2012-06-24

"破戒" 島崎藤村 著

谷崎潤一郎は、東京生まれの作家で藤村を毛嫌いする人が少なくないと書いた。漱石も露骨ではないが嫌っていたとか。滅多に悪口を言わない芥川までも「新生」という作品を露骨に貶したそうな。坂口安吾も不誠実な作家と書いていた。
しかし、そんな評判に怯むことはない。ここは天邪鬼への宣伝文句と受け取っておこう。俗世間の泥酔者に文学作品に対する目利きがあろうはずもないが、この作品は一読の価値があるのではなかろうか。小説という手段を用いて、古くからある日本社会のタブーを大衆化しようとした試みは称賛したい。藤村は、乞食よりも下等扱いされてきた穢多の境地を暴く。しかし、幸せになるために現実逃避に縋るしかないという結末は...これが小説の限界であろうか?平等が人類の最高の価値だとは思わない。すべての人間がどうして対等でありえようか。能力差もあれば人格差もある。だが、優劣を決める要因が、それ以外のところで決定されるのは、理不尽としか言いようがない。人類の歴史とは、まったくもって「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史ということができよう。

明治維新の時代、「四民平等」のスローガンのもと、封建時代の身分制度「士農工商」が廃止された。そして、穢多や非人と呼ばれた人々も解放され、みな同じ平民となる...はずだった。法で定めたからといって、伝統によって培われてきた慣習を簡単に捨て去ることはできない。日本社会には伝統的に家柄や身分を重んじる風習があり、華族や士族を鼻にかければ平民との区別が強調される。平民にしても、自分より下の階層がないと落ち着かない。穢多にしても、差別から逃れる者を見れば、僻み、妬む。人間ってやつは、自分よりも劣等な人種を見つけて安住したがるものらしい。結局、身分の世襲からは逃れられず、「新平民」という新たな差別用語を蔓延させることになる。
「病のある身ほど、人の情の真と偽とを烈しく感ずるものはない。心にもないことを言って慰めてくれる健康(たっしゃ)な幸福者(しあわせもの)の多い中に...」
農村部に封建制の余波を残しつつ、あれは穢多だ!放逐してしまえ!と平気で言う時代、居住、職業、進学、結婚などで市民権を保証すると唱えたところで、行政措置は上辺だけでしかない。裏社会で売買される穢多の娘たち、人並みに学問を志すことも許されない人々...美人で金持ちの目に留まるのは、まだしも幸せというものか。
しかし、こういう時代も経験する必要があったのだろう。残酷な行為はその時代には分からないもの。現在だって数十年もすれば、あんな理不尽な時代があったと言われるかもしれない。昭和の時代にも、その名残りはあった。高校時代、同和教育を受けた記憶が蘇る。当時はまったく現実味がなく、無神経に冗談を飛ばして先生に怒られたものだが、後で身近に同和地区があったことを知る。
ところで、部落問題は西側に多く存在すると聞く。その発祥は分からないが、平氏の怨霊かそのあたりの時代に遡るのだろう。武士の時代、多くの落ち武者が西側に流れたという歴史的背景がある。いくら武家社会が源氏を中心に固められたとはいえ、平氏が完全に絶滅したとは考えにくい。平氏以外にも歴史的に滅亡したとされる名門の子孫たちもいただろうし、権力の主流派であっても陰謀から逃れた落とし子のような人たちもいただろう。そういう人々が忠実な家臣とともに生きながらえ、目立たない地に集落を形成したことは想像できる。他にも犯罪者など素性を隠したい人は多くいるだろうし、世間の目から逃れた社会が形成されてきたことも想像できる。もちろん偽名を名乗る。
本書は信州を舞台にしているが、東側にも点在する現象なのだろうか?ずっと政治、経済、文化の中心できた東京人には、分かりにくい感覚なのかもしれない。役所も部落民などと差別するつもりはないのだろうが、行政的に保護が必要となれば区別する用語が必要になる。政治屋は友愛やら博愛やらという言葉がお好きだけど、「同和」と呼べばそれ自体が差別用語と化す。
更に厄介なのが、同和問題となんら縁のない連中が部落民を名乗り、社会保障や生活保護を脅したり、たかったりする。いわゆるエセ同和というやつだ。弱者や善人を装う輩の背後には、裏社会や宗教団体が寄生する。弱みや憐れみのあるところに政治団体が忍び寄り、福祉は選挙運動の道具と化す。報道屋は表面的な弱者の味方をするが、本当に保護を受けるべき人々が放置されるのは世の常。
現在では、穢多、非人、かたわ、気違い... などといった言葉が禁止用語とされる。そういう考え方も必要かもしれないが、そんな言葉が使われた時代があったということも認識しておきたい。近代化の過程で、「新平民」などと新語が用いられ、いじめの手口も裏で巧妙化していく。堂々と悪行をなすのと、陰で悪行をなすのとでは、どちらが悪いのかさっぱり分からん!人は、憐れみを感じながらも、つい余計なことを言ってしまう。真意が違っても、つい傷つけたりする。その反省を繰り返せば無口にもなろう。だが、無言ですら何かを物語る。お喋りなこの世から差別を無くすことは不可能なのかもしれん。

1. 「破戒」と「破壊」
「破戒」という題名は、戒めを破ると書く。戒めとは、素性を隠そうとすることが慣習として根付いたもので、先祖代々受け継がれてきた生き延びるための知恵である。破るとは、素性を世間に告白することで、社会からの迫害を覚悟することである。その意味では、自己の「破壊」という気持ちも込められているのかもしれない。
しかし、その告白はけして積極的なものではなく、噂が広がる中で仕方なく追い込まれた結果なのだ。告白した後は、逃げるように自由の国アメリカを目指す。ただ、その結末は少々腑に落ちない。現実には、様々な事情で逃げられないケースがほとんどであろう。経済的な負担も大きい。まだしも逃げる場所があるだけ幸せというもの。だからといって、この物語を夢も希望もないまま終わらせるのも...このあたりが小説の限界であろうか?
そういえば、日本政府がブラジルへの移民を募集した時代とも重なる。新天地への夢に乗せられ、苦労したという話も聞く。その中にも部落出身者がいたのかもしれない。本作品は、移民との関係も匂わせているのかもしれない、というのは考えすぎか?
また、解説の野間宏は初版本を読むべきだとしている。訂正本はまったく生ぬるいと。「穢多」という言葉を避けて「部落民」という言葉にすり替えられているそうな。

2. あらすじ
穢多出身の瀬川丑松(せがわうしまつ)は、生い立ちと身分を隠して生きよ!という父からの戒めを守って生きてきた。そして、小学校教員となり、解放運動家で部落出身の猪子蓮太郎を慕うようになる。
ある日、旅先で代議士になろうという人物と美女の一行を見かける。世間とは狭いもので、この女性が丑松の知り合いの穢多の娘であった。同僚の勝野文平は、その議員あたりから丑松の素性を嗅ぎつける。そして、町中で噂になり擁護派と蹂躙派で二分される。
しかし、擁護派も残酷な面を見せる。丑松が穢多ではないと主張するだけで、穢多そのものは差別しているのだから。穢多には、こういう特徴があるという。一種の臭いがある、皮膚の色が普通の人と違う、顔つきで分かる、そして、性格が異常に僻んでいる。ひたすら素性を隠す習慣から性格が陰気になり、病的な境遇が哲学をさせるんだとか。こうした特徴から、丑松を穢多であるか判定しようという話まである。憐れみが怖れに変わるのも道理というものか。時代の価値観によっては、どちらが病気扱いされるか分かったもんじゃない。
隠そうとすればするほど、世間はやかましく追求してくる。騒ぎが大きくなれば、素性を明かさないわけにもいかない。ついに丑松は告白する決心をする。
「我は穢多を恥とせず!」
それにしても、素性を隠していたことを、あまりに卑屈に謝る態度は、時代を反映しているのだろうか?
普段優しい人たちでも、一旦身分が明らかになると残酷な動物へと豹変する。人間は、群衆化すると野蛮になるところがある。陰の噂や陰の罵声といった陰湿な方法によって。まさに、いじめの原理がここにある。
そんな悲愴感の漂う中にあっても、読者を救ってくれるものが一つだけある。それは、最も純粋な擁護者である生徒たちの存在だ。教師として新平民であることに何の不都合があろうか、と校長に詰め寄る。教師冥利に尽きるというやつか。校長は、進退伺いを提出すればどうしようもないと言い訳するが、実は若くて活力ある教師が目障りだった。ここには、丑松の人間主義的な教育と、校長の封建主義的な教育との対立構図を匂わせる。おまけに、出世主義の勝野はライバルの脱落を意味ありげに微笑む。校長や勝野は、規則!規則!と生徒たちを封じ込める。
この物語が子供たちの純粋な感覚に救いを求めたのは、未来へ希望を託したのか、あるいは腐った大人どもに絶望したのかは知らん。
「ああ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑...」
そして、丑松はテキサスの日本村で新たな事業を起こす夢を持って旅立つことに。学校を去る淋しさか、社会への悔しさか、目から涙が溢れ出る。

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