2011-08-28

"バッハの風景" 樋口隆一 著

「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ」(BWV140)を聴きながら記事を書いている。急遽CDを仕入れて...
正直言ってバッハの音楽は難解だ!おかげでバロック音楽はちょっと敬遠してきたところがある。バロックいう言葉には「いびつな真珠」という意味があり、血なまぐさい宗教戦争の香りがする。もともとキリスト教には多くの福音があったはず。2世紀頃、リヨンの司教聖エイレナイオスが「異端反駁」で、四つの福音書以外は認めないなんてするから受難の歴史が始まったんじゃないの?ナザレの高貴なお方は抽象的な事しかおっしゃらない。なのに、凡人は具体的な言葉を求めるからややこしくなる。ちなみに、冒頭の「光よあれ」の解釈は、正統派ヨハネよりも異端派トマスの方が好きだけど。
まぁ...そんな偏見はさておき、激動の時代だからこそ宗派を超えて、民衆を励ましたり安らぎを与えたりするような音楽が求められる。今宵は、この「いびつな真珠」に嵌りつつある。

バッハは、バロック末期に登場し、続く古典派の準備段階を生きた。当時の評価は、オルガニストとしてはピカイチでも、作曲家としてはイマイチだったそうな。啓蒙主義の影響やイタリアオペラの流行で、バッハの音楽は深遠で複雑で時代遅れとされたらしい。通説によると、バッハの芸術は死後すぐに忘れられたとか。ドイツ音楽の父という地位は、ヨハン・ニコラウス・フォルケルの著書「バッハの生涯、芸術および芸術作品について」(1802年)によるという。更に1829年、ベルリン・ジングアカデミーでメンデルスゾーン指揮による「マタイ受難曲」の演奏の大成功が復活気運を高めた。
バッハのオルガン曲は二つに大別できるという。一つは、前奏曲(あるいは幻想曲やトッカータ)とフーガの組み合わせ。二つは、ルター派プロテスタント教会の礼拝と密着したコラール(讃美歌)に基づくコラール前奏曲の類い。
彼の教会音楽の代表作といえば、「マタイ受難曲」(BWV244)とするか「ミサ曲ロ短調」(BWV232)とするか意見の分かれるところであろうか。「マタイ受難曲」は、カンタータの創作活動の大きな波がほぼ終わろうとした頃に書かれた、ルター派教会音楽の集大成と言うべき作品だという。「ミサ曲ロ短調」もまた最晩年の作品で、人生の集大成とも言うべき作品なのだろう。ただ、作品の性格と意義はまったく違っていて、ミサ曲で完成させたのは、カトリックやプロテスタントの宗教的立場を超越した思想という見方もあるそうな。バッハは歴史意識を強く持った芸術家だったようだ。バロック期から古典派期を呼び起こす新旧芸術の融合を計ったと解釈する意見も多いようだが、時代の偶然性からして、ちと理想化し過ぎか。ルネサンス期でもあるし、やはり中心はイタリアかもしれない。
音楽家バッハの生涯を眺めると、彼が転々と勤め先を替えていることが分かる。ワイマールとケーテンが貴族のための宮廷音楽であったのに対し、アルンシュタット、ミュールハウゼン、ライプツィヒでは民衆のための町の教会音楽家として活動した。宮廷音楽には華やかだが主君の束縛があり、町の教会音楽には義務もあるが自由がある。彼の生涯はこの二つの狭間で揺れ動く。どちらが経済的に有利だったかは知らんが、所得倍増計画では成功したようだ。

ところで...
「バッハのカンタータの歌詞は、なんでああ大げさでばかばかしい内容のものが多いのかね。イエスと魂が延々とラブシーンまがいの台詞を言い合うのにはまったくうんざりするよ。」
という印象を持っている人は少なくないだろう。ドイツ人でも奇妙に感じているらしい。19世紀、ベルリンを中心にバッハ復興運動が起こった時、カンタータの普及を妨げたのが歌詞の問題だったという。バッハの声楽曲演奏の第一人者だったカール・フリードリヒ・ツェルターでさえ、友人ゲーテに宛てた手紙に、「最大の障害は、まったく破廉恥なドイツ語の教会詩にあります」と記したという。宗教色を強調したければ、誰にでも分かりやすく大袈裟に俗っぽく叫ぶ方が洗脳しやすい。ドイツ語の分からない日本人には、翻訳でバロック的な誇張は弱められるが、それでもやっぱり...
歌詞の問題は、バッハに協力した神学者や宮廷詩人たちのせいだという。中でも、バッハの友人にして専属詩人の印象の強いクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーキ(ヘンリーツィ)。彼は、ピカンダーの筆名で風刺的あるいは卑猥な詩を書いて名を上げていたという。バッハがピカンダーの歌詞に基づいてカンタータ年巻を書いていたという推定もある。いわゆる「ピカンダー年巻」だ。

歴史的に興味深いのは、「12音技法」に関する記述である。アルノルト・シェーンベルクが考案したとされる作曲技法のこと。対位法は、それぞれの旋律に独立性を保ちつつも調和させる音楽的技法であるが、古くから教会音楽に根付いている。ただ、12音技法の体系化となると20世紀になってからで、シェーンベルクはバッハを「最初の12音作曲家」としている節があるらしい。「バッハと12音」と題するメモが紹介される。
「おそらく私は次のことをすでにどこかに書いているし、いずれにせよ弟子たちに述べてきた。"バッハは(逆説的に表現すれば)最初の12音音楽家なのである"
事実、バッハはネーデルランドの対位法の秘術を有していた。すなわち七つの音を互いに、その動きの中で起きるあらゆる響きが一つの協和音のように把握されるような位置にもたらす技術である。この秘術を彼は12音に拡大した。
したがって彼が「平均律クラヴィーア曲集」を書き、それがまさに12音のすべてを考慮しているというのも決して偶然ではないのである。」
ちなみに、シェーンベルクは、ユダヤ人の靴屋の息子として生まれ、まったくの独学で音楽を勉強したという。後にユダヤ教からルター派プロテスタントに改宗しているのも、バッハに通じるものがある。だが、ナチス政権下では、抗議のため画家シャガールの立ち会いのもとに、わざわざユダヤ教に改宗しているという。これも、芸術家の持つ自由への執念であろうか...

1. バッハの源流を遡ると、ルター派教会音楽に辿り着く
宗教改革の動乱のさなか、ルターは民衆が自国語で歌える音楽があるといいと考え、作曲家ヨハン・ヴァルターの協力で約40曲の讃美歌集を出版したという。それは、コラールやキルヒェン・リート(教会歌)と呼ばれるもの。コラールは、当初から単旋律で歌われただけでなく、多声に編曲され、また楽器付きで演奏されたそうな。その編曲は、当時の音楽様式を反映して、テノール声部にコラールが置かれたテノール・リートの様式で書かれたという。
16世紀末、主旋律はテノール声部からディスカントゥス(ソプラノ)声部に移され、四声体の簡単な和声付きで歌われるようになる。これが、カンツィオナール・ザッツ(カンツィオナール書法)と呼ばれるものらしい。バロック音楽は、主旋律を簡単な和声で支えるホモフォニックな様式で、世俗的な歌曲を繁栄させた。また、歌詞だけを宗教詩に置き換えるコントラファクトゥムの手法によるコラールも生まれたという。一種の替え歌だ。この二つの傾向を、バッハは「クリスマス・オラトリオ」(BWV248)と「マタイ受難曲」(BWV244)で効果的に用いているという。
バッハよりも100年前、初期のバロック音楽に貢献したハインリッヒ・シュッツという作曲家がいる。彼は、最初の国際戦争と呼ばれる三十年戦争を生きた。ドイツ人口を三分の一にまで減らしたと言われる戦争だ。その厳しい時代に宗教曲が民衆の支えになったことは想像に易い。シュッツは、晩年に「マタイ受難曲」(SWV479)、「ルカ受難曲」(SWV480)、「ヨハネ受難曲」(SWV481)を作曲したという。
ここには、ルター派の教会音楽がシュッツを経て、バッハ音楽を形成したという系譜がある。

2. アイゼナハからオールドルフの幼年期
1685年、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはアイゼナハの町に8人兄弟の末子として生まれる。父は町楽師ヨハン・アンブロジウス。町楽師は一応音楽家のようだが、「町の笛吹き」と呼ばれたという。主な仕事は、塔の上からラップを吹いて時を知らせたり、外敵来襲の警報を吹くこと。その任務からして管楽器が主であるが、弦楽器など多くの楽器に精通している多面性こそが町楽師の特質だそうな。町主催の踊りや音楽会、あるいは婚礼などでも演奏し、市民行事には欠かせない存在だったという。バロック期には、教会音楽においてもオルガン以外の楽器の占める割合が大きくなり、町楽師の役割も増えていき徒弟を抱えるほどになる。
10歳の時に父が死去し、オールドルフの町の長兄ヨハン・クリストフの家に引き取られ、ラテン語学校で勉学に励む。クリストフは巨匠ヨハン・パッヘルベルにクラヴィーアの手ほどきを受け、オールドルフのミカエル教会オルガニストに就任している。クラヴィーアは、今ではピアノを指すことが多いだろうか、当時はオルガンやチェンバロなどの鍵盤楽器の総称だったようだ。この頃、ゲオルク・エルトマンと出会い終生の友人となる。エルトマンは、後にダンツィヒ駐在のロシア大使にまで出世する。
バッハの旺盛な向上心と勤勉さでは、ある逸話が残されている。兄クリストフは、パッヘルベルをはじめ、フローベルガー、ケルルなどの作品を集めたクラヴィーア曲集を所有していた。少年バッハは、それを見せてくれるよう兄に頼んだが、なぜか見せてくれない。毎晩、みんなが寝静まるのを見計らって楽譜棚へ行き、月の光のもとで6ヶ月もかけて書き写したという。ほどなく兄に知られ、取り上げられるのだけど。この写譜を、兄が1721年に亡くなるまで再び手にすることはなかったという。これほどの才能の持ち主だから暗記していたであろうけど...

3. リューネブルクの学舎で学ぶ
1700年、リューネブルクに移りミカエル学校に入学。リューネブルクの聖ミカエル教会にはエリート合唱隊が組織されていた。通常は声変わりまで間のある10歳前後の少年が対象とされたが、15歳のバッハと17歳のエルトマンが入学できたのは例外。その理由は、ローレンツ・クリストフ・ミーツラーの「故人略伝(追悼記)」による、特別に美しいソプラノ声だった、というのが従来の説のようだ。だが近年の調査で、バスのパートが不足していたために、その補充として入学できたという説が浮上しているという。
リューネブルクの学舎では、人文主義が高い領域にまで導かれたという。ヘブライ語、ドイツ詩学、物理学、数学、論理学に通じ、ローマ修辞学の大家キケロやギリシャ哲学者ケベスやフォキュリデスを学ぶ。ハインリヒ・トレ著「ゲッティンゲン修辞学」は、音楽における修辞学的教養の基盤になったという。
リューネブルクでは、教会オルガニストのゲオルク・ベームと交流があったらしい。
また、当時有名だったヤン・アダム・ラインケンを聴くために、時々ハンブルクを訪れたという。ラインケンの室内楽曲集「ホルトゥス・ムジクス(音楽の園)」から3曲を選び、「フーガ 変ロ長調」(BWV954)、「ソナタ イ短調」(BWV965)、「ソナタ ハ長調」(BWV966)というクラヴィーア曲に編曲しているという。
更に、ツェレという町にもよく出かけフランス音楽にも接したという。この時期に、フランス音楽と出会ったことが、後の音楽思想に重大な意味を持つという。

4. アルンシュタット...本格的な音楽活動を始める
1703年から半年間、ザクセン=ワイマールのヨハン・エンスト公の従僕となる。もっともバッハ自身は宮廷楽師と称していたらしいが、宮廷の記録には「従僕」としかないそうな。そこからほど近いアルンシュタットに新教会が建設されることになり、オルガニストとして迎えられる。既に才能を高く評価されていたとはいえ18歳という若さ。
1705年、北ドイツのリューベックへ長期旅行をする。巨匠ディートリヒ・ブクステフーデのオルガンを聴くためだ。その二年前に、マッテゾンとヘンデルもリューベック旅行をしているという。高齢なブクステフーデの後任候補として招待されたが、その条件がブクステフーデの娘との結婚ということでハンブルクに逃げ帰ったとか。バッハにも同じ条件が提示されたかは分からないらしい。ちなみに、同年代のヘンデルに出会うことはなかったようだ。
アルンシュタットの記録に、バッハのスキャンダルが残っているという。「見知らぬ女性」を教会の合唱隊席に入れて演奏させたという非難である。あるバッハ研究家によると...教会はバッハが生徒たちとモテットなどの込み入った合唱曲を上演することを望んだが、生徒たちの水準は低く若いバッハとの関係も良くない。その代替措置として技術のある少人数の歌手を使ったのではないか...というもの。女性スキャンダルとした方が、面白おかしく注目されるのだけど。

5. ミュールハウゼン...カンタータの創作が始まる
1706年、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストのヨハン・ゲオルク・アーレが世を去る。その後任をめぐって、1707年の復活祭にバッハの試験演奏が行われた。初期カンタータの名作「キリストは死の縄目につきたまえり」(BWV4)こそが、その試験曲とされるらしい。
同年、それぞれの父が従兄弟同士という遠縁にあたるマリア・バルバラ・バッハと結婚。結婚式は、アルンシュタット近郊の小村ドルンハイムで行われた。司式にあたった牧師は、まもなくマリア・バルバラの叔母と結婚。これらの結婚式のどちらかのために「主は我らを心にとめたもう」(BWV196)が作曲されたのではないかという説があるが、確証はないらしい。
尚、ミュールハウゼン時代に作曲されたことが証明できるカンタータは2曲しかないという。「神はいにしえよりわが王なり」(BWV71)と「主よ、深き淵からわれ汝を呼ばん」(BWV131)の2曲。
「アクトゥス・トラギクス(哀悼行事)」の名で知られる葬送カンタータ「神の時は最善の時なり」(BWV106)も、様式的には初期カンタータの一つの挙げられるが、自筆譜もオリジナル楽譜も残されていないらしい。リコーダ2本とヴィオラ・ダ・ガンバ2本、それにオルガンを中心とした通奏低音のみの伴奏による、このカンタータは特にブクステフーデの影響が大きいという。
後年、ブラームスが交響曲四番終楽章のためにシャコンヌ主題を借用したことでも知られる「主よ、わが魂は汝を求め」(BWV150)や、結婚式のためのカンタータ「主はわれらを心にとめたもう」(BWV196)も、初期のカンタータに属すとされるらしい。

6. ワイマール...多くの教会カンタータを作曲
1708年、再びワイマールに戻り宮廷オルガニストになる。イタリア音楽の影響を受けつつ作曲家としての成熟を深め、同時にオルガニストとしての名声を確立。
1716年、宮廷楽長J.S.ドレーゼが世を去り、バッハに昇進の期待がかかる。この時、5曲の傑作カンタータ(BWV155, 70a, 186a, 162, 147a)が毎週書かれるという異常なまでの熱心さ。しかし、故人の息子で副楽長J.W.ドレーゼが新楽長に就任した。がっかりしたバッハの前に現れたのは、無類の音楽好きアンハルト=ケーテン侯レオポルト。バッハが辞職を願い出ると約一か月の禁固処分にされる。失寵による解雇が通告され堂々とケーテンへ赴く。

7. ケーテン...器楽曲や世俗カンタータを作曲
1717年、アンハルト=ケーテン侯宮廷楽長兼宮廷楽団監督に就任。しかし、ケーテンはカルヴァン派とルター派の抗争が熾烈だった。しかも、カルヴァン派のレオポルトはルター派を弾圧した。それでも、バッハがエルトマンに宛てた書簡によると、バッハとレオポルト侯との関係自体は問題がなかったという。ライプツィヒ移籍後も元ケーテン宮廷楽長を名乗り続け、1728年のレオポルト侯の葬儀では「葬送音楽」(BWV244a)を捧げたという。
1720年、バッハが避暑地カールスバートから戻ると、妻マリア・バルバラが突然世を去っていた。この年を、バッハのケーテンにおける危機の年とする見方があるらしい。ルター派教会音楽が重視されなかったため、創作意欲はもっぱら器楽曲や世俗音楽に向けられる。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001-06)が書かれたのがこの年。「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」が書かれたのもこのあたり。「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳」を書き始めたのが1722年。独奏曲やクラヴィーア曲に集中される。こうした変化は、ルター派弾圧による宮廷予算の縮小や人員削減によるものではないかという説がある。宮廷楽団の中にもルター派が少なくなかったようだ。予算や人員の減少は回復している年もあるので、やや懐疑的であるが...
1721年、ソプラノ歌手アンナ・マグダレーナと再婚。「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」の第一集の表紙には「アンチ・カルヴィニズム」というメモが記されるという。これはルター派神学者アウグスト・プファイファーの神学書の名で、カルヴァン主義の聖体拝領解釈を公然と批判していることになる。バッハにとってケーテンは居心地が悪かったようで、ライプツィヒのトーマス・カントルの職に応募する。

8. ライプツィヒ...教育者としての晩年
1723年、ライプツィヒ市音楽監督兼トーマス・カントル(ライプツィヒ聖トーマス教会のカントル)に就任。バッハは本質的に独学者だったという。また、優れた教育者でもあり、多くの弟子を多く輩出している。理論家ではなく実践派で自由精神を尊重した作曲を教えたそうな。オルガニストの教育に配慮した曲も手掛けている。「正しい手引き」と題した序文が、その熱心な教育姿勢を物語る。
「これは鍵盤楽器の愛好家、また特に熱心な学習者に、二声できれに弾くことを学ぶだけでなく、さらに進歩したければ、三声の独立した声部を正確かつ快適に処理するわかりやすい方法を教示する。またその際、同時に、よい着想(インヴェンツィオ)を得るだけでなく、それを快適に展開し、しかも多くの場合、演奏に際してはよく歌う(カンタービレ)方法を学び、それと並んで作曲についてのかなりの予備知識を会得するためのものである。」
インヴェンツィオとは、バッハがリューネブルク時代に学んだ修辞学の用語の一つだという。修辞学とは、いかに立派な文章に仕立てるかという方法論である。まず何を語るべきか、それは着想を得ることから始まり、全体の配置を構成して、更に細部の彫琢を加え、最後に発話や表現で仕上げるといった具合...つまり、この序文は修辞学の体系を作曲に応用している。まさしく音楽修辞学の体系というわけだ。
クラヴィーア演奏での指の使い方では、興味深い話がある。今でこそ親指は当たり前のように使われるが、当時はほとんど使われなかったという。大家は、よほど大きく手をひろげて弾かねばならない時以外は、親指を使わないとしていたが、バッハは「自然がいわば使ってほしいと望んでいるとおりに使おうとした」という。クラヴィーア演奏で親指に要職を与えたのはバッハということか。
1750年、この地で世を去る。

9. 社会風刺の世俗カンタータ
バッハは18世紀のドイツ社会を描写した風変りなカンタータを書いている。「農民カンタータ」(BWV212)は、キスをさせろ!いやさせない!などと、いきなり男女の本音が単刀直入に語られるという。その後の展開は急転直下で、徴兵逃れに税金問題、殿様は情け深いが税金泥棒の阿漕などと...ちなみに、この台本はピカンダーが書いたらしい。
「コーヒー・カンタータ」(BWV211)は、毎日三回コーヒーを飲まなければ、ひからびた山羊の焼き肉みたいになってしまうと主張する娘と、あの手この手で悪習をやめさせようとする父親の物語だそうな。
他にも、知人の誕生日、教授就任祝いや送別、結婚祝いなどでカンタータを作曲している。また、ザクセン選帝侯国がポーランドをめぐって権力闘争した時を反映したカンタータなど、歴史や政治にも絡む。

10. カンタータの教会暦
ルター派の礼拝は、新約聖書や福音を朗読することが基本にある。バッハの教会カンタータの歌詞は一種の教説でもあった。礼拝で朗読される聖句は教会暦で規定される。
キリスト教では、イエスが復活した日曜日に礼拝のために集まるが、一年間の日曜日はイエスの生涯を基準にして意味が与えらえる。まず、主な二つ祝祭、降誕祭(クリスマス)と復活祭が基準としてある。バッハのカンタータも教会暦との結びつきが強く、季節によって上演される作品も違うようだ。迫害を恐れるな!と説くカンタータもあり、キリスト教初期の迫害された時代も色濃く感じられる。当時のドイツの社会風潮には反ユダヤ主義が根強く残っているようにも映る。その背景を、カルヴァン派からの弾圧と重ねたのだろうか?
バッハは三位一体節のために「わが神、わが光なる主を誉めまつれ」(BWV129)を作曲している。父である神と、神の子としてのイエスと、その父と子から永遠の愛として地上に注がれる聖霊の三者は、唯一無限の神として一つであると...

11. 受難曲の歴史
キリスト教の礼拝において、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書から、受難に関する章句を朗唱する伝統は、かなり古くからある。最古の記録では、4世紀にエルサレムを訪れた女性エゲリアという巡礼者が聖週間の礼拝について述べたという。5世紀には、教皇レオ1世は、枝の主日から聖水曜日までのミサでは「マタイによる福音書」、聖金曜日には「ヨハネによる福音書」から受難の聖句を朗唱するように定めたという。その後、聖水曜日には「ルカの福音書」、聖木曜日には「マルコの福音書」から受難の聖句が読まれるようになったそうな。朗唱の方法は、初期の段階から演劇的要素が備わっていたという。
13世紀にクレルボーのベルナルドゥスによって神秘主義的傾向を強め、受難の追体験としてコンパッシオの意義が強調される。
15世紀になると追体験だけにとどまらず、直接体験による「キリストのまねび」が説かれ、受難曲はしだいに長くなる。そして、複数の人物によるトゥルバ(群衆)の部分と、イエスの言葉が協和するポリフォニーが導入される。いわゆる「応唱受難曲」の成立である。
受難曲は、16世紀にはカトリックとプロテスタントの双方で作曲されたが、17世紀から18世紀にかけて特にルター派プロテスタント教会の礼拝音楽として盛んに上演されたという。ドイツ語の応唱受難曲の手本になったのは、ルターの友人ヨハン・ヴァルターによる「ヴァルター受難曲」だという。

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