2013-01-13

民主主義の象徴ども

民主主義の象徴とされる選挙や代議制、デモや対話。これらは、本当に民主主義と相性がいいのだろうか?政治がまともに機能するならば、どんな形でも構わない。君主制だろうが、貴族制だろうが、民主制だろうが...
アリストテレスは、最善なのは君主制で最悪なのは民主制であるとした。ただし、僭主は君主の逸脱形態としながら。だが、歴史を紐解けば、君主と称した人物は例外なく僭主であった。貴族によるパワーバランスを試みたところで、官僚化は防げず、様々な癒着が生じた。そして今、民主制が最後の砦とされる。ただ、誰よりも学問に励み、それを自認した者が民衆を導こうとする構図は、ソフィストの時代から何ら変わっていない。学問とは、本来真理の探求であるはずだが、古代から民衆を扇動する方法論を学ぶことがもてはやされてきた。
一方、プラトンは、愛智者を無知を自覚する者とした。また、社会人類学者レヴィ=ストロースは、原住民の生態系の研究から首長の存在意義に疑問を投げかけた。「首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる。」と。
近代では、政治の存在意義までも疑問視される。政治とは、真理と相性が悪いものなのか?人間とは、誰よりも優位な立場に居たいというだけの存在でしかないということか?政治とは、その欲望を体現する場でしかないということか?そうかもしれん。結局のところ、国家の形態とは、社会形態の試行実験に過ぎない。政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が敵国をでっち上げ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。いずれも自己存在を必要以上に強調し、価値観を押し売りした結果であろう。思惑が思惑を呼び、虚実の理からますます遠ざかり、いまや、国家の枠組みを超えた領域でリスク管理が求められる。これがグローバリズムというやつか?リスク社会における政治の安定は、問題を直視しないことによって成り立つとさえ言える。
経済学者シュンペーターは、資本主義はその成功によって崩壊すると語った。21世紀は、民主主義の成功と、それを崇める人々によって、最後の砦までも崩壊させるのであろうか?
しかし、そう悲観することもあるまい。いつの時代でも人間は幻想を描くことを得意としてきた。その証拠に、仮想化へ邁進する様相は一向に衰えを見せない。これが希望とやらの正体かは知らんが...

1. 選挙と占拠
国家は誰のものか?ずっと昔から、政治を民衆の手に取り戻せ!と叫ばれてきた。では、国家は民衆のものなのか?それも疑わしい。国民は気移りが激しく、意思決定に一貫性を見出すことは難しい。おまけに、報道屋が世論を偏重させる。そして、一部のエリートの面子と名誉欲によって決定されるならば、国家は誰のものでもない!とする方がよかろう。人間社会では、所有の概念が絡むと、何かと奇妙なことが起こるようである。
責任の観点から眺めると、君主制は君主に責任があり、貴族制は代表者である貴族に責任があることは疑いようがない。そして、民主制は民衆に責任があるということになる。ただ、責任のないところに権利は生じないはず。政府を監視する役割に司法や議会があるが、いまや三権分立が機能していると考える人は少数派であろう。そこで、情報の透明性と国民の意識が鍵となる。
国民の意思は投票を通して反映されるのだから、選挙は民主主義の象徴と崇めている人が多数派であろう。実際、政治家は、多数決こそが民主主義だと発言し、チルドレン戦略に余念がない。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりになって同調している状態ほど、都合の良いものはない。陶酔することのみを奨励すれば、アル中ハイマー病患者は絶好の餌食となる。
しかし、選挙は民主主義の産物ではない。代議制は貴族制の時代からあり、君主制でさえ後継者選びが実施された。
政治屋どもは、国民のため!国益のため!と連呼する。確かに、後援会や政治団体の構成員も国民だし、なによりも政治家自身が国民である。そして、政治屋の利益供与に一部の国民がたかり、それを票田とする構図は変わりそうもない。選挙制度が偏重していれば、政治も偏重するだろう。選挙が民主主義の根幹だと言うのなら、その用い方は慎重に検討すべきものであるはず。なのに、政党間の主張は盛んでも、選挙制度の正当性に関する議論がなされないのはどういうわけか?国家元首を国民が直接選べないことが、民主主義を機能させないという意見も耳にする。それも一理あるだろう。もし、国民投票によって首相が選ばれる制度下では絶対にありえない人が、現実に首相になっているとしたら、それは民主国家と言えるだろうか?ちっぽけな選挙区で地元と癒着した者ほど、支持母体を強固なものとし、当選を繰り返す。当選回数の多い者が政党内で発言力を増し、主要ポストに就く。首相は一部の国民によって選ばれているようなものか。意思を放棄した者をいかに集めるか、これに政治屋は執着する。よって、選挙とは、一部の国民どもが占拠した状態を言う。

2. ディベートなき民主主義
昨年、米大統領選の前哨戦として、数回に渡ってディベートが行われた。四年に一度、マスコミ、識者、政治家、聴衆が一体感を持ち、国の行く末を託す人物は誰か?を議論する様は、民主主義国家としての成熟度の違いを見せる。CNNなどの分析を見ても、数の勢力図報道を繰り返す連中とは次元が違うようだ。ちょうどその頃、我が国では、首相降ろしや政治スキャンダルの報道で盛り上がっていたのだから。
しかしながら、ディベートにも欠点がある。洗脳と結びついてきた歴史があり、なによりもカネと手間がかかる。選挙戦が一年以上も続けば、大陸横断鉄道が開通した西部開拓時代を思わせ、情報化社会ではいかにも長く感じる。しかも、任期の残りはほぼ政治が停滞することになる。今回の特徴では、ヒスパニック系や黒人系の票で明暗を分け人種対立を一層強く印象づけた、と報じられた。民主党は、社会的弱者の支持層が強いだけに歳出削減が難しく、また、下院は共和党が過半数を占めたままで、相変わらず意思決定が難しい状況にある。そして、大統領選以後しばらく市場は停滞感を見せた。最多得票数を得た候補者が、その州の選挙人票をすべて獲得できる選挙人団という制度にも問題がありそうだ。民主主義先進国にしてこれだから、我が国の選挙制度も老朽化していると見るべきであろう。
一方、日本にも党首討論会があるにはある。だが、なぜか機能しない。論理的に説得しようとする意識が薄いために、誰が政権を握るかばかりに注目が集まる。日本の文化では、質問すると挑戦的で不快感を与えるという意識が働く。だから、説明責任という慣習が根付かないのだろうか?
欧米人の印象として、子供のようになんでも Why? と聞いてくるので、鬱陶しいところがある。対して、日本人は、How? を好む傾向があるように映る。知識を論理的に組み立てるというより、知識は教えてもらうものという意識が強いのかもしれない。教育の弊害であろうか。思考を省略したいから、ハツツウものに飛びつくのかもしれない。質問力というものは、論理性から組み立てられるところがある。価値観の多様性を認めるならば、共通意識は論理性に求める方が良さそうである。論理に完璧さは求められないにせよ、感情を補完する道具にはなるはずだ。増税にしても論理的に説明すれば納得できると思うが、日本国民はそれすらできないと馬鹿にされているのか?国民から反感を買いそうな重要法案を通す時、政治生命をかけるという主張が理解できない。正しいと思うなら、その根拠を示せばいいだけのことではないのか?納得できずに財政破綻するならば、それは国民が選んだ道となるだけのこと。だが、国債発行額の見通しで論理的に説明した例は見たことがない。無党派層を説得するには論理的に説明するしかないだろう。政治屋どもはそれすら気づかないのか?いや、地元の選挙民に働きかけた方が確実だということを、彼らは熟知している。つまり、我が国の選挙制度は、老朽化以前に民主主義とは程遠いシステムだということかもしれん。

3. デモと集団性の悪魔
選挙の実態を見れば、政党政治に失望する人も少なくないだろう。では、デモは政治参加の新たな手段となりうるだろうか?そして、選挙しか頭になく、ひたすら数合わせに奔走する政治屋どもを排除することができるだろうか?
かつて、学生運動や社会運動に参加しなければ、愛国心が足らないと言われた時代があった。愛国心を煽るあまり奇妙な使命感に憑かれ、自己を見失い暴徒化する。脱原発機運が高まる今日、少しでも原発は必要だと発言すれば非国民のような言われよう。太平洋戦争時代にも、講和を主張すれば非国民と罵られた。デモの参加者たちは、地方役場の一郭を占拠したり、傍聴席からヤジを飛ばし議会を中断させたりと、とても子供には見せられない醜態を見せる。おまけに、都心から有名人までも乗り込んできて役場を占拠する。確かに、原発推進派がその隠蔽体質から強引に政策を進めてきた。事故後の炉心溶融を関係者が語れず、大手マスコミも知りながらメルトダウンという言葉を使わない。軍部の暴走に大本営式報道の時代と、何が違うのか?だからといって、脱原発派が彼らと同じレベルで活動すれば、却って説得力を失う。それに、代替案が火力発電のフル稼働でいいのか?ちょっと前まで叫ばれていた環境問題はどこへいった?原発廃棄物の処理は?新エネルギーの開発にしても、軌道に乗るまでにはまだまだ時間がかかるだろう。ここでは、エネルギー政策はリスク分散に目を向ける必要があるとだけ言っておこう。
さて、デモが暴徒化するのであれば、それは民主主義の危機と見るべきかもしれない。ところが最近、都市部の市民運動は多少なりと変化を見せていると聞く。主催者は、参加者の安全に配慮したり、運動後のゴミ処理を活動の一環としたりと、紳士的な振る舞いが目立つとか。しかも、若年層だけでなく、老若男女、障害者や外国人までも集まってくるという。なるほど、かつての労働運動や学生運動などとは違うようだ。ガンジー思想の非暴力抵抗が開花しつつあるのだろうか?いまや、優れた見識はネット上に溢れ、有識者どもに誘導される時代でもあるまい。デモが論理的な活動となれば、共感する人も増えるだろう。情報の共有は、昔よりもはるかにやりやすい。
とはいえ、ネット上の炎上騒ぎは相変わらず、いじめでは被害者側が退場させられる始末。徹底的に叩くという歪んだ正義感が、ストレス解消の場とされる。まるで娯楽感覚、戦争と同じくらい狂った社会。大概の組織や集団というやつは、結束当初は素晴らしい志を共有して結びつくものである。少数精鋭による自由意思の結集として。ネット社会でも、少数派として結びつく段階がある。しかし、集団の規模が大きくなるにつれ、時間が経つにつれ、思考が硬直化していき、過激な不心得者が紛れ込んでくる。集団の構成員は、信仰化していることにも気づかない。あらゆる選挙運動や社会運動は、この呪縛に嵌っていく。これが官僚化の法則だ。
最近の市民運動が、新たな民主主義の兆候となるのかは分からない。ただ、いつの時代でも、社会は新たな風潮に過大な期待をかけてきた。集団性の悪魔ってやつは、人間社会の本質であることを、心に留めておいた方がよさそうである。

4. 対話から政治不要説?いや、政治家不要説!
あらゆる社会問題は対話で解決できると主張する有識者や有徳者たちがいる。だが、それも疑わしい。所詮、人間は感情の動物、どんなに意見が一致しようとも、相手に対して好き嫌いが生じる。対話という語は、平和的でなんとなく癒してくれる。だが、だいたい癒し系の言葉には、危険性が潜んでいるとしたものである。
対話を機能させるためには必要条件がある。哲学的な共通観念、互いに近づきたいという共通意識、そして、論理的な指針など。その前提がなければ、対話はむしろ敵対心を煽ることになろう。文化や教義を強制すれば反発心が生じる。猛烈な愛によって結ばれた時でさえ離婚争議は絶えない。神の前で誓っても、都合良く無神論者に鞍替えよ。互いに触れられたくない事柄もある。欠点をつつき合えば、憎悪しか生じない。そして、顔を合わせないことによってのみ、互いの存在を認め合うことになる。互いの存在ですら認められないとなれば、血を見ることになる。結婚(けっこん)と血痕(けっこん)が同じ音律なのは、偶然ではないらしい。運命の糸が血の色というのも道理か...
これが国家間であれば戦争となる。過去の平和主義者を自称する政治家たちがそうであった。歴史を振り返れば、偏重した愛国心教育が国民性を暴走させてきた。外交戦略のない政府は、面子ばかりの主張を繰り返す。人間ってやつは、老いていくと、存在感が薄れるのを感じ、さもしくなるものらしい。おまけに、冷静さを失えば、悲劇は現実のものとなる。政治の戦略のなさに官僚の発想力のなさが加われば、ますます閉塞感を募らせ、国民は偏重したナショナリズムでエネルギーを発散させることになろう。
しかーし、そんな悲観的な状況にあっても、対話に限界があることを認識した上での対話ならば、功を奏すかもしれない。関係を持つということは、距離を計ることを意味する。近づきすぎず、遠ざかり過ぎず。いまや一国だけで成り立たない時代、自然に経済交流や文化交流が生じる。だが、国家が余計な口出しをした途端に混乱させる。国家の存在意義とは何か?本来、主権と基本的人権を保障することにあるはず。つまり、存在の権利だ。換言すれば、それ以上の権利を保障する必要はない。しかし、基本的な権利を差し置いて、余計な権利に凝り固まった平等主義が蔓延る。
無政府状態と言えば、社会秩序が保たれていない状態をイメージしがちだが、政治不要説は古くからあった。おまけに、そういう風潮が広まるほど、政治屋どもは自分の存在アピールに躍起になり、癒し系政策で大盤振舞!そして、政治不要説は新たな局面に達し、政治家不要説となるのであった。

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