2012-06-03

"桜の森の満開の下・白痴 他十二篇" 坂口安吾 著

およそ鳥肌が立つような小説とは、こういうものを言うのであろうか。男と女のドロドロ哲学を語らせたら、この作家の右に出る者を知らない。各々の物語は、二つの二元論において展開される。それは精神と肉体、そして夢想と現実。これらの狭間で揺れ動く情念の微妙なタッチを、男女の性を絡ませながら対称美で魅せるところに、この小説家の凄みがある。
古来、精神と肉体は一体か?という哲学的な問いがある。人間の実体は精神にあるとし、固体である肉体になんの意味もなさないとする立場と、どんな物質にも精神が宿るとする立場の論争は、いまだ決着を見ない。本書は、大体において後者の立場をとりつつ、結果的に前者に引き戻される感がある。純愛を夢想したところで結局は肉体を貪り、理性を求めたところで結局は衝動の虜になる。いくら理想を追いかけようが、いくら現実を直視しようが、そこにあるのは虚しさだけというのは変えようがない。

本書には、「風博士」「傲慢な眼」「姦淫に寄す」「不可解な失恋に就て」「南風譜」「白痴」「女体」「恋をしに行く」「戦争と一人の女」「続戦争と一人の女」「桜の森の満開の下」「青鬼の褌を洗う女」「アンゴウ」「夜長姫と耳男」の十四篇が収録される。
作品の順番もうまいこと演出され、一つの体系をなしている。いきなり「風博士」が無力な男の復讐劇を喜劇で演じれば、文学なんて楽しけりゃいいじゃん!という解放感を与えてくれる。そして、無垢な少年が年上の女性へ向ける「傲慢な眼」で純愛を語り、なにやら忘れかけているものを思い出させてくれる。
しかーし、こうして油断させておいて、いつのまにか(小)悪魔への殉教が始まっているのだ。美麗な女どもは...「白痴」な女は純真な肉体を晒し...戦争好きな女は空襲の度に男の優しさを快感にし...もはや男なしでは生きられない。脂ぎったオヤジども、すなわち「青鬼赤鬼」でもええからひとりぼっちにしないでと。男どもは男どもで...戦争に生き残った野郎どもはハーレム気分...美女の微笑みに憑かれた男は「桜の満開の下」で狂い...もはや自分の命を守るには妖女の媚態を断ち斬るしかないと気づく。
さて、美女をモチーフにした小説が、愛憎劇や官能小説風に展開されるのはよくあること。性に解放された自由闊達な娼婦や気高い女王様が登場すれば、男どもは命を磨り減らす。愛という幻想が仕事の原動力となり、美麗の虜になり、残虐な行為も命じるがまま。安吾は、天性の娼婦を奉仕する人として崇めているところがある。自己犠牲を払って相手を喜ばすのだから、そうかもしれん。ある種のエゴイズムであろうが、もともと小説とはエゴいもの。退屈は、エゴイストにとって虚しさを感じるだけだが、エゴを放棄した天性の娼婦は幸せを感じるというのか?天性の娼婦は自己を見つめることなどないのか?だから、いつでも楽しめるというのか?そして、とことん憑かれ(疲れ)、気がついたらポイよ!そのリスクを背負ってこそ、理想観念に近づくことができる。理想の女性像を求めるということは、まさに精神の完成を求めるに等しい。これが安吾小説の真髄であろうか。
しかし、だ。仕舞いに、女性自身が命を奪われる瞬間でさえ微笑みで見つめられると、殺人鬼となった男はどう狂うというのか?美女がそれを穏やかに受け入れるのは、悪魔を自覚しているからか?かくして悪魔は神となり、男は救われる。美麗な女性が残虐であればあるほど、無垢な聖人と化すとは。ある種の宗教的救済なのか?宗教とは姦淫のようなものなのか?盲目となって惚れ込むところは、まったく同じよ。よって、男性諸君がこぞって夜の社交場へ通うのも道理というものよ。そう、教会へ行くのと同様、ある種の宗教儀式なのだ。さぁ、聖地へ赴くとしよう。ただし、美人と美麗ではまったく違う概念なので注意されたし!
...「夜長姫」に憑かれた男より。

1. 風博士
偉大なる風博士が自殺した。遺書には、憎むべき蛸博士のことが記されていた。かつて友人だったこの男は黒髪明眸の美青年であったが、やがて禿頭となり蛸博士と呼ばれる。彼は風博士の妻を寝とった。この憎むべき論敵は、いつも鬘で禿頭を隠している。風博士は、蛸博士を抹殺するために邸宅に忍び入り、証拠品である鬘を手中に収めた。しかし敗北した。蛸博士は密かに鬘の予備を持っていたのだ。そして、蛸博士を地上から抹殺することを諦め、自己を抹殺したとのこと。かくして博士は失踪した。偉大なる博士は風になったのである。その証拠とは。
「この日、かの憎むべき博士は、恰もこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。」
風となった博士は、風邪の伝道師となったとさ。

2. 傲慢な眼
ある辺鄙な町に、都会風の派手な県知事が赴任した。夏休みになると、東京の学校に残した美しい一人娘がやってきた。町中の眼が注がれる中、ただ一人の傲慢な眼が向けられる。大男の中学生。令嬢が問い詰めると、少年は顔を赤らめ、うつむく。
ある日、令嬢が散歩していると、少年は写生帳に描き始める。令嬢はモデルになってくれた。夏休みが終わると令嬢は東京へ戻り、冬休みになっても再びこの町に来ることはなかった。令嬢は友人に呟く。
「わたし、別れた恋人があるの。六尺もある大男だけど、まだ中学生で、絵の天才よ...」
彼女は「天才」という言葉を発した時、言いたいことを言い尽くしたような満足感に浸る。静かな感傷の中に、玲瓏と思い浮かべることができるのだからと。

3. 姦淫に寄す
九段坂下の裏通りの汚い下宿屋の一室で、勤め人が自殺した。そんな部屋に借り手はつかないだろうというので、それならと隣に住んでいた大学生の村山玄二郎が借りることに。彼は、顔立ちが良く品位もあるが、どことなく自殺の香りがする。滅多に外出しないが、水曜日になると決まって教会の聖書講義会へ通う。ただ、一度も神を信じたことがない。
「孤独を激しく憎悪しているが、憎み疲れて孤独に溺れ孤独に縋りついている。」
聖書研究会に、四十にとどく永川澄江という女性がいた。熟女の感覚で、玄二郎の内に秘める多感な心情を見抜いていたのか。玄二郎は澄江に穏やかな安らぎを求める。澄江は玄二郎を大磯の別荘へ誘い、近所の住人を交えてトランプに興じる。そして、嵐の夜、二人は興奮し姦淫に寄す。その後、玄二郎は教会へ行かなくなった。おそらく澄江も。
「杞憂を懐いた玄二郎こそ、詩も花もない一野獣の姦淫に盲(めし)いた野人であったのだろう。」

4. 不可解な失恋に就て
50を越えた絵の先生。30名近い弟子の中から、いつも5,6人の少女を連れて散歩する。天来稀なフェミニストで、特定の一人に態度が向けられることはなかった。しかし、その中の一人の美少女に恋をする。散歩のメンバーに彼女を加え、男女区別なく美青年も加えた。すると、嫉妬するのは先生自身であった。美少女は、ある青年と恋をはじめ、そして結婚した。先生は散歩をやめた。丸々と太っていた身体が痩せ衰え、眼はくぼみ、見る影もない老衰病者のようになっていく。
「不幸な恋は深刻そうであるが、必ずしもそういう理屈はなりたたないだろう。最大の愚、不幸な恋をみならうこと。」

5. 南風譜 (牧野信一へ)
紀伊への旅で友人宅に泊まる。熊野灘の眺めのいい所。浴室を出ようとすると、夕陽を浴びた廊下の隅から女の鋭い視線がある。可愛らしい魔物の眼。それは木彫り地蔵であった。鎌倉時代の作で、情感と秘密に富んだ肢体。ひたすら妄想に身を焼き焦がした者のみが、仏像の汲めども尽きぬ快楽と秘密を備えた微妙な肉体を創り出すことができる。
ところが、木像の脾腹に刃物でえぐったような生々しい傷痕を認めた。住民の話によると、それは混血(あいのこ)の父(てて)なし娘で、白痴で唖でつんぼだという。そして、友人の妻が白痴であったことを知る。木像への嫉妬が刃物を揮わせたのか?男の憧れが、実存する女性よりも、木像の妖しい様子に心を奪われたのか?もともと木像は書斎に置いてあったという。妻を失った今、木像は廊下の隅に置かれている。

6. 白痴
27歳の伊沢は、文化映画の演出家をやったことのある新聞記者で、徳川時代から受け継がれる年功序列制に反感を持っている。凡庸さを擁護し、芸術の個性と天才による競争意識を罪悪視するとして。
「要するに如何なる時代にもこの連中には内容がなく空虚な自我があるだけだ。流行次第で右から左へどうにでもなり、通俗小説の表現などからお手本を学んで時代の表現だと思いこんでいる。...最も内省の希薄な意志と衆愚の盲動だけによって一国の運命が動いている。」
しかし現実は、芸術を夢見ながらも会社員として安定した給料にすがる毎日。硬直した社会の破壊を戦争に期待している。
さて、伊沢の隣には気違いが住んでいた。その女房は四国遍路の旅で連れ帰った25、6の白痴の女、古風で瓜実顔の美しい顔立ち。気違いには、笑いたい時にゲタゲタ笑い、演説したい時に演説をし、アヒルに石をぶつけたり、豚の尻を突いたりする性癖がある。人目をはばかることもない。おまけに、母親が病的なほどのヒステリックで女房はいつも怯えている。
ある晩、遅く帰ると白痴の女が隠れていた。伊沢は問わずに事情を悟る。そして、同棲することに。白痴の女は、米を炊くことも、味噌汁をつくることも知らない。喋ることも不自由で、配給の行列に立つのが精一杯。喜怒哀楽の微風に反応するだけで、放心と怯えの狭間で他人の意志を通過させるだけ。まるで人形のような存在。伊沢は白痴の女を抱きたいが、世間体を恐れる。
やがて毎日、空襲警報。焼夷弾が降りそそぎ、辺りは焼鳥のように人が焼け死ぬ。ただ、戦争ってやつが不思議と健全な健忘症にさせる。白痴の女はただ待ち受ける肉体に過ぎない。
「ああ人間には理知がある。如何なる時にも尚いくらかの抑制や抵抗は影をとどめているものだ。その影ほどの理知も抑制も抵抗もないということが、これほどあさましいものだとは!」
女を捨てることもできない。殺す度胸もない。戦争が女を始末してくれるだろう。伊沢は冷静に空襲を待っている。それでも、ある瞬間、人間らしさを見せる。死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ!としっかり抱きしめる。ほんの一瞬にせよ、人間の誇りというやつが、まだどこかに...意志を持たない白痴の女の空虚が、戦争の空虚と重なる。
「戦争の破壊の巨大の愛情が、すべてを裁いてくれるだろう」

7. 女体
岡本は谷村夫妻の絵の先生。年とともに放埒のつのる一方で、五十を過ぎても狂態。生活費で谷村に頼るが、生活苦は芸術家の宿命であるかのような態度。己を蔑むことは芸術を蔑むと言わんばかりに。谷村の生命の火は、妻の素子を貪ることによって燃え上がる。だが、その過淫が衰弱を招いていた。
ある日、ほとんど言いなりに金を貸していた谷村は、胸にしまいこんだものを吐き出してしまう。岡本は、あさましいほど狼狽した。しかし、素子は岡本を弁護し、狼狽に追い込んだことを避難する。金が欲しくてたまらなければ、あさましくもなる。なけなしの肩書きでも、消えそうな名声でも、なんでも利用する。それが人間というものではないかと。弱点を暴いて何になる?それは卑怯というものだと。素子は、岡本に頼まれて女の世話をしたこともあり、女のだらしなさを、むしろ魅力であるかのように受け止めている。人間は惨めな恥辱を受けると、その復讐に立派になって見返すか、やけになって思いっきり惨めになって困らせるか、のどちらかになるのだろう。岡本は後者のタイプか。性格破綻、破廉恥、こうした男の弱点が逆に武器になるとは、母性本能恐るべし。
「金銭は愛憎の境界線で、金銭を要求しないということは未練があるという意味だ」
岡本は、素子に露骨に話しかけ、媚びる卑しさを見せつける。だが、谷村が老けこむのに、素子は若々しくなる。谷村は、自分が死んだら好色無恥な老人の餌食になるのではと嫉妬する。そして、肉体とは関係ない、魂だけの純粋な恋がしたいと願う。

8. 恋をしに行く (「女体」につづく)
「女体」の続編。かねてから肉体と無関係の恋がしたいと願っている谷村は、信子に恋の告白をしに行く。信子も岡本の弟子で、恋仲とも言われた。贅沢な暮らしぶりから、男どもが相当な金をつぎこんでいるに違いない。それでも、谷村は処女のようなものと想像している。いくら現実主義者でも、媚態に惹かれた途端に幻想家となる。これが男の悲しい性よ。貞淑高潔な女体と信じるのは勝手や。でも結局、谷村は信子の肉体を貪る。
「人は誰しも孤独だけれども、肉体の場に於て、女は必ずしも孤独ではない。女体の秘密は、孤立を拒否しているものだ。孤立せざるものに天来の犯罪などは有り得ない。」

9. 戦争と一人の女 (無削除版)
戦争中、野村は女と同棲していた。最初から内縁の約束で。戦争で負ければ、どうせ全てが滅茶苦茶になる。二人は家庭的な愛情などに期待していない。女は酒場の妾、淫奔で気に入った客とすぐに関係を持つ。取柄といえば、金にがめつくないこと。女は戦争を愛していた。食料や遊び場の欠乏では呪っていたが、爆撃はむしろ歓迎していた。平凡や退屈に満足できない気質。防空壕では震えながらも恐怖に満足し、お陰で浮気をしなくなる。浮気虫の正体は、退屈虫であったか。まさに空襲国家の女!
野村は戦争が続くのを願う。唯一生きたいという希望をつなげるかのように。終戦のラジオ放送が流れると、なぜか寂しい。敗戦の悔しさなんかではない。苦しみから逃れられるという安堵感でもない。女に未練などないはず。なのに、いざ別れとなると躊躇する。野村は女体を貪りながら呟く。
「戦争なんて、オモチャじゃないか...どの人間だって、戦争をオモチャにしていたのさ...もっと戦争をしゃぶってやればよかったな。もっとへとへとになるまで戦争にからみついてやればよかったな。血へどを吐いて、くたばってもよかったんだ。...すると、もう、戦争は、可愛いい小さな肢体になっていた。」
尚、「無削除版」とは、GHQ検閲前を意味する。そして、これが削除されたラストの台詞である。

10. 続戦争と一人の女
続編は女の立場からの描写。60ぐらいのカマキリ親爺とデブ親爺。この二人と野村と女でよく博打をやった。四人とも戦争は負けると信じていたが、カマキリ親爺は喜んでいる。大勢の男が死ねば、女が群がってくると。空襲での二人の親爺の恐怖ぶりは酷く、生命の露骨な執着に溢れている。そのくせ他人の死となると好奇心旺盛で、空襲のたびに見物に行く。
ところで、男が本当に女に迷いだすのは四十ぐらいからだという。精神など考えずに肉体に迷うのだそうな。女の気質も知り抜き、女のしぐさに憎しみを持ち、肉欲に執着する。だから、覚めることもないと。
女郎だった女は結婚願望をとうに捨てている。それでも野村をだんだん好きになる。野村も女房にしてもいいと思いはじめる。野村は、空襲のたびに伏せろ!と叫ぶ。砂をかぶって伏せていると、必ず野村が起こしに来てくれる。死んだふりをしていたら、優しく抱き起こす。それがたまらなく快感なのだ。夜の暗さを憎べば、焼夷弾が明かりを灯す。人生の暗さと調和させるように。高射砲の中を泳いでいく銀色に光るB29が美しい。ついでに嫌な性格も、嫌な過去も、燃え尽くしてくれればいいものを。女は、生きることに不安がない。家を焼かれても、野村が死んでも、誰かの妾になればいいのだから。戦争に負ければ、ほとんどの男が殺され、女だけが生き残り、アイノコが生まれ別の国家が誕生すると思っている。国の変わりゆく様を開き直って眺めれば、もはや絶望なのか希望なのかも分からない。戦争が終わると、カマキリ親爺は怒った。ここでやめるとは何事だ!日本中が焼き尽くされるまでやらんかい!こんな中途半端なら、東京が焼ける前に止めんかい!
「私はどうして人間が戦争をにくみ、平和を愛さねばならないのだか、疑った。」

11. 桜の森の満開の下
昔々、鈴鹿峠では、桜の森の花の下を通る旅人は必ず気が変になったという。しばらくして山賊が住み始めた。情け容赦なく着物を剥ぎ命を奪う。こんな男でも桜の森の花の下へ来るとやはり狂う。女を攫いまくり、女房は七人になる。
八人目を攫い、その亭主を殺した。だが、いつもと勝手が違う。女が美し過ぎるのだ。女は歩けないからおぶってくれと言う。家に帰り着くと七人の女房の汚さに嫌気がさす。
「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ」
えらい女を拾ったもんだ。男は女の命じるがままに次々と斬殺。ビッコの女が腰を抜かしていると、この女だけは女中にするから助けろと命じる。かくして最も醜い女だけが助けられた。
やがて花の季節が訪れる。我儘女は都に焦がれ、都へ連れて行けと言う。男は造作もないことと都へ行く決心をする。しかし、一つだけ気がかりがあった。今年こそ、桜の森の花の下で、じっと居座ってみせると決心していたのだ。三日後、桜の森は満開になった。そこに一歩踏み入れようとすると、冷たい風が押し寄せ、無気味な感覚が襲う。四方の轟々という音に、泣き、祈り、もがき、逃げ去った。今年も、桜の森の花の下に居座ることができなかった。
さて、男は女とビッコの女を連れて都に住み始めた。毎晩、女の命じるままに邸宅へ忍び入り、着物や宝石や装身具を盗む。女はそれだけでは満足しない。何よりも欲したのは、その家の住人の首。そして、何十もの邸宅の首が集められた。女は毎日首遊びをする。お人形ごっこのように、それぞれの首に役柄を与えながら、カラカラ笑う。もっと太った憎らしい首が欲しい!白拍子の首を持ってきておくれ!などと種類まで要求する始末。男は都を嫌った。そして、退屈に苛む。山から眺める無限の明暗を思い出そうとするが、都の明るさに思い出せない。これまで女が生き甲斐できた。その女を殺すとどうなるだろうか?俺自身も殺してしまうのだろうか?
ある日、山へ帰ることを決心する。女はお前と一緒でないと生きられないから一緒に山へ行くと涙する。女を背負い、桜の森の下を通りかかると、ちょうど満開であった。男は、幸福を噛み締め、花の下を恐れていない。だが、一歩踏み入れると、突然冷たい風が押し寄せ、女の手が冷たくなる。背負っていたのは全身が紫色をした老婆だった。男は振り落とそうとしたが、鬼の手が喉にくいこみ、だんだん意識が薄れていく。必死になっているうちに、今度は鬼の首を絞めていた。鬼は息絶えた。しかし、そこにある屍体は女であった。男は泣き崩れる。ちょうど白い花びらが散り積もる。かくして男は桜の森の花の下にいつまでも居座ることができたのだった。
「桜の森の満開の下の秘密は誰にも分かりません。あるいは孤独というものであったのかもしれません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。」

12. 青鬼の褌を洗う女
母は戦争で焼け死んだ。母は妾で旦那の他に数人の男がいた。処女が高く売れる時代、娘は商品として見られた。娘は、窮屈な女房にはなれない、年寄りの妾が相応しいと言い聞かされてきた。そんな母に似てきた自分が気味悪い。娘は遊び好きで貧乏が大嫌い。妾が嫌というわけではない。束縛されず贅沢をさせてくれるなら、80の老人でもOK。女房となると別の人種で、これほど愚痴っぽく我利我利な人間はいないと思っている。男に従属なんて堪えられない。おまけに、夫が戦争にとられるなんて惨めは御免だ。ただ、肉欲を求めるだけでは、精神的に何かが低いと思っている。
空襲で一面焼け野原になると、新聞やラジオは祖国の危機を叫び、巷では日本滅亡が囁かれる。祖国だの、民族だの、という言葉は虚しいばかりで始末が悪い。だが、娘には自分の存在を信じることができるので困った様子がない。あるがままに受け入れ、誰にでも愛嬌よく笑う。娘は、久須美という56歳の専務から家を持たせてもらう。醜男だが気にならない。娘の本性を見抜いていて、浮気をするなら分からないようにしてくれ!と言うぐらい。娘は、久須美の愛撫のテクに、今まで知らなかった媚態を与えてくれたことを感謝している。天性のオメカケ性か。
ところで、愛する女が浮気をするのは、男にとって地獄であろうか?女にもリスクがある。若さは永遠ではない。より可愛い女が出現すれば捨てられるだろう。男と女のどちらが主導権を握り、どちらが残酷なのかは分からん。ただ、どちらも何かを恐れているのだろう。
「私は野たれ死をするだろうと考える。まぬかれがたい宿命のように考える。私は戦災のあとの国民学校の避難所風景を考え、あんな風な汚ならしい赤鬼青鬼のゴチャゴチャしたなかで野たれ死ぬなら、あれが死に場所というのなら、私はあそこでいつか野たれ死をしてもいい。私がムシロにくるまって死にかけているとき青鬼赤鬼が夜這いにきて鬼にだかれて死ぬかも知れない。私はしかし、人の誰もいないところ、曠野、くらやみの焼跡みたいなところ、人ッ子一人いない深夜に細々と死ぬのだったら、いったいどうしたらいいだろうか、私はとてもその寂寥には堪えられないのだ。私は青鬼赤鬼とでも一緒にいたい、どんな時にでも鬼でも化け物でも男でさえあれば誰でも私は勢いっぱい媚びて、そして私は媚びながら死にたい。」
鬼とは妾を囲う男ども。そして、鬼のフンドシを洗濯するとは、男を選択することか?それとも資金洗浄のことか?

13. アンゴウ
矢島は、古本屋で戦死した旧友の神尾の蔵書を見つけ、その懐かしさに買う。頁の間から、矢島と神尾が勤めていた出版社の用箋が現れた。紙面には数字だけが羅列されている。その組み合わせから項数と行数を追っていくと、ある語をなしている。
「いつもの処にいます七月五日午後三時」
矢島の出征は昭和19年3月で、神尾の出征は昭和20年2月。この七月五日は昭和19年に違いない。この本を蔵したのは、矢島の留守宅だけ。そこにこの用箋があったとなると、神尾と自分の妻の関係を疑う。矢島が復員すると、妻タカ子は失明していた。二人の子供は消息不明、おそらく焼死。タカ子が書いた暗号という証拠もなければ、神尾も戦死したのだから、いまさら過去をほじくることもない。戦争そのものが悪夢だったと言い聞けせ、買った本を片隅へ押し込んでも、その心労がかえって重荷になる。出征前の新婚生活では、タカ子は必ず矢島の左側に寄り添っていた。座っていても、寝室でも。だが、復員後は左に寄ったり右に寄ったりする。そして、恐ろしいことに気づく。神尾は左ギッチョだった。
ある日、矢島は出張で仙台へ行くことに。仙台には神尾夫人が疎開しているので、本を持参する。矢島は、神尾の蔵書のことを明かすと、この本は神尾夫人がこちらに持って来たという。確かに夫人が持っていたが、神尾の蔵書印がなかった。所々に朱線を引いた後があり、それは矢島の本であることが分かる。本を取り違えたのは、矢島自身であったことを思い出す。となると、ますますわけが分からない。今度は、タカ子に蔵書のことを明かす。タカ子は売るはずがないし、貸した覚えもないという。嘘を平然と語る時、目こそ表情の中心となるが、あいにくタカ子は失明した。更に、古本屋で蔵書の売り手を聞くと、焼け残ったものが盗まれたのだろうという。秘密の主役たちは、命を失い、目を失ったというのに、秘密の鍵だけが焼かれずに残り、秘密にされるべく自分の手にある。戦争という悪魔は、中途半端に傷痕を残しやがる。
そこに、かつての蔵書の所有者から電話があった。お宅が所蔵していたどの本にも、数字が並んだ紙が挟んであったという。暗号は、死んだ二人の子供が交わした手紙であった。子犬のこと、秘密の場所など、兄と妹は暗号で遊んでいた。これを妻の浮気と勘違いするとは。子供たちは天国で遊んでいるのだろう。それを父に話しかけたかったのだろう。矢島はそう信じた。
暗号が父親の元に戻ることを、悪魔の仕業ではなく、神の仕業で締めくくるとは...ちなみに、七北数人氏によると、この題名は「安吾」「暗号」「暗合」のトリプルミーニングになっているという。

14. 夜長姫と耳男
親方は飛騨随一の名人と言われた匠。夜長に招かれたのは、その親方が老病で死期の近づいた頃。まだ二十の若者だが、親方は身代わりに推薦した。確かに彼が彫れば寺や仏像に命が宿る。これが耳男。なるほど、大きな耳だ。そして、夜長姫のもとへ連れられる。姫は十三、その身体は生まれながらに光り輝き、黄金の香りがすると言われる。姫は大耳を見て、まるで馬顔だと笑った。耳男は耳のことを言われた時ほど逆上することはない。
長者は、姫が十六になるまでに、今生後生を守りたもう仏像を刻んでもらいたいと申し付ける。そして、姫の気に入った御仏を造った者には美しい娘を進ぜようと、機織りの奴隷娘エナコを紹介する。耳男が嘲けた眼でエナコを見ると、エナコは怒り、懐刀で耳男の耳を削ぎ落とした。
それから六日が過ぎた。耳男は籠って仕事をするために、一面雑草が生え繁り、蛇や蜘蛛がわんさといる場所に小屋を建てた。そこに使者が訪れ、斧だけを持って館へ来いという命令を伝えた。長者の館にはエナコが後ろ手に戒められていた。長者は言う。当家の女奴隷が耳男の片耳を削ぎ落したとなれば、飛騨の一同に申し訳がたたない。エナコを死罪に処すと。耳を削ぎ落とされた張本人に斧で首を打たせると。耳男は、虫ケラ同然の機織り女に、はなもひっかけやしねえや!と喚いた。すると、姫が笑顔で問いかける。エナコに耳を斬り落とされても、虫ケラに噛まれたようだって?ならばエナコよ!耳男のもう片方の耳も噛んでおやり!腹が立たないそうよ!姫は懐刀をエナコに差し出した。まさか命を助けたお返しに耳を斬り落とされるとは。可憐な姫は無邪気に悪戯を楽しむ。澄み切った目に、虫も殺さぬ笑顔。
ここから姫の微笑との戦いが始まる。蛇を天井から吊るし、その生き血を飲み、蛇の怨霊に乗り移りながらモノノケ像を彫る。天井いっぱいになった蛇の死骸にウジがたかり、悪臭がたちこめる。吊るした蛇がいっせいに襲いかかってくる幻を見ながらの仕事。こうでもしないと姫の透き通った笑顔と対抗できないのだ。
三年後、像を納めた後、小屋に姫が訪れる。三年のうちに姫は見違えるほどの大人の女になっていた。無数の蛇の死骸に目を輝かし耳男の造った弥勒に満足していた。着物を与え、褒美をやるからそれを着ておいで!と。姫が気に入った像を造った者にエナコを与える約束であったが、今ではそれができない。エナコは耳を斬り落とした懐刀で喉を斬って死んでいた。その血に染まった着物を男物に仕立て直した物が、今着ている物。耳男はこの姫にいずれ殺されると思った。ただ、今生の思い出に、この笑顔を刻み残してから殺されたいと願う。
その頃、山奥にまで疱瘡が流行り、死者が多く出た。家ごとに厄除けの護符を張り、白昼も戸を閉め、日夜神仏を祈る。一方、姫の館では雨戸を閉めさせない。耳男の造った化け物像が魔除けになるとして、門の外に飾った。姫は、蛇の生き血で呪いをかけたことまで知り抜いていた。毎日、死人がでる様子を姫は笑う。いまや耳男は、姫の笑顔を弥勒の像に写すことを生き甲斐にしている。はたして魔神を超越した笑顔など造れるのか?やがて耳男は悟る。すべての悪の根源は姫の微笑にあったことを。姫が生きていては、ちゃちな人間世界はもたないことを。ついにキリで姫の胸を刺した。だが、姫の笑顔が絶えることはない。そして、最期の台詞を吐いて微笑みながら死んでいく。
「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして...」

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