2012-06-17

"谷崎潤一郎随筆集" 篠田一士 編

小説もいいが、随筆もなかなかいい。随筆の魅力は、文章の達人たちの自己主張が存分に披露されるところであろう。物語の制約を受けることなく、自己矛盾が生じるのもお構いなし...とまでは言い過ぎか。ただ、これについて行くには、読者の側にも心構えがいる。筆が伸び伸びとする様は、もはや無力感に身を委ねるしかない。文学が精神と対峙する学問である以上、インド哲学にせよ、中国哲学にせよ、ギリシア哲学にせよ、いずれ古代哲学に帰着するものと考えていた時期があった。ところが、日本文学もなかなかの庶民的な哲学を魅せつける。つまりは、生き方というやつよ。

時代は大正デモクラシーに至る頃、急速な西洋化とともに自由の機運が高まる。この時代に随筆が多く書かれたのは偶然ではなかろう。西洋文学が輸入されると、男女の性や恋愛物があからさまに書かれるようになる。恋愛小説が高級な扱いを受けるとなれば、次は官能小説の番か?キラリ!オヤジの眼も輝く。ついでに、関東大震災の追い打ちで日本式建築様式も失われつつある。
谷崎は、「陰翳礼讃」で伝統文化の回帰を仄めかしながら、「いわゆる痴呆の芸術について」で歌舞伎や浄瑠璃の不合理性と不自然性を斬って捨てる。そして、日本文化を国粋芸術として崇めたり、世界に広めようなどという軍閥政策を皮肉る。
「どうか歌舞伎や文楽などは、間違っても世界的なんぞになってもらいたくない。それよりわれわれ日本人だけで、つつましやかにしんみりと享楽したい。」
芸術はあくまでも個性の領域であり、なにも民族の誇りだとか国粋などと崇めるほどのものではないということか。いくら教育の場で芸術を強制したところで、現代感覚ではハリウッド映画と比べられて退屈するのがオチか。
また、徳川時代の弊害を指摘している。...平安朝の時代には、紫式部のような女性作家がいた。にもかかわらず、江戸時代になって不合理で不自然な芸術が育まれたのはなぜか?そして、開国とともに芸術が解放され、その進化を取り戻す。...といった流れが語られる。
国の在り様には大きく二つのものがあろう。国の形というやつだ。一つは、民が伸び伸びと生きることで国を富ませようとする形。もう一つは、政を司る者が法によって民を厳しく縛り、組織として国を発展させようとする形。どちらが善い世かは知らん。まぁ好みもあろうが、徳川時代は後者になろうか。権力が禁じる思想を広めるには、こうすればよかろう。まず、思想論争の必要性を論じながら、反体制思想を紹介する。そして、権力思想を引用しながら、できるだけ説得力のない論理で批判する。聴衆の側も皮肉のツボをよく心得ているので、効果は必定。
そういえば、何の歴史書かは思い出せないが、徳川家を直接批判するとお咎めを受けるので、先代の足利家をネタにして間接的に批判する文化が育ったという話を聞いたことがある。天皇家を南北に割った張本人としても攻撃対象に相応しい。粛清の時代では、回りくどく不合理で不自然な文芸が発達しやすいのは、本当かもしれない。なるほど、江戸から距離を置いた西の都で、お笑いや毒舌の文化が発達したのも分かるような気がする。寺小屋のような教育文化も、幕府主導というよりは庶民的な運動から始まったのだろう。真の教育が国家教育から育まれないのは、いつの時代も同じか。新渡戸稲造は、武士道精神は徳川泰平の世に衰えたと指摘した。忠臣蔵で、播州という西の地で権力に抗議するエネルギーが発生したのも偶然ではないのかもしれない。徳川倒幕のエネルギーも西方から起こった。となると、現在においても、政治改革は西から蜂起するということであろうか?京が中心の時代には東から蜂起した。平将門の乱しかり、鎌倉幕府しかり。政治の中心、経済の中心、文化の中心が一箇所に集中すると何かと弊害があるのだろう。
「それにつけても凡ての作家が郷土を捨てて東京へ志すのは、大きくいえば日本文学の損失であると考えられる。」

当時の文壇事情も暴露される。文豪たちの論争は激しい。いわゆる喧嘩を売る!というやつか。中央公論の編集長、滝田樗陰が作家たちに、出来が悪い!と喧嘩を吹っかける話や、生田長江が、誌上で白樺派というよりは武者小路実篤に、オメデタイ!と凄まじい攻撃をした話など。さすがに文章の達人たちだけあって議論の吹っかけ方も巧みだ。文学の基盤は、もともと論争や口論にあることが見えてくる。まさに皮肉屋文化か。人間とは、喧嘩しながら精神を高めてきた生き物なのかもしれない。戦争もその類いなのか?
また、鏡花、里見、芥川、谷崎は、鍋を囲む仲だったという。互いの食い意地にもライバル関係が現れる。
東京生まれの作家で、島崎藤村を毛嫌いする人が少なくなかったという。荷風も、辰野隆も、みなそうだと。漱石も露骨ではないが嫌っていたとか。最もあからさまに罵ったのが芥川だそうな。特に「新生」という作品に関するものらしいが、滅多に悪口を言わない男だけにインパクトがある。谷崎も遠まわしにチクリと書いたとか。ちなみに、坂口安吾も不誠実な作家と評していた。しかしながら、藤村にも神の如く崇めるファンがいる。そこまで悪口を言われると...次は藤村でも漁ってみるかぁ。天邪鬼精神健在!

本書には、「『門』を評す」「懶惰の説」「恋愛及び色情」「『つゆのあとさき』を読む」 「私の見た大阪及び大阪人」「陰翳礼讃」 「いわゆる痴呆の芸術について」 「ふるさと」 「文壇昔ばなし」「幼少時代の食べ物の思い出」「『越前竹人形』を読む」の十一篇が収録される。
さて、純米酒に合いそうなところを摘んでおこうか。

1.『門』を評す
「『門』は『それから』よりも一層露骨に多くのうそを描いている。そのうそは、一方においては作者の抱懐する上品になる ― しかし我々には縁の遠い理想である。一方においては先生の老獪なる技巧である。」
谷崎は、漱石を当代ずば抜けた作家だと評している。なのに、この物言いは谷崎流の自然主義文学への挑戦状か?当時、文学界には自然主義なる風潮があり、漱石は自然主義に近づいていると評されたらしい。もともと小説とは、空想の世界を描くものである。だが、現実社会で生きる読者に共感を与えるものがなければ説得力を欠く。あまりにも理想郷へと旅立たれると、作家の独りよがりと言わざるを得ないというわけか。
「それから」は姦通する小説で、「門」は、姦通した二人が夫婦になる小説だそうな。道義上許されない姦通によって成就した恋、世間の冷たい目に晒されながら生きる様、罪が祟って三度も妊娠した胎児がことごとく闇へ葬られる...といった物語だとか。ここには、恋はかくあるべし!という漱石流の道徳観が描かれているという。人間社会というものは、もっと複雑で皮肉な事実に満ちていて、もっとドロドロとしたもので、このような夫婦関係を真の世間だとする見方は甘いということらしい。小説が真実よりも嘘に価値があるとすれば、その意味で「それから」は成功した作品であり、「門」は失敗した作品だと評している。

2. 懶惰の説
怠け者と言われて名誉に思う者はいないだろう。しかし、室町時代の「御伽草子」には「物臭太郎」という物語がある。怠け者で近所から爪弾きされる厄介者の話だが、乞食かと思えば権威に怖れないほどの気骨があり、馬鹿かと思えば和歌の才能があり、しまいには御多賀の大明神に祭られる。こうした物語が作られるのは、もともと人には怠惰への憧れがあるからであろう。だから、博奕に憑かれる。博奕打とは、楽をしながら金儲けをする人種である。そのために情報収集に努め、己の技を磨く奇妙な人種でもある。怠惰を求めて勤勉になるというわけさ。経済活動や学問に励むのも、ほとんどその類型であろう。
三国志には、諸葛亮が劉備の三顧の礼に従って世に出た話があるが、ようやく重い腰を上げたのは怠け者の証しかもしれない。もし、三顧の礼に従わず、才能が埋もれたままだとしても、品位が変わるべくもなく、偉大であることに変わりはないのだろう。老荘の無為の思想も、ディオゲネスの犬儒学も、その類型であろう。つまりは、人間の欲望の裏返しである。怠け者の哲学とは、自然風狂の哲学というわけよ。

3. 恋愛及び色情
平安朝の時代には、紫式部のような女性作家がおり、恋愛文学が旺盛を極めた。「今昔物語」の「不被知人女盗人(ひとにしられざるおんなぬすびとのこと)」は、珍しく女のサディズムを描いた作品だという。「枕草子」には、清少納言が宮廷で男をへこます話があるという。日記や物語や和歌などの文学的能力では、女性は多くの男から尊敬されていた様子がある。
恋愛物は、儒学者が淫蕩の書とした時代もあれば、国学者が神聖視し教訓とした時代もあった。徳川時代では、徹底的に低俗扱いされた。武士社会では、女性に優しいことが武士らしいということと一致しない。むしろ惰弱に見られ女々しいと言われる。こういうお国柄では、高尚な恋愛文学が発達するはずもないか。
一方、西洋の騎士道においては、武士道で言う忠誠や崇拝を女性に求めたという。西洋文学では、恋愛を題材にしない方が珍しい。キリスト教的に言えば、聖母マリアのような女性を崇める発想がある。西洋には、「聖なる妊婦」や「みだらなる貞婦」という概念があるという。日本では、卑しいで片付けられてしまうけど。男女身分の優劣から、竹取物語のように、かぐや姫が昇天するような想像は難しいだろう。しかし、現実に古くからある物語だ。となると、自由恋愛の伝統は古くからあり、徳川時代の頃に虐げられたということか?性欲の抑圧を美徳とする価値観は、この時代に育まれたのか?茶の文化などは、女性禁制の文化である。自然美だけが唯一不変とし、詩人や歌人たちはひたすら自然を描写した。高嶺の女よりも、高嶺の月を目指したというわけか。
ところで、昔は、家庭に舅や姑がいてくれた方が、嫁に色気が出ると言われたそうな。嫁が親に遠慮して、陰で夫に縋りつき、愛撫を求めるからだそうな。その遠慮がちな言葉や態度が夫をそそるという。現代社会では別居が当たり前だから、本性まるだしで...それで興醒めするかは知らん。ちなみに、「色気」という言葉は、西洋語で翻訳しようがないという。セックスアピールと言ってしまうと、興醒めか。

4. 「つゆのあとさき」を読む
荷風の小説「つゆのあとさき」は、純客観的描写をもって一貫され、何の目的もなく、何の主張もなく、それ自身の内に含むものがなく、冷たい写実的作品だという。どんな客観的な作品にも自我の描写というものが現れ、創作熱というもが感じられるのだが、そんなものがまるでないそうな。
「うそを楽しむ人でなければ手の込んだうそは吐けないと同様に、虚無を楽しむ人でなければああまで空中楼閣は築けない。」
感情やら創作熱などどうでもよく、あくびをしようが、酔っ払ってようが、そんなものが書ければ結構というわけか。荷風は、妻もなく、子もなく、友人もなく、時折気の合った茶飲み相手を拵えるぐらいだったという。こういう人物でなければ、創作に耽ることもできないのかもしれない。長い間、孤独地獄の泥沼に落ち込んで、苦しく味気のない暮らしを送りながら夢や覇気や情熱を擦り減らした挙句、次第に人生を冷眼で見るようになるのであろうか。享楽主義者が、享楽を尽くし、享楽に疲れ果てるまで...
「とにかく私は、この作者が最も肉慾的な婬蕩な物語を、最も脱俗超世間的な態度で書いているところに、― そして、何もむずかしい理屈をいわずに素直に平凡に書き流しているところに、― いかにも東洋の文人らしい面目を認める。」

5. 私の見た大阪及び大阪人
関東大震災の頃、避難場所として大阪へ流れた人は数知れず。その中に、谷崎や志賀などの小説家たちもいたという。東京生まれには、関西という地は肌の合わないことも多い。谷崎は、大阪ほどの大都市に文士がいないことを嘆いている。金の計算ばかりしていると、文士など育ちにくいのかもしれないけど。芸者で賑わい、三味線につれて地唄を唄い、人情味に溢れ、この多様な風俗の町では、経済競争の中で落伍者も多く、商売人から型破りまで多様な人種が集まる。それだけに金融屋やヤクザの入り込みやすい町なのかもしれん。
大阪弁といえば、下品でエゲツない印象があるが、女性の大阪弁は悪くない。個人的には京都美人と聞いただけでイチコロだが、谷崎は大阪の女性に惹かれるという。猥談などをしても、上方の女性はそれを品よく仄めかす術を知っているという。東京の女性は露骨過ぎるのだとか。変に色気があり、愛想よく歯の浮いた台詞も出るが、東京の女性は人見知りが強く、あまり巧いことが言えないらしい。じゃ、ズルいのか?というとそうではなく、正直なのだそうな。
「関西の婦人の言葉には昔ながらの日本語の特質、― 十のことを三っつしか口へ出さないで残りは沈黙のうちに仄かにただよわせる、― あの美しさが今も伝わっているのは愉快だ。」
男がエゲツないと、逆に女は上品になるのだろうか?となると、草食系の男子が増えれば...ゴホゴホ!

6. 陰翳礼讃
まず、臭い話から...
純日本風の厠は、閑寂な壁と清楚な木目に囲まれ、青空や青葉を見ることができるという。用を足すにも風流というわけか。
「総てのものを詩化してしまう我らの祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、かえって、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。」
ただ、母屋から離れていて夜中に行くには便利が悪い。斎藤緑雨は、「風流は寒きものなり」と言ったとか。漱石は、便通いを「生理的快感である」と言ったとか。しかし、便器が木製というのは...やはり水洗でないと...便器の文化を一つとっても、西洋では光り輝くものを芸術とし、日本では陰翳なるものを芸術にするという。
次は、出す方から口に入れる方へ...
日本料理は、食うものではなく見るものだと言われる。谷崎は見るもの以上に迷想するものだと言い、「闇にまたたく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用」と語る。赤味噌汁にしても、薄暗い家の中で発達したものであることが分かると。
さて、住まいは...
建築様式は、日本人だって暗い部屋より明るい部屋の方が便利に違いない。だが、固有の風土によって、自然と暴風雨を防ぐために部屋が暗くなったという。
「暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。」
太陽光線の入りにくい座敷の外に土庇を出したり、縁側を付けたりして、一層日光を遠のける。庭からの反射が障子を透して、ほの明るく忍び込ませるように演出したりする。掛け軸や生花も飾るが、あくまでも脇役であって、陰翳の深みが主役であり、陰翳こそが装飾であるという。日本座敷の美は、陰翳の濃淡によって構築され、間接的な光線の演出に他ならないというわけか。
しかし、西洋人が見ると、その簡素さに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで、なんの装飾もないと感じるらしい。陰翳を解せなければ、質素に見えるのも当然か。これもチラリズムの類いであろうか?そういえば、日本の幽霊には足がないのに、西洋の幽霊には足がある。これも陰翳感覚の違いか?現代人は、昼夜の明かりに馴れて闇の時代を忘れている。夜の世界地図を眺めても、この国は異常に明るい。おそらく暗い土地の方が正常なのだろう。先進国はどんどん人間離れしているのかもしれん。アインシュタインが訪日した時、大層不経済なものがあると、電灯を指さしたという。この時代から、ヨーロッパよりも惜しみなく電燈を使う癖があったらしい。資源がない国と言われながら...
「私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の櫓(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない、一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」
ちなみに、行付けのバーでは、酒を演出するために照明にこだわっている。それがたまらなくいい。

7. いわゆる痴呆の芸術について
辰野隆(たつのゆたか)が義太夫を悪く言ったという。歌舞伎を痴呆の芸術と言い出したのは、正宗白鳥だったとか。西洋かぶれになった時代、西洋音楽の何たるかを解さずに。辰野隆はいわゆる洋楽党だったとか。
しかし、西洋音楽を学んだ女性ピアニストは、邦楽では義太夫の三味線を聞くという話が紹介される。パリで娘時代を過ごし、フランス教育をうけた近代人でも、あの音色の中には日本人の血に訴える宿命的な魅力が籠もっているという。伝統芸術が軽んじられるのは、いつの時代も同じか。それも必要な過程なのだろう。芸術は、新旧を問わず、揉まれるうちに真の芸術に回帰していくのだろう。今では、リバイバル作品をよく見かける。ちなみに、義太夫通に言わせれば、文楽は見るものではなく聞くものだそうで、悪魔的な美を奏でる旋律だそうな。
「波立つ海面、渦巻く水勢、一つ所を船がくるくる行ったり来たりする運動、懸命に櫓を漕ぐ水夫たちの努力...」
こうしたものが思い浮かぶのだそうな。琴だの、三味線だの、地唄だの、俗世間の酔っ払いには退屈してしまうのだけど。旧劇や浄瑠璃には、滑稽なほど不合理や不自然が満ちていて、大袈裟でどことなく胡散臭い感は否めない。おまけに、軍閥政治が時代物や浄瑠璃を推奨したために、義太夫の残忍な場面は、軍閥の野蛮性と重なるとしている。国家が教育や文化を押し付けると、国民感情はだいたい逆の方向に働くものだが。

8. 『越前竹人形』を読む
水上勉の小説「越前竹人形」は、最初はそれほど名文があるわけでもなく平凡な書き出しだが、次第に生彩を帯びてくるという。娼妓の玉枝という女性の描写、その書き方を絶賛している。

...
家内でございます。と、喜助はひくい声で鮫島に紹介した。鮫島は、(中略)瞬間息をのんだ。美貌だったからだ。すらりと背の高い玉枝は、肉づきのいい固太りの躯(からだ)をしていた。白い肌が、青みどりの竹の林を背景にして、ぬけ出てきたようにみえる。それに切長(きれなが)の心もちつり上った眼は、妖しい光をたたえて鮫島をみつめていた。(この男に、こんな美しい妻がいたのか...)
鮫島はわれを忘れてみとれた。あいさつの声も出なかった。櫛の歯のように生えている竹林にさし込んでいる陽は、苔のはえた地面に雨のようにそそぐかにみえた。玉枝は黄金色の光の糸を背にして、竹の精のように佇んでいた。
...

「私は近頃これほど深い興味を以て読み終わったものはなかった。.....『楢山節考』を読んで以来の感激である。...何か古典を読んだような後味が残る。玉枝を竹の精に喩えてあるせいか、何の関係もない『竹取物語』の世界までが連想に浮んで来るのである。」
「竹の精」とは、うまいこと言う。是非、挑戦してみたい。

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