2011-07-31

"ローマ建国史(上)" リーウィウス 著

リウィウスのローマ建国伝説は142巻にも及ぶという。しかし、その多くは失われ、岩波さんの「ローマ建国史(上/中/下)」は、現存部分の1巻から5巻にあたるという。本書は更に絞り込まれて、1, 2巻だけ。上巻が刊行されたのが2007年、全3冊が出揃ったら購入しようと待ち構えていたところ、完成することなく翻訳者鈴木一州氏は亡くなられたそうな。残念!とりあえず、上巻だけでも読んでおくとしよう。
それにしても、リウィウスの記録の中で、共和政時代が集中的に失われる理由が分からん。陰謀やスキャンダルが暴露され、政治的な意図で闇に葬られたのだろうか?などと想像してしまうのは、後にタキトゥスがローマ帝国時代の腐敗を暴露しているからである。おまけに、タキトゥスの記述も三分の一ほど失われている。これらは単なる偶然であろうか?
「ローマ建国史」は、歴史の欠片の中の中途半端な作品、まさしく未完成の大作と言えよう。本書の最大の功績は、人生を完成させることは不可能だということを知らしめたことであろうか。

最初、用語に少々違和感があって混乱してしまう。慣れればどうってことはないのだけど...
執政官(コーンスル)は「執政委員」、独裁官(ディクタートル)は「独裁委員」と記される。特に気になるのが、パトレースやパトリキィーを「父たち」としているところであろうか。長老のようなイメージを示しているのだろうが、元老院から上流階級や貴族階級まで、すべてひっくるめているようで悩ましい。一方、「平民トリブーヌス」は、平民と権力者の仲介役でありながら、権力寄りからだんだん平民寄りになっていき、護民官に近づく感じがうまいこと表れている。
...こんな具合に、ちょっと想像力を働かさないと解釈が難しいのだが、それはそれで思考が試せておもろい。
ローマ建国史は、あまりに太古ゆえに、ギリシャ神話の延長から始まる。神話が歴史書に変わりつつある時代とでも言おうか。そもそも、ギリシャ神話やローマ神話が事実を基に大袈裟に演出した物語なのかもしれない。まず、トロイア戦争で敗走したトロイア人の末裔がイタリアに流れ着き、そこを居住地とする。その子孫の娘を神マルス(ギリシャ神話の軍神アレースにあたる)が犯し、できた子供が伝説の初代ローマ王ロームルスとなる。よって、古代ローマ人は強姦の神マルスを父と呼ぶ。ローマ帝国の腐敗はこの時すでに運命づけられていたのかもしれない。

本書は、紀元前8世紀から始まる七代に渡る王政時代と、それに続く共和政時代の初期、紀元前5世紀頃までを物語る。
初代王ロームルスは尊厳的な人物とされるだけあって、国家安泰のために周辺地域の人々を寛大に受け入れ、元老院などの制度を創設した。当初から、王位に就くためには元老院の承認を必要とする政治システムを考案していたのである。戦で勢力を拡大すれば、次の王は平穏な統治を行い、精神の支えとなる神霊的な制度を整備し、秩序を維持するための階級制度を設ける。また、常に外敵に曝され、それを撃退するたびに植民市に加え、人口が増加していく。戦で苦しむ時期が長く続くと、民衆は平和を求める。戦をするにしても、儀礼的なものがなければ民衆も納得しなくなる。こうした思想的流れは共和政を予感させる。王位が継承されていくうちに横暴な振る舞いが目立つようになると、やがて元老院は機能しなくなり、政治に収賄や陰謀が結びつく。紀元前5世紀の入り口になると、腐敗した王政は終焉を迎える。
世襲制の弊害に気づいた有力者たちは、革命を起こして王族を追放。そして、二人の執政官による共和政が始まる。その任期は一年に制限された。再選はあるものの...一族がその地位を独占した時期があるものの...絶対的君主が存在しなければ、秩序を維持するために裁断を下すための新たな基準が必要となる。リウィウスは、自由を実践するには厳格な法が必要だとしている。
平穏な時代では、二人の執政官のパワーバランスの下で統治されるが、国家的危機を迎えれば強力な指導力の必要性を認め、執政官の一人を独裁官に任命するシステムを編み出す。また、平民を虐げれば暴動を起こし、権力者も平民を無視できなくなる。そして、平民を救済するための護民官や平民会といったシステムが整備されていく。
...こうして眺めていると、王政や共和政の反省から権力均衡の必要性に目覚めていった様子がうかがえる。法治国家とは、その根幹に権力をいかに制限するかという仕組みにかかっているというわけか。現在においても、情報の透明性が強調されるのは、権力不均衡に対する疑いの目としてであろう。民主主義の起源は、権力者の権限が制限され、任期が規定された執政官の時代にあるというのは、言い過ぎだろうか?
また、必要とされる政治家の性質は、平時と非常時でまるっきり違うことも浮き彫りにする。現在においても、経済危機や国難に直面すれば即座に対応できる強烈な指導者を求める。だが、同時に傲慢さも兼ね備えていて鬱陶しい。世論は、政治家にどんな功績があろうとも腐敗を嫌うもので、移り気も早い。となれば、時代に合った政治家がその役割を終えた時に速やかに去るのが、これまた政治家の使命であろう。だが、脂ぎった輩ほど政界の去り方を知らずに暗躍する。
本書には、政治家や法律や政治システムの役割、あるいは社会制度の源泉のようなものが語られている。そして、既にこの時代にあって、自由と平等の意味を必死に模索しているように映る。「すべての道はローマに通ず」とはよく言ったものだ。

1. ローマ人の子孫トロイア人
アカイア人はトロイア市占領後トロイア人を赦さなかったが、アェネーアース(アイネイアース)とアンテーノルの2人だけは友好関係の誼と、講和とヘレナ返還を主張したことから命を救われたという。
アンテーノルは、ハドリア(アドリア)海の入江に着き、アルペース山地(アルプス)との間のエウガネイー人を追い出して、その地に落ち着いた。
一方、アェネーアースは、マケドニアに逃れた後、シキリア島(シチリア)を経由してイタリア半島に渡る。そして、現地のラティーヌス王の客友となり、王の娘ラーウィーニアと結婚する。彼は新たな都市を建て、妻の名にちなんでラーウィーニウム(ラティウム)と名付けた。これがラテン人の起源とされる。この地でアェネーアースの息子アスカニウスが誕生する。
ところが、ルトゥリー人を率いるトゥルヌス王は以前からラーウィーニアと婚約していた。そして、アェネーアースと敵対する。ルトゥリー人が戦を仕掛けてくると、それを撃退するが、ラティーヌス王は戦死する。撃退されたトゥルヌス王は、エトルーリア人を率いるメゼンティウス王の勢力下に入る。エトルーリア人は、アルーペス山地からシキリア地峡に至るまで、全イタリアを支配する軍勢を率いていた。アェネーアースはエトールシア人を撃退して勢力を拡大するが戦死し、少年アスカニウスが王位を継承する。彼は、既に栄えた都市ラーウィーニウムを母親か継母かに残し、アルバ山の麓に新たな都市を建て、アルバ・ロンガと名付けたという。

2. アルバ王族と都市ローマの誕生
アスカニウスの後は、その息子シルウィウスが継承する。後は、その息子アェネーアース・シルウィウス、またその息子ラティーヌス・シルウィウスと「シルウィウス」の添え字が使われ、アルバ、アテュス、カピュス、カペトゥス、ティベリーヌス(ティベリス河の語源)、アグリッパ、ロームルス(アルディウス)、アウェンティーヌス、プロカと続く。そして、プロカの息子ヌミトルとアムーリウスで継承を争う。
弟アムーリウスは兄ヌミトルを退けヌミトルの息子を殺害する。なぜヌミトル自身の命が助けられたのかは分からん。ヌミトルの娘レア・シルウィアは、ウェスタ女神の女祭司となり純潔の掟に服す。しかし、掟は破られ、彼女は神マルスに犯されて双子を産む。ローマ建国の双子ロームルスとレムスである。素性不明の子を神の責任にして弁明したのかは知らんが、女祭司レア・シルウィアは投獄される。アムーリウス王は、双子をティベリス河に流すように命じる。河に流された双子は牝狼の乳を飲み生き延びる。それをファウストゥルスが拾い、妻ラーレンティアに預けて育てさせた。
双子が成年になると、野獣のように盗賊を襲い、分捕った物を牧人に分け与える。この頃、パラーティウム山(パラティヌス)でルペルカーリア祭の原形の祭りがあったという。リュカェウス山のパーン(後のローマの神イヌウス)を崇める若者たちが、裸体で戯れて走るのだそうな。この行事でレムスが捕まりアムーリウス王に引き渡される。当初からファウストゥルスには、双子が王の子孫という予感があったという。この機会に真相をロームルスに明かす。そして、アムーリウス王への策謀を張りめぐらし、ロームルスたちは王を討ち取る。
ロームルスは祖父ヌミトルに育ってきたいきさつを明かし、アルバ市の支配権をヌミトルに委ねた。ロームルスとレムスは、自分たちが捨てられ、育てられた土地に都市を建設したいと熱望する。だが、二人が主張する建設の場所が違う。ロームルスはパラーティウム山だと言い、レムスはアウェンティーヌス山だと言う。双子なので年齢から序列をつけることができない。そこで、神々の鳥の予兆で決定することにした。先にレムスの前に鳥の予兆が到来するが、すぐさまロームルスの前に2倍の鳥が現れた。早いが勝ちか?多いが勝ちか?と言い争っているうちに殺傷に至りレムスが死ぬ。ロームルスは単独の支配権を手中にし、新都市にローマと名付けたという。

3. 初代王ロームルス
ロームルスは100名からなる元老院を創設する。元老院議員は元来氏族の長だという。その尊称がパトレースで、その子孫を意味するパトリキイーは、長老の末裔という意味だそうな。また、広大な土地を養うために、素性不明な者から身分卑しい者まで多くの人々を受け入れたという。自由人と奴隷を区別しなかったために、新境地に夢を描いて来る者が群れをなしてやってくる。しかし、女性が少なく民族が絶えようとしていた。ロームルスと元老院は各都市に使節を送り親善と通婚を求めるが、ローマ人の誇りの高さが近隣の都市を蔑み、交渉はうまくいかない。また、近隣国は新興国の急成長を望まない。
ついにロームルスは怒り、実力行使にでる。馬のネプトゥーヌスを祭る催しをコーンスアーリア祭と呼んで、最寄りのカェニーナ人、クルストゥメリア人、アンテムナェ人を集める。また、サビーニー人を招待して、子供や妻を連れて大勢でやってくると、ローマの若者たちが乙女を奪う。乙女の親たちは悲痛な思いで逃げ去る。
憤慨した肉親たちは、サビーニー王ティトゥス・タティウスのもとへ集まった。カェニーナ人、クルストゥメリア人、アンテムナェ人はローマを攻めるが、あえなく撃退され植民市とされる。
だが、サビーニー人は簡単にはいかない。ローマの砦を守るスプリウス・タルペイユスの娘タルペイヤを籠絡して、武装兵を引き入れさせた。ローマ軍は砦を奪還すべく進軍する。そして、サビーニー勢のメッティウス・クルティウスと、ローマ勢のホスティウス・ホスティーリウスが対峙。地形不利のローマ軍が一時退却するが、反撃に出てサビーニー勢を撃退する。拉致された女性たちは非道の血に見兼ねて、サビーニー側の父親たちやローマ側の夫たちに戦を止めるように訴え、通婚やむなしと説得する。そして、和解が成立し、サビーニー人も共同体ローマに組み込まれた。サビーニー人の古市クレースは、ロームルスとティトゥス・タティウスの二人の王で共同統治された。
ところで、ロームルスはあっけない最期を遂げる。査察のため軍隊をカプラ沼畔の野に呼集した時、突然嵐が起こり、轟然たる雷鳴とともに厚い雲に囲まれ、そのまま地上から消え去る。王を失った市民たちは動揺する。そこに元老院から一目置かれるプロクルス・ユリウスが、朝方ロームルスが天空から舞い降りて自分に告げたことを語る。ローマが世界の首長であることと、その栄光を子孫に伝えよと。そして、再び天空へ去ったと。すると、ロームルスの不死が信じられ、市民の信頼を得たという。これは暗殺か?
「これを告げる人物がいかに厚い信頼を得たか、また、平民と兵士の間でロームルスの不死が信じられ、彼らのロームルス追慕がどれほど宥められたか、驚くばかりだった。」
んー!実に微妙な言い回しだ。

4. ヌマ・ポンピリウス
サビーニー人の町クレースに住むヌマ・ポンピリウスは、その公正と敬虔が知れ渡り、神の法と人の法に通じていたという。彼の学芸の師が知られていないので、サモス島のピュタゴラスという誤った説もあったそうな。サビーニー人ということで元老院が拒むかと思えば、ヌマに優る人物が見当たらず全員一致でローマ王に決議したという。ヌマは都市を法と道義を以て建て直す。そして、ヤーヌス神殿を戦争と平和のシンボルとし、扉が開いていると戦争中で、閉じていると平和を意味することにした。ちなみに、ヌマの治世後は、二度扉が閉ざされただけだそうな。一度目は第一次ポエニ戦争が終わった時、二度目はアクティウム海戦で最高指揮官カエサル・アウグストゥス(オクタウィアヌス)が勝利した時。
物知らずの民衆に秩序を講じるには、畏敬の念を与えなければならないという。それも神秘的な方策が効果的だと。まず、神聖なる暦を改正した。一年を月の運行に合わせて12か月とし、各月を30日とする。太陽の一巡で完結する一年に11日不足する分を、閏月を挿入して調整する。次に、神々の祀るための祭司職を創設した。当時は祭式をすべて王が行っていたが、王が戦地に赴いた時に神事がなおざりにならないように、主神ユッピテル(ジュピター)やマルス神やクィリーヌス神のために専属祭司を設けた。これで民衆は日常的に神事を行うことができ、人間行動に神意が宿ると教え、法則と刑罰の恐怖の代わりに信義と契約の心を広めたという。王も自ら進んで身を正した。彼の最大の業績は、在位期間を通して平和が維持されたことだという。ロームルスは戦争によって都市を拡大し、ヌマは平和によって都市を発展させたのだった。

5. トゥッルス・ホスティーリウス
ヌマの死後、元老院はサビーニー人との合戦で名高いホスティーリウスの孫トゥッルス・ホスティーリウスを王に決議した。この王はロームルスよりも勇猛で、民衆は閑暇のために衰弱すると考え、戦を起こす機会を随所に求めたという。その頃、ちょうどローマとアルバでいざこざがあった。アルバ市はガーイウス・クルイリウスが支配していた。ただ、どちらもトロイア人の末裔で、ラーウィーニウム市からアルバ市が分かれ、ローマ人はアルバ王族の子孫である。なんでもいいから戦の口実がほしかったのである。この戦でアルバ王クルイリウスが戦死。アルバ人はメッティウス・フーフェーティウスを指導者に選ぶ。両軍が対峙している時、それぞれの軍に三つ子の兄弟がいたという。ホラーティウス三兄弟とクーリアーティウス三兄弟。どちらがローマ人かアルバ人かの定説がないらしいが、ホラーティウスがローマ人というのが有力だという。この兄弟同士の決闘で勝敗を決し、平和裡に処理するという盟約が結ばれる。そして、ローマが勝利する。だが、わずか3兄弟に都市の運命を委ねたメッティウス・フーフェーティウスの決断に市民は憤慨した。とはいっても、ローマ人と公然と戦うほどの戦力がない。そこで、ローマの植民市フィーデーナェ人とウェイイー人をそそのかして、アルバ市も続くと言って離反させる。しかし、両軍は撃退され、盟約を破った罪をメッティウスにかぶせて処刑された。結局、トゥッルス王にアルバ市を破壊する口実を与えた結果となる。王はアルバ人の重要な氏族を元老院に迎える。その中に、ガイウス・ユリウス・カエサルを輩出した名門ユーリウス氏族も含まれるらしい。
トゥッルスは勢いに乗ってサビーニー人に戦を仕掛ける。だが、サビーニー人はロームルス時代に結んだ休戦協定に忠実だった。トゥッルスがサビーニー領内に侵入すると変異が起こる。アルバ山から天の声が降りてきたかのように石が降り、風が吹き荒れ、疫病が流行る。だが、戦好きの王は懲りない。民衆は、ヌマ王治下の平穏な状態に回帰することを望んでいた。トゥッルスはヌマの記録を紐解き、ユッピテル・エーリキウス神のために定められた秘密の犠牲祭儀を見出すと、その執行に没頭したという。だが、祭儀の非違に怒ったユッピテル神に雷で撃たれ焼け死ぬ。

6. アンクス・マルキウス
次にアンクス・マルキウス王が承認された。彼はヌマ・ポンピリウスの孫で、公的祭祀はヌマ時代の制定に戻すのが良いと考えた。近隣都市も祖父の流儀と秩序に復帰することを期待する。しかし、トゥッルス時代に盟約を結ばされたラティウム人はローマ領域に侵入してきた。ヌマの血筋だから、温厚で拒否できないだろうと高を括ったのである。アンクス王は中庸を得ていて、ヌマとロームルスの双方の才覚を持ち合わせていた。今は、ヌマ王よりもトゥッルス王にふさわしい時期だと判断した。ただ、戦をするにしても何らかの儀礼に従う。大義名分がなければ市民は戦に同意しないだろうと考えたのだろう。やがて勢力は海に達し、ティベリス河口にオスティア市が建設され、その辺りに塩田がつくられた。
この時代、野望に満ちた巨富のルクモーという人物がローマに移り住んだという。彼の父はコリントゥス人で、タルクィニイー市に住み着いたが、外来者の血筋はなかなか名誉を得ることができなかった。上流階級の女性タナクィルを妻に迎えたが、妻はエトルーリア人から夫がよそ者扱いされて蔑まれるのに我慢ならず、夫を説得してローマへ移住したのだった。夫婦が二輪車でローマへ移動中、翼を広げた鷹がゆっくりと舞い降りて帽子を奪う。そして、けたたましく鳴きながら上空に飛び、再び舞い降りて帽子を元の頭に戻し、天高く飛び去ったという。これを妻タナクィルは予兆が遣わされたと信じ、歓喜したといわれる。ここから夫婦は野望に目覚める。
ルクモーは、ローマではルーキウス・タルクィニウス・プリースクスと名乗る。新参者と莫大な富がローマ人の目を引く。彼も、できるだけの多くの人と丁重に付き合い、その評判は王宮にまで届く。そして、短期間で王の親密な友人となり、王の遺言で王の子供たちの後見人に指名される。

7. タルクィニウス・プリースクス
アンクス王が亡くなると、王の息子たちは成年に近かった。タルクィニウス(ルクモー)は焦って、王選出の民会を早く開催するよう元老院に迫る。その直前に王の息子たちを狩りに出し、あちこちを説きまわって王権を求めた。ローマで平民の心を惹きつけるための弁論を行ったのは、タルクィニウスが最初だったという。元老院はタルクィニウス・プリースクスを王に決議した。
最初の戦では、ラティウム人のアピオラェの町を奪い、大量の戦利品を持ち帰って豪華かつ周到に競技を催した。これが後に恒例行事となってローマの競技や大競技になったという。次に、石造りの防壁で都市を囲もうとしたが、サビーニー人がその着工を妨害した。当初、勝敗が定まらず両軍とも多大な損害を被ったが、やがてローマが勝利する。このあたりから、国王の死と陰謀が明るみになっていく。後にタルクィニウスは先王の息子たちによって暗殺されるのだった。

8. セルウィウス・トゥッリウス
タルクィニウス王の時代、王宮に不可解な変異があったという。睡眠中の少年セルウィウス・トゥッリウスの頭から大勢の見る前で炎が昇った。この少年は卑しい境遇であったが、王の妻タナクィルが育てていた。以来、王家の光と信じて実子として教育し、王の娘婿とした。
一方、アンクスの息子2人は、後見人のタルクィニウスの策謀のために王権から排除されたことに憤慨していた。タルクィニウスの後、奴隷の子が王位に就くとなれば余計に激怒する。そして、タルクィニウス暗殺が企てられ、牧人の屈強な二人が王宮に忍び入り、斧を王の頭に投げつけて殺した。
しかし、妻タナクィルが策謀を図り王の無事を装って、養子セルウィウスに王の衣服をまとわせた。やがて王宮に悲しみが広まり大声で泣く者がいれば、事態は明らかになる。セルウィウスは精強の護衛隊で身を固め、元老院議員の同意を得ただけで王位に就いた。ローマで初めて人民の決議を経ずに王となったという。この王は、公的立場よりも私的立場で地位を固める。アンクスの子らがタルクィニウスに敵意を抱いたように、タルクィニウスの子らが自分に敵意を抱かせないように娘を娶らせる。それでも、反目の運命は変えられなかったのだが。
当面の安定状態を保つためには外敵に向わせるのがいい。都合のいいことにウェイイー人との休戦条約が期限切れとなり、戦を仕掛けて王の武勇を知らしめる。次に、平和の事業が着手された。地位と財産による序列を明確にし、諸身分を創設する。そして、市民登録を制定して、貨幣の所有に応じて義務が課せられた。百人隊や軍隊の構成も所有に応じて、所持する武器でランク付けし、投票権にも重みがつけられた。未登録者に対する法も提案し、逮捕と死刑の威嚇で市民登録を促進する。人口が増加すれば市域も拡張しなければならない。セルウィウスは、周辺の丘を加えて土塁と溝と市壁で市域を囲み、ポーメーリウムを前面に出す。ポーメーリウムとは、聖なる境界線のようなものらしい。
ところで、既に王位に就いているとはいえ、民会決議を得ていないという噂は絶えない。そこで、敵から獲得した土地を個人に配分して、あらかじめ民衆の支持を得た上で、決議にかけ正式な王を宣言する。しかし、前王タルクィニウスの息子ルーキウス・タルクィニウスが反発して野心を燃やす。傲慢なルーキウスには、アッルーンス・タルクィニウスという温和な性格の弟がいた。2人には、セルウィウス王の娘2人のトゥッリアが嫁いでいた。この姉妹も正反対の性格。弟に嫁いだ方のトゥッリアは気性の激しい女性で、夫の甲斐性なしに悩み兄ルーキウスに心を寄せる。気性の激しい二人が結び付くと謀略が始まる。ルーキウスと妹トゥッリアは葬儀を営んで結婚したとあるが、アッルーンスと姉トゥッリアは殺害されたようだ。ルーキウスは新妻の激情に徴発され、元老院を召集してセルウィウス非難を展開する。そこにかけつけたセルウィウスは唖然となる。ルーキウスの方が年齢も体力も剛健であるので、セルウィウスの体を放り投げ半死半生の目に会わせる。王の側近たちも逃げ去り、王自身は逃げる途中、追跡者に殺された。

9. タルクィニウス・スペルブス
そのままルーキウス・タルクィニウスが王位に就く。その振る舞いから傲慢(スペルブス)の添え名がついて、タルクィニウス・スペルブスと呼ばれる。娘婿でありながら前王の埋葬を禁じたり、前王支持者たちを皆殺しにする。おまけに、人民の決議もなく元老院の承諾もなく王位に就いた。この王は、威圧以外に権威を主張するものがなく、恐怖で支配するしかない。市民の身分に関わる訴訟の審理を、王が一人で担い、疑わしい者は死刑、追放、財産没収とやりたい放題。こうなると、元老院はまったく機能しない。
国内で味方を期待できないとなると異邦の力を味方にして、特にラティウム人の上流階級と婚姻関係を結ぶ。トゥースクルム市のオクターウィウス・マーミリウスはラティウム人の主導的な人物で、ウリクセースと女神キルケーの末裔。そのマーミリウスに娘を嫁がせる。ちなみに、ウリクセースとは、南イタリアのギリシャ方言でオデュッセウスのことらしい。オクターウィウスって、後のアウグストゥスの血筋と関係あるのか?よく分からん。
スペルブス王は傲慢だが、戦にかけては先王たちに匹敵したという。ガビイー市を強引に攻めた時に手を焼き、戦を放棄したかのように装い計略を用いる。王の末子セクストゥスをガビイー市に派遣し、父親の無慈悲を訴えて逃れてきたことにする。ガビイー人は彼を丁重に受け入れ、次第に信用されたセクストゥスは指揮官に選ばれる。しかも、戦利品を気前よく分配して大いに人気を博した。機が熟すとスペルブス王の軍を招き入れ、ガビイー人の多くは殺害されるか亡命を強いられた。
アルデア市を包囲した時、セクストゥスの陣中で酒盛りをする。その時、めいめいが妻の自慢話を大袈裟に語る。そして、ルーキウス・タルクィニウス・コッラーティーヌスが、自分の妻ルクレーティアが最高であると主張すると、一同でコッラーティア市へ見物に行く。ルクレーティアを見たセクストゥスは情欲を燃やし、コッラーティーヌスの留守をうかがって強姦する。妻ルクレーティアは、その事を知らせようとアルデア市にいる夫を呼び寄せる。夫コッラーティーヌスは、友人のルーキウス・ユーニウス・ブルートゥスと共にやってきた。ブルートゥスは、王の姉妹タルクィニアの息子で、王家に兄弟を殺されて憎悪を抱いていた。彼らが復讐を誓うと、ルクレーティアは短剣で自刃する。ブルートゥスは、前王セルウィウスの殺害などスペルブス王の非道を訴えて大衆を動かし、王族の追放が決議される。戦の途中だった王は異例の事態に愕然とし、鎮圧のためにローマに戻るが、市門は閉ざされ追放が宣告された。スペルブスは、エトルーリア人のカェレ市へ亡命し、息子たちもそれを追った。セクストゥスは、自分の王国と信じてガビイー市へ向かったが、数々の殺害と財産強奪によって恨まれていたので、その場で殺された。

10. 共和政の始まりと「ウァレリウス法」
初代執政委員には、ルーキウス・ユーニウス・ブルートゥスとルーキウス・タルクィニウス・コッラーティーヌスが選ばれた。王家タルクィニウスを贔屓する若者たちは、まだローマ市内にいて王政復古の火種は残っている。ルーキウス・タルクィニウス・コッラーティーヌスも、タルクィニウスの名が入っている王家の関係者で、王家に対する不満を抑えるために解任される。その後任にプーブリウス・ウァレリウスが執政委員となる。
追放されたタルクィニウス一族はローマに使節を送り没収された財産の返還を求めるが、それは表向きのことで、実は王家を市内に迎え入れる策謀が企てられる。最初に計画に加担したのはウィテッリウス兄弟とアクィーリウス兄弟。ウィテッリウス兄弟の姉妹が、執政委員ブルートゥスに嫁いでおり、その息子ティトゥスとティベリウスが一味に取り込まれる。この陰謀は見破られ一味は逮捕される。執政委員は、王家に加担した叛逆者たちを処刑した。ブルートゥスの息子たちも加担したとして父に処刑される。
次に、タルクィニウス一族はエトルーリアの諸市をまわって援助を懇請し、ウェイイー人とタルクィニイー人を口説いてローマを攻撃する。ちなみに、タルクィニイー人の名は、タルクィニウスと血縁があるらしい。この戦でブルートゥスは戦死。彼は貞節の凌辱に対して報復したのだから、ローマ人の妻たちは特に悼んだという。
執政委員プーブリウス・ウァレリウスは、ブルートゥスに代わる補充選挙を行わなかったので、王権の野望があると噂される。だが、ウァレリウス法が、民衆の気持ちを逆転させた。とりわけ、公職者に対抗して人民に訴える人民提訴の法と、王権獲得を企む者の身柄と財産を神のものとする法が、民衆の意に適ったという。そして、人民の友(プーブリコラ)の添え名が生まれ、プーブリウス・ウァレリウス・プーブリコラと呼ばれる。

11. ポルセンナ王と王政復古の根絶
タルクィニウス一族はクルーシウム市のラルス・ポルセンナ王のもとへ逃れ、助言、懇願、警告などで王を口説く。ポルセンナ王も、ローマに王家が存在し、それがエトルーリア人であることが栄誉と考えた。当時のポルセンナ王の力は、これほど大きな恐怖を元老院に与えたことはないほど強かったという。ローマ市民が不安に屈してポルセンナ王を迎い入れ、あるいは、隷属を代償にしても講和を受諾するのではないかと、元老院を恐れさせた。それゆえに、元老院は市民の機嫌取りに躍起になる。関税や公課は富裕者から徴収して、平民は免除するなど。
防衛戦では、ホラーティウス・コクレスが、ローマ市の防波堤となって、敵の押し寄せる橋を守る。まるで三国志に登場する張飛が長坂橋で大喝するように。ポルセンナ王は出端を挫かれ、攻略から攻囲へと作戦を転じた。機会をうかがってはティベリス河を渡って掠奪したりと持久戦模様。だが、ローマ人はいまだかつて攻囲されたことがない。屈辱に我慢ならない名門のガーイウス・ムーキウスは、一人でティベリス河を渡ると言いだした。そして、衣服に剣を忍ばせ密かに出発しポルセンナ王に近づく。だが、王の顔を知らず闇雲に行動して、書き役を殺す。護衛兵に捕えられたムーキウスはローマ市民の誇りを示し、続々と闇討ちが企てられるだろうと、逆にポルセンナ王を脅す。そのあまりの武勇に恐れ、ムーキウスは放免された。彼は右腕を負傷し使えなくなったので、左手(スカェウォラ)の添え名がついて、ガーイウス・ムーキウス・スカェウォラと呼ばれる。
ポルセンナ王は刺客の幻想に怯えローマに講和使節を送った。講和の条件にタルクィニウス一族の王位復帰を含んだが、承諾されるはずがない。ポルセンナ王もそれが分かっていたが、タルクィニウス一族への義理立てがあった。ウェイイー人の領域の返還で講和は成立し、ポルセンナ王はローマ領域から撤退した。タルクィニウス一族の王位復帰については、永久に交渉を断つために、逆にローマから元老院議員の重要な面々を派遣した。ポルセンナ王も、タルクィニウス一族に援助を期待させるように欺くことはやめることにした。これで、タルクィニウス一族の帰国の望みが完全に断たれ、亡命のためトゥースクルム市の娘婿オクターウィウス・マーミリウスのもとへ去った。これでポルセンナ王とローマの信頼は高まったという。

12. 平民トリブーヌス
平民トリブーヌスは、平民と公職者の間の仲介役のようなものであるが、当初は権力者寄りだったようだ。だが、耐え難い生活格差は政情不安の原因となる。平民を虐げれば暴動を起こし、執政委員や元老院も無視はできない。外敵に向かうには、市民の一致団結は欠かせないのだから。そして、元老院は平民との仲介役に平民出身者を選んだり、市民協調をめぐって交渉するようになる。
紀元前494年、平民トリブーヌスは、まずガーイウス・リキニウスとルーキウス・アルビニウスが任じられ、この二人が同僚三名を任じたという。その一人は発議者のシキニウスで、他の二名は伝えが一致しないという。

13. スプリウス・カッシウスの土地法とファビウス一族
紀元前486年、ヘルニキー人に勝利し同盟が結ばれた。執政委員スプリウス・カッシウスは、獲得した土地の半分をラティウム人に、あとの半分を平民に分配しようとした。これに貴族たちの意を受けた、もう一人の執政委員プロクルス・ウェルギーニウスが抵抗する。土地の分配者に、同盟者が含まれることに不満を抱いたからだ。同盟者に分け与えることには平民も反対する。本書は、土地法で政情が激動なく審議された例がないと語る。カッシウスは任期を終えると査問にかけられる。その査問委員が、カェソー・ファビウスとルーキウス・ウァレリウス。
紀元前485年、カッシウスは執政委員セルウィウス・コルネーリウスとクィーントゥス・ファビウスの時に処刑された。更に、ウォルスキー人とアェクィー人に勝利した時の戦利品を兵士に与えず、クィーントゥス・ファビウスが欺いて売却し、代金を公庫に入れた。平民のカッシウスへの恨みはファビウス一族へと移る。次の年はカェソー・ファビウスが執政委員、その次の年はマルクス・ファビウス...と、再選されたり返り咲いたりで、しばらくファビウス一族が続く。その間、外敵からの攻撃があり、勝利しながら人気を取り戻す。
しかし、ウェイイー人とエトルーリア人の攻撃で、ファビウス一族がカルメンターリス門(カピトリヌスの丘の南西隅)から出撃すると悲劇が待っていた。エトルーリア人に包囲され、ファビウス一族は最後の一人まで戦い306名が全滅。未成年の1名が母市に残されただけで、しばらくローマ史から姿を消すことになる。

14. プーブリウス法
紀元前472年、平民の公職者はトリブス民会で選出すべしという法案が提出される。この法案をめぐって平民と貴族が対立する。このあたりから、平民トリブーヌスが護民官というイメージに近づいていく。

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