2013-01-27

コモディティ化の奴隷

あらゆる業界において、企業がユーザの囲い込みに躍起になり、誇大広告が氾濫するのも、ますますサバイバルの様相を強めている証しであろう。囲い込み経済は、ロビンソン物語から受け継がれる資本主義の象徴的手法というわけか。しかし、利便性の誘惑に惹かれ、均一化、あるいは均質化された環境に依存することが、合理的と言えるのだろうか?おまけに、一つの統合環境に依存すれば、リスクを拡大させる。いつサイトやサービスが閉鎖され、一瞬のうちに大企業が消えても不思議ではない時代、それどころか産業ごと頓死することもありうる。利便性はそのままリスクとなることを覚悟しておくべきであろう。ネット障害や機械の故障などのリスクはどこにでも転がっており、安全性なんてものは確率論で語られているに過ぎない。
人間には、実体のないものを恐れる習性がある。だが、利便性を追求した挙句、無理やりにでも仮想化を煽らないと経済循環が成り立たないところまできている。その象徴といえば、貨幣であろう。人々は、いつ紙くずになるか分からないものを、底なしに集めようとする。電子化してまで。そして、情報が溢れれば、多数派を拠り所にする傾向をますます強める。だが、それで安住できるかなど誰にも分からない。実体が見えないだけに不安でしょうがない。やがて真の価値が明るみになった時、初めてリスクの大きさに気づき、危機が現実なものとなる。群衆エネルギーは、そのままリスクエネルギーとして増幅されるわけだ。ちなみに、クラウド化とは、データが雲のように一瞬のうちに消えてしまう状況を言うらしい。たとえそうだとしても、依存できるものがあるということが、どれだけ幸せでいられよう...

1. コモディティ化
現代社会では、豊富過ぎるほどの情報があり、生活様式が多様化していく。にもかかわらず、あらゆる製品やサービスが、コモディティ化していくのはどういうわけか?機能や品質の差が不明瞭となり、ますます差別化が難しくなる。情報共有の場が多数派を煽り、要求を集中させるのか?ソフトウェア業界は、相変わらず強烈な不具合の発生を当たり前としているようだし、オンライン化、電子書籍、ITインフラにしても、差別化で喘いでいるように映る。となると、どこで競争するのか?
サービスの移転にはリスクをともなうが、単なる代替ならば、それほどリスクを負うこともない。コモディティ化とは、リスク分散という人間の防衛本能から生じる現象なのだろうか?あるいは、マンマシンインターフェースとして成熟しつつあるということであろうか?選択肢を失うことが、人間の思考を麻痺させるという見方もできそうだが。いずれにせよ、ユーザがサービスの奴隷であることに変わりはない。
ただ、これだけコモディティ化が進むと、公共料金の原理が働きそうだ。様々なブラウザが乱立する中、使い勝手の面から目くじらを立てるほとの違いを感じない。OSにしても、LinuxとWindowsは限りなく近づいているように映る。品質の面でも近づいているような...
相変わらず、技術の模倣合戦や特許紛争が盛んだが、いまや真の開発元がどこにあるのかも分からない。設計者自身が模倣しているかどうかすら気づいていない。そして、権利の主張だけが発達していく。これが民主主義の成熟した姿というわけか...

2. 文明と依存性
昔々、狩猟物の恵みや農作物の実り具合で、裕福さを測る時代があった。生活はひたすら獲物や天候との出会いに依存し、まさに自然は神の存在であった。だが、人類は安定性に焦がれるが故に、思うようにならない自然の仕打ちに苛立ってきた。文明社会とは、肝心な時にいつもお留守をなさる神への依存性を弱めようと努力してきた結果である。
やがて所有の概念が生まれると、地主と小作人で種別された。地主は小作人の労働力に依存し、小作人は土地に依存する。そこで、農作物や土地にも依存しないものを求めるうちに、交換の原理が生じた。そして今、あらゆる価値が貨幣換算される。土地や労働力ばかりでなく、人の命まで。貨幣の力はますます増大し、人は皆キャッシュに依存しなければ生きられなくなった。いまや経済活動はキャッシュフロー抜きには語れない。そして、金融屋があらゆる取引に介入し、経済循環の根本を牛耳る。心臓の弁をちょいと支配するだけで、人体のすべてを征服できるという寸法よ。むかーしから、毟り取る仕組みをこしらえるのが得意な連中がいる。だが、いくらキャッシュが主役になろうとも、それ自体から何も生産することはできない。
さて、依存性の観点からすると、現代人と古代人では、どちらが自立しているのだろうか?人口が自然抑制された時代では、子供がそのまま労働力とされ、学校なんか行かずに働け!と説教された。高い税率を抜きにすれば、自分で作った農作物で家族を養うことができた。政治がお邪魔虫という議論は、ここではやめておくとして。だが、自立するためには知識が必要であり、洗脳性の強い社会でもあった。
一方、現代社会では、ほとんどの人が企業や役所からもらう給与で生活する。経営陣ですらサラリーマン社長で溢れている。そして、企業が潰れたら家族は路頭に迷うことになる。依存性を高めれば、自立性を失うことにもなろう。文明社会は、自立性を失わせようとしているのか?仮想化とは、自立性を欺瞞するための道具なのか?仮想化が利便性を煽り、利便性が犯罪を巧妙化させる。人類は、人工物への依存性を高めることによって自滅するのか?自然に依存するのと人工物に依存するのとでは、どちらがまともなのか?俗世間の酔っ払いには、とんと分からん。
アリストテレスは「生まれつき奴隷」とやらを提唱した。自分で思考するのが面倒であれば、主人に従う方が楽であろう。自立性を放棄することが幸せと信じることもできそうか。なるほど、幸せが幻想というのは、本当なのかもしれん...

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