2013-01-20

グローバル人という不思議な人種

グローバリズムが広まると、ナショナリズムが盛り上がるという奇妙な現象がある。それは、グローバリズムの流れに乗り遅れた人々の妬みからくるのだろうか?あるいは、帰属意識や自己存在の確認、アイデンティティの再確認といった意識からくるのだろうか?結局、人は皆、国家に縋って生きるしかないということであろうか?
人間社会には、生まれたら強制的にどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人は、生まれる地や生まれる国を自由に選べない。生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人はまず不自由を体験することになる。だから自由への憧れが強いのか?だから枠組みへの反発を強めるのか?世界には様々な枠組みが溢れている。国の枠組み、民族の枠組み、文化の枠組み、言語の枠組み、組織の枠組み...
だが、そんな枠組みを物ともしない人々がいる。グローバル人とは、自然に自由を謳歌できるような人を言うのであろうか。

一方で、愛国心が足らないと憤慨する人々がいる。そして、海外で活躍するスポーツ選手、芸術家、科学者たちが、理不尽な批判に曝される。だが、彼らが純粋に能力を発揮するだけで、どれだけ民衆を励ましていることか。中には、政治の思惑に乗せられて招待される人もいるようだけど。
環境が違うだけで思うように能力を発揮することが難しいというのに、彼らはどこででも仕事ができる。度胸が座っているのは、才能の裏付けがあるからか?しかも、外国語が流暢でない人も珍しくない。言語は便利なツールだが、コミュニケーションの本質ではないということであろうか。彼らには、人物や文化をステレオタイプに嵌めるような感覚はないようだ。分野に関係なく何かを極めようとすれば、国や言葉の隔たりなんて関係ないのかもしれない。その意味で、彼らを真理を探求する人とでもしておこうか。
枠組みにこだわらないことが、視野を広げ、様々な思考を試す機会を得ることになる。こだわりがあるとすれば、生き方というやつであろうか。依存性を低くし自立性を高めるという意味では、リスクを分散させるという見方もできるかもしれない。経済力や政治力の勢いばかりに目を奪われ、特定の国に依存しようとする動きこそ、リスクを高めることになろう。国境なき記者団、国境なき医師団、非政府組織といったものが、どれだけ社会のリスクを分散していることか。そうした広範な活動をしている人々にだって愛国心はあるだろう。誰にでも、地元愛、郷土愛、家族愛なんてものが自然に発するものであろう。出身地や出身校が同じというだけで共感したりする。大震災時の結束力を見れば、愛国心のない国民とは言えないはずだ。なのに、愛国心を煽る連中ときたら、奇妙な信仰に憑かれているかのように、団結心を煽って暴徒化し、寄ってたかって他国の国旗を焼くことを象徴とし、自ら国家の危機を脅かす。わざわざ愛国心教育なんてやれば、団結するために無理やり敵国をでっちあげるのがオチよ。愛ほど暴走しやすい。盲目と言われる所以だ。
グローバリズムと愛国心は対立的な立場として捉えがちだが、どちらも生きるのに必死であることに変わりはない。どちらも自分の居場所を求めるための精神活動であり、防衛本能が働いているだけのことであろう。その違いといえば、多様化を認めるか認めないか、ぐらいなものであろうか。ちっぽけな違いで結果が随分と違うことはよくある。したがって、グローバル人とは、真理とリスクの観点から、あらゆる枠組みを物ともしない人ということにしておこうか。さて、どれだけ文化や発言の違いに寛容でいられるだろうか?いくら想像してみたところで、俗世間の酔っ払いには生涯到達し得ない領域であることは間違いない。

1. Broken English のすゝめ
世界人口における公用語の分布を眺めれば、英語という一つの言語にこだわる時点で、グローバル人とは縁が遠いのかもしれない。だが、企業では英語を公用語にする動きが見られる。その結果、英語力を優先した雇用に走り、技術力が疎かになったエンジニア会社も珍しくない。そして、英語屋は伝言係となる。言語的な翻訳よりも、文化的な翻訳の方がはるかに貴重であるはず。それは経験に裏付けられるものである。科学力や技術力を差し置いてまで英語に走ることもあるまい。ついでに、数学も言語の一種であることを付け加えておこう。
技術屋さんの議論では、日常英語があまり通用しない。重要なやりとりは文書ベースになりがちで手間がかかる。だから、俗世間の酔っ払いは、流暢に喋りたいと思う。それでも、軌道に乗り始めると、相手も片言日本語を喋り、互いの片言言語の応酬は、なかなか楽しい。向上心とは、恥をかくことと見つけたり!
実際、ポンコツ英語を自負する企業家たちがいる。長く付き合うなら、Broken English がお勧めだとか。流暢でも中身がないよりは、はるかに歓迎されると。最初は誤解を招くことも多いが、誤解が解けると逆に信頼が厚くなると。恋愛でもギャップに惚れるというケースがあるが、まさにそれか。しかし、こうした助言は、慰めにしか聞こえんよ...
コミュニケーションの方法を誤れば、流暢な分、却って反感が増幅される。英会話がどんなに上手くても、議論ができなければ意味がない。日本語ですら内容のないことしか話せない人が、英語でいったい何を話すというのか?ネイティブとは、どういうことか?英語圏の方言も多様で、日本人は英語という枠組みで一括りに捉え過ぎる傾向があるようだ。方言や訛りがあるということは、地方文化を知り尽くしているとも言えそうか。日本人は、首都圏に行くと方言を封印しがちである。田舎者と馬鹿にされるのを嫌うからだ。アメリカでも同じ傾向はあるらしいが、あれだけ多種多様な人々が集まると、そんな感覚は簡単に吹っ飛んでしまうらしい。そもそも、アメリカは土地が広く、方言が酷く、ポンコツ英語を喋る人も多いと聞く。
ある外国人から、日本人は言葉を完璧に喋ろうと意識し過ぎると指摘されたことがある。完璧な人間なんていないんだから、間違ったことを喋ってもいいのではないかと。とりあえず、口にすることが大切だと。しかし、欧米人の誰もが主張したがるわけでもあるまい。ダーティハリーがお喋りではしまらない。日本には、空気を読む...無言で通じ合う...といった文化がある。それはそれで感心される。極意を教えろ!と聞かれても知らんがねぇ... とりあえず、やかましい!

2. 文化の壁と自立性
言葉の壁よりも、はるかに手強いものがある。国内企業への転職でさえ、組織文化に馴染めず辞める人はわんさといる。実際、日本企業の人事屋は、優秀な人材がほしいと言いながら、そこを見ている。つまり、服従者になりうるかを。建て前では、外国語能力や異文化を受け入れる感覚、そして自立性といったものが要求される。確かに、自立性を強調するお偉いさんをよく見かける。そういう人は決まって社員の自立性のなさを嘆く。自立性とは、組織への依存度を極力小さくしようとする意思の表れであろう。優秀な人材にはどこか異端的なところがある。革新的なパワーはそういうところに秘めらることが多い。しかし、組織の欠点をよく観察し、ズバリ言い当てるような人材を煙たがり、本音では和を乱す害虫のように見ている。村社会では、自立性は孤立性へと追いやられるわけよ。異文化を受け入れる度量のない組織ほど、自立性などと掲げているように見えるのは気のせいか?そして、自立性のない面接合格者に、君には自立性があるよ!と洗脳しているのかは知らん。
自分の価値観から大きくはみ出した人を避けたいと考えるのも自然であろう。自己存在の防衛本能でもあるから。自立性に富んだ集団は、個性も自然に溢れているから鬱陶しいところがある。だが、こういう連中を相手にすると楽しい。相互に論理的に議論できるならば、想像もつかない世界に生きている連中は、それほど邪魔な存在にならない。周りからは、まったく協調性がない集団のように映るらしいが、実はそうでもない。チームに技術的な問題が発生すると、自主的に結束し、猛然と徹夜を始めたりする。普段は勝手気ままな奴らだけど。論理的に説明すれば、だいたい納得してくれるし、説得できない時は、だいたいこちらの論理性に隙があるから分かりやすい。
一方で、管理職の側が論理性の未熟さを棚に上げて、協調性がないというレッテルを貼るケースが実に多い。したがって、チームに哲学的な共通意識さえ根付いていれば、自立性などというものはあまり心配には及ばないと思っている。やはり仕事は楽しくなくちゃ!共通の価値観とは、これだけよ!

3. 人材流出
日本社会は、技術者に冷たいところがある。リストラで居場所を奪っておきながら、海を渡った人材を一括りに売国奴であるかのように攻撃されることもある。中には、そういう人もいるだろうけど。希望退職を募れば、そりゃ優秀な人から辞めていくさ。ならば逆に、もっと優秀な人材を海外から受け入れればいいのだが、そんな度量もない。人の価値とは、去った時にはじめて気づくものである。そもそも、企業体質がグローバリズムとは程遠いのに、求める人材がグローバルな人とは、これいかに?グローバリズムを手段としてしか見ていない証拠である。ちなみに、おいらも海を渡りたいといつも思っているが、秀でたものが何もない。向こうから渡ってくる人もいるから、それでよしとするか...

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