2011-08-21

"パタン・ランゲージ" Christopher Alexander 著

前記事で扱った「アドレナリンジャンキー」が、この本の形式を参考にしたということで、ちょっと興味を持った。ひたすら実践例が羅列されるわりには、要所に一般的な抽象論が盛り込まれ、意外と秩序ある構成となっている。本書は建築と都市計画に関する分野で、おいらにはあまり馴染みがないのだが、精神を取り巻く空間の構築という意味では興味がある。

「パタン・ランゲージ」とは、町、近隣、交通網、住宅、庭、部屋などの細目にわたる原型(パターン)を、言語体系(ランゲージ)として統合するという意味がある。ここには具体的に253ものパターンが紹介される。これらを散漫に組み合わせても、それなりの形にはなるだろう。多くのパターンを同一空間内に重ね合わせることも可能だろう。だが、どんなに斬新的な着想であっても、精神の収まりが悪いのではすぐに廃れてしまう。ここに調和の難しさがある。
また、「パタン・ランゲージ」を共通言語に持ち込もうとすれば、抽象的に述べざるを得ない。それでも、あえて具体的に述べようとすれば、考えを押し付けないことが肝要である。本書はそれを十分に心得ているようだ。
本書は、街づくりを通しての一種の環境論といった様相を見せる。そして、自然と人工のコラボレーションを通して、いかに人間精神を自然に帰するかという哲学に則っている。その背後には、街の歴史や政治、あるいは人類学、心理学、環境工学、物理学といった包括的な知識を感じる。技術至上主義に陥る専門バカへの警告であろうか?なんとなく説教に聞こえてくる。
「生き生きとしてまとまりのある社会には、独自で固有の明確なパタン・ランゲージがあり、しかも社会のすべての個人が、部分的に共有するとしても、全体としては自分の気持に合わせた、独自のランゲージをもつであろうということである。この意味で、健全な社会には、たとえ共有され、類似していても、人間の数だけパタン・ランゲージが存在するであろう。」

パターンの序列は、地域や町といった大きな視点から、近隣、建築物、部屋、アルコーブなどを経て、施工の細部に至る。その序列は直列的なシーケンスで示され、これが「パタン・ランゲージ」をうまく機能させるという。基本的な構想では、大まかな空間設計から細部を展開するトップダウン的な発想がなされる。細部を考察する時も全体像を念頭に置きながら組み立てる。とはいっても、下位を知らなければ上位を構想することも難しい。実際には、全体構想と細部の検討を並列で行うようなイメージであろうか。
また、パタン・ランゲージのシーケンスに従えば、初期の決定が無効になるほどの大幅な変更は生じないという。それは、パターンを一つの実体として捉え、実体を認識できるまで上流工程の検討を十分にやるということであろう。
何事も理論と実践の両面から理解できれば幸せである。理論だけで実践できるものではないし、実践しているうちに後から理論がついてくる場合もある。おまけに、どんな分野においてもパターンは生き物のように進化する。人間はいつも改良パターンを模索しながら生きているのだから。となると、実践の書の位置付けは微妙となる。印刷物に依存するような危険性がないとは言えないだろう。実践例を参考にするには、読者が哲学的な領域まで理解して独自の考察がなされた時に非常に有効となる。だが、読者が無条件に信者となってしまっては有害となりかねない。最初から最適な解を書籍に求めるのは、むしろ思考を混乱させるであろう。脇道に逸れながら思考を繰り返すから本筋なるものが見えてくる。本書は、理論的に記述するか、実践的に記述するか、その按配の難しさという問題を提起しているように見える。

ここには、様々な町の構造や住宅のアイデアがスケッチされ、それを眺めるだけでも和む。写真よりも、フリーハンドのスケッチが圧倒的に多いのは、心の中に広がるイメージを大切にしているからであろうか。デジタルコンテンツに慣らされている昨今、逆にフリーハンドに癒される。写真を用いる場合でも、素人感覚では現物のカラー写真を掲載する方が分かりやすいと安易に考えてしまうが、あえて白黒写真を用いてコントラストを大切にしている。なるほど、空間イメージを強調するのに優れた方法というわけか。
「現場にしばらく留まって、敷地が語りかけてくる秘密に耳を傾ける。」
パターンの具体的な姿を思い浮かべながら、精神が自然と同化する瞬間を感じるまで哲学的に問い続ける。これが建築家の仕事であろうか。まさしく建築家とは芸術家であることを感じさせてくれる。ガウディは、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとして、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家など様々な役割を演じた。

「大地は、途方もなく大きな家族のものだ。生ける者はわずかでも、過去から未来への無数の家族たちが使うのだ。」
-- ナイジェリアの一原住民の言葉 --

1. 町づくりと地方分権
「町やコミュニティの骨組に重大な影響を及ぼす大きなパタンが、中央権力やマスタープランによってつくり出せるとは思えない。その代りに、大小の建設行為が、個々に責任をもって、世界の片隅で大きなパタンを少しずつ形成していけば、徐々に、有機的に、しかもほぼ自動的に大きなパタンが出現するものと確信している。」
町というものは、その瞬間を眺めただけでは構造を理解することはできないだろう。町には、環境意識や文化意識、あるいはコミュニティの成長過程が刻まれる。社会的集団や政治的集団は、国家、地方議会、近隣社会、家族など階層的に組織される。それぞれの組織やコミュニティの階層において意思決定がなされ、各段階で責任が生じる。となれば、個々に責任が分散されない社会では、地域に調和した効率的なパターンは生じないだろう。ここには、地方分権の原理があるように思える。
お偉いさんが目の届かない余計な責任まで背負いこむということは、地域社会を硬直化させるだろう。現実に自立することは難しい。だが、少なくとも自立を目指す意欲がなければコミュニティは活気づかない。都市の伝統は、予測したよりも経験的合理性に基づいている。にもかかわらず、都市計画では、地域分析を疎かにして大都市の流行を追う傾向がある。地方行政が大都市型の商業都市を夢見て、税優遇などを餌に大企業の誘致を繰り返し、伝統的な商店街を破壊するような例は珍しくない。大企業の扱う高価な商品が、地域住民に合わないために業績を悪化させ、あっさりと撤退してしまう。残された跡地にはペンペン草も生えず、結果的に地元経済を悪化させる。現実に、歩行路、田園、住宅、工業用地などの配置と分散は、町づくりの視点よりも政治的な思惑によって決定される。哲学的観点から町づくりがなされることはない。おそらく土地倫理学などという思考が働かないのだろう。
本書は、田舎町や下町に大都市の風潮を猿真似して、二流の田舎町を創り出すことほど馬鹿げたことはないと指摘している。
「どんな地方や町、あるいはどんな近隣にもその地域と住民のルーツとを象徴するような特別な場所が存在する。そこは過去から受けつがれた自然の美しい場所かもしれないし、歴史的ランドマークかもしれない。だが、それは、どんな形にせよ本質的な場所である。」

2. 適切な規模
生物学者J.B.S.ホールデンは、「適性規模について」という論文で次のように述べたという。
「あらゆる動物に最適規模があるように、人間のあらゆる制度にもそれがある。ギリシャ型の民主主義においては、全市民が居並ぶ雄弁家達の演説に耳を傾け、立法採決には直接投票が可能であった。かくして、かの哲学者達は小都市こそ最大の民主国家なりと考えるようになった。」
規模が大きすぎれば、自治体は機能しない。それは、アメリカ民主政治に対するジェファーソンの提言でもある。規模が大きすぎれば、一部の指導者による制御は不能に陥り、官僚主義があらゆるプロセスを圧倒する。小規模な国家ほど、民主主義が発達しやすい。したがって、大規模な国家ほど地方分権を確立しなければ、民主主義は発達しないことになり、ますます国家は余計な存在となろう。理想的な地域国家は、1000万人ぐらいという意見をよく耳にする。幅を持たせて500万人から2000万人ぐらいであろうか。このあたりの規模は、英国のウエイマス卿が「世界連邦 - 1000の国家」と題してニューヨークタイムズ紙に投稿したところからきているらしい。シンガポールなどの国々を眺めれば、説得力のある数字だ。組織の中で自己の存在感と疎外感との境界線がこのあたりにあるのかもしれない。
地域に属するという意識が、その地にある名物やシンボルに誇りを与える。だが、地域社会が小規模過ぎても国家の集団的パワーは生じないだろうし、大都市に集中し過ぎても国民認識は偏重するだろう。外国人から日本人は感情論に流されやすいとよく指摘される。確かに、首都圏集中型の人口分布や世論の激変ぶりを眺めれば反論できない。マスコミの扇動ぶりを眺めればどこの国も大して変わらないじゃないかと反論しても、報道姿勢が論理的かどうかの違いは大きいと指摘される。地方分権の必要性が叫ばれて久しいが、民主主義の根付きにくい国民性が妨げているのかもしれない。

3. 文化交流と民主主義
混成都市は、多様な人間が混在し、互いの生活様式や文化には無関心であるという。各地から人々が集まれば多様性に満ちているように見えるが、実は類似性を促すだけだと指摘している。一方、数多くの小規模なサブカルチャーが、分かりやすく分割しているような形態では、それぞれの文化が選択できて、異なる生き方が体験できるという。文化は、単に混合すればいいというものではなく、はっきりと特徴が把握できた上で自由選択を与えることが肝要というわけか。
大都市のように価値、習慣、信仰などが拡散し混在する社会では、そこで成長する人間もとりとめなく混乱した人間になると指摘している。しかも、そこに生じる弱い性格は大都市社会の直接的産物だとしている。確かに、得体の知れない隣人が増えれば増えるほど不安が増すだろう。そして、子供には矛盾だらけの要求が課せられ、調和した性格形成を妨げる。心の平安と自尊心の代償に不調和を強要する。得体の知れない価値の混合が得体の知れない人間を形成するとすれば、哲学的意識がはっきりと区別できる個性の集団を求めることになろう。それが民主主義の基本原理であろうか。
「たびたび独りになる機会がなければ、他人とも親密になれない。」
人間は他人との交流がなければ生きてはいけないが、同時に自己を見つめるための孤独も必要である。文化交流の基本は、相手の文化を理解せずに無条件に受け入れるのではなく、理解した上で交流の選択をするということになろうか。とはいっても、文化を理解するのは難しく、とりあえず交流してみるしかない。少なくとも、文化の境界があることが、交流できないということにはならないだろう。文化の交流とは、同質化することではない。ましてや生活様式の多様性を殺してまで個性の成長を阻害することではない。そこを誤ると、文化の押し付けが生じる。
自分の個性を認識するためにも、明らかな近隣の個性との違いが認められると助かる。同質からは特質は発見しにくいのだから。家族形態も多様化する方が互いに刺激しあえるだろう。核家族化一辺倒では、価値観も同質化するだろうから。生活環境の違いを眺めるだけで、新たな価値の発見があるかもしれない。
「行動を見ることが行動への引き金となる。街路からいろいろな空間をのぞき込めると、人びとの世界は拡大し、豊かになり、さらに理解が深まり、街路にコミュニケーションと学習の可能性が生まれる。」

4. おまけ...医療の町
これは本書とは関係ない。なーに、20年ぐらい前に考えたことを思い出しただけのことだ。
ある地方に心臓病などの重大な病気に関する権威的なお医者さんがいる。うちもお世話になった。その病院には全国から患者が到来する。必然的に病院の周りには宿泊場があり、病院が仲介してくれる。だが、民間の宿泊場なので、長期間ともなれば負担が大きい。そういう町では、商業都市を夢見るのではなく、「医療の町」というものを掲げてはどうだろうか。高齢化社会にもよく調和する。すべての医療機関を一か所に集め、宿泊施設を整備する。
実は、そういう目的に合致した町がある。旧産業で一世風靡した過去の栄光にすがり、企業誘致のための土地を確保しているが、空き地のままだ。にもかかわらず、病院をあちこちにちりばめ、どこの病院も駐車場問題を抱えている。マイクロバスで駐車場と病院の間を送迎したりと。あるいは、無計画で無作為に空き地があれば老人ホームを建て、同じ管理者が数キロメートル離れたところに別の医療施設を建て、その間をマイクロバスが往来するという効率の悪い所も珍しくない。こんなことは行政指導で効率性が図れるはずだが。
ならば、せっかくの空き地を、全国でも最大規模の医療センターに仕立てる手はあるだろう。優秀な医学が実践できるとなれば、優秀な医学生も集まるだろうし、大学病院も近接させればいい。入院患者を全国と言わず海外からも受け入れられるように宿泊施設も整備すればいい。医療システムは、医療メーカから機器メンテナンス業者、あるいは情報システムから最先端の産業技術など、あらゆる分野との関わりがあり、事業の拡大の可能性は計り知れない。そういうことを行政と医療団体が一体化して考えれば、大医療都市ができそうな気がする。日本の医療レベルからすれば、そんな町が一つぐらいあってもよさそうなものだ。町づくりの方向性に将来像がなければ、いくら招致しても無駄だ。IT業界など流行りの業種を誘致しても、すぐに行き詰まるだろう。向こうから来たいと思わせなければ持続しない。国家における社会的役割を考えながら、得意分野を発展させる方が町に馴染みやすいし、事業の成功率も高くなるだろう。
しかし、行政は、相変わらず首都圏のような商業都市を夢見る。そしてうまくいかなければ、観光地化にも手を出す。50年ほど前に複数の市が合併してできたためか?いまだに行政派閥の亡霊がつきまとうかのように、中途半端な再開発が順番に行われる。テクノパークを作ったかと思えば、遠く離れたところに大学と企業が連携できるような学園都市を作ったりと節操がない。人口を減らさないために周辺の自治体を吸収していくという戦略は、一貫しているようだが。おかげで、人口密度が減っている。人ごみの大嫌いなアル中ハイマーにはありがたいことだけど...
尚、これはずーっと昔に思ったことで、今どうなっているかは知らん!

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