、征服するのに恐れるのは王の血統だけとなれば、その血統を根絶してしまえば、別の主人を見つけることになるという。
一方、フランス王国を征服することは容易いが、維持するのが極めて難しいという。変革を望む者や不満分子がいつも現れ、諸侯の誰かを味方に引き入れれば、容易に侵入できる。だが、自由意志に富んだ連中を統治するのは難しい。ペルシア王ダレイオス3世の政治形態はトルコ王国に似ている。アレクサンドロス大王は、ダレイオス3世を殺してアケメネス朝を完全に滅亡した。アケメネス朝ペルシアがフランス王国のような政治形態であれば、これほど簡単に統治することはできなかっただろうという。

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