2013-05-26

"貧乏人の経済学" Abhijit V. Banerjee, Esther Duflo 著

「貧乏な人々を紋切り型の束に還元しようという衝動は、貧困が存在するのと同じくらい昔からあります。」
貧困層に自由を... 人権を... 支援を... 紛争の撲滅を... こうした発想はどれも、それなりに真理を含んでいるのだろう。だが本書は、涙するような悲惨な物語の盛り立て役でしかないと指摘している。政府の支援策がことごとく失敗するのは、本当に何をすべきかを知らないからであろう。有識者たちは、困っている人たちの意見を聞こう!と主張する。しかし、だいたい要求や文句を垂れるのは少し余裕のある人で、本当に苦しんでいる人はそれを口にする機会すら与えられない。プロの開発経済学者や訓練を受けた政策立案者でさえ、貧困生活を単純なモデルに頼っている。そもそも自分以外の人を理解することなど、できるのだろうか?自己ですら理解できないというのに...

自分がいい目にあうと、誰かに喋りたくてしょうがない。そしてつい、同じように振る舞うよう押しつけてしまう。だが、その助言が仇となれば、却って宗教勧誘のごとく有難迷惑となる。価値観に多様性を認めれば、支援という行為も慎重にならざるを得ない。
しかし、だ。支援には、ある程度の強制的、義務的なところも必要であろう。豊かな国の住人こそ、義務教育や福祉制度を半強制的に与えられた受益者である。実際、生活の自由を信じながら、子供の予防接種などが義務化されている。
ただそれは、社会が機能して始めて受益者となりうるのであって、腐敗した社会では制度そのものが歪められる。情報がなく知識も乏しいとなれば、迷信めいたものに頼ろうとする。例えば、多くの子供が下痢で命を落とす状況にあって、塩素漂白剤で飲料水を殺菌するだけでもかなり効果があるというのに、母親たちがそれを信じないで無料配給券をあまり使わないという。水を清潔にし、蚊帳を使うだけでマラリアから子供を守り、駆虫剤や栄養強化小麦粉などでも健康面で大きなメリットがあるのに、そうした安価なものに興味を示さないのだそうな。ちゃんと注射してくれ!高価そうに見える治療を恵んでくれ!というわけだ。そして逆に、不必要な治療がリスクを高める結果に。注射針を殺菌しないまま使い回し、村全体にB型肝炎を感染させる医者がいれば、無資格医師が繁盛する始末。おまけに、教育制度も歪んでいて意識改革も儘ならない。経済的な貧困も問題だが、知識の貧困の方がはるかに問題のようだ。
とはいえ、豊かな国の住人でも、ブランド品というだけで目を奪われ、高額というだけで自慢したりする。いくら生活が豊かになっても、精神は貧困のままというわけか。そして、不必要な情報が社会を混乱させる。金融危機といった現象は、まさにその典型。仮想価値に群がり、一斉に価値を陥れる様子は、まさに迷信に憑かれたごとく。経済的な行動原理に豊かさも貧しさも関係ないのかもしれん。
デフレ不況における若年層の失業問題は、やる気がない!とか、自助努力しろ!とか、そんな意見を言うほとんどの人が、安楽にサラリーマン時代を過ごしたり、バブル期を謳歌して起業した連中である。バブル時代では、学生を集めるために新人教育がハワイ旅行とセットになっている企業があったりと、何かが狂っていた。今は別の意味で狂っている。一昔前、高齢者の医療費免除によって、病院の待合室が老人の井戸端会議の場として占拠されていた。今では、現役の給料をむしりとってまで、企業年金が居座ったまま。経済成長の右肩上がりを十分に味わい、社会制度に守られてきた連中が、今時の若い者は...と説教を垂れたところで説得力を感じない。そして、今時の年寄りは...とつぶやかれるのであった...

さて、著者アビジット・V・バナジーとエスター・デュフロの分析法は、「ランダム化対照試行」と呼ばれるものだそうな。物理学の扱う現象では、条件を揃えて比較検討ができるように配慮する。対して、社会学や経済学の扱う現象は、条件の抽出が不可能なぐらい難しく、絶望的な状況にある。二つの村を比較したところで、民族構成や社会慣習も違い、同じような計測が成り立たない。市場はどこにでもあるが、個人や集団によってそれぞれ市場との距離が微妙に違う。ある地域で驚くべき効果を上げたからといって、その政策を他の地域に適用しても逆効果になることすらある。
そこで、ランダム化対照試行では、個体別に条件を揃えなくてもいいんじゃないか、という発想があるという。理念だけあれこれ議論しても結論は出ないので、実際に試してみるしかあるまい。しかし、実験的に施策を試みることに批判もある。観察目的で地域別に施策を変えるのは不公平といった意見が。いずれにせよ、施策に効果があるかどうかなど誰にも分からない。所詮、人間社会は試行実験の場でしかないということか...

1. 不合理な行動原理
餓死寸前ともなれば、いくらなんでも食べ物が優先されるだろう。だが、貧乏が定着した社会では、たとえ腹ペコであっても、カロリー摂取よりテレビが優先されるという。海外から食糧支援が行われているというのに、民衆はテレビも、パラボラアンテナも、DVDプレーヤーも、携帯電話も持っているとは、これいかに?人生において、退屈とは、飢餓と同じぐらい苦しいものなのかもしれん。
貧乏子沢山というのも不合理に映る。暇だと子づくりぐらいしかやることがないのか?避妊法の知識が乏しいこともある。社会的地位に男女格差があれば、男子が生まれるまで励む。就学や就職に優劣があれば、男子が将来の社会保障制度として機能する。そして、病気に対する治療意識に差が生じ、男女の人口バランスまで歪ませる。インドには「嫁焼き!」というものがあると聞く。ノーベル賞経済学者アマルティア・センは、足りない女性を「喪われた女性たち」と呼んだとか。望まない出産によって生まれた子は、犯罪に走りやすいという見解も聞く。社会秩序という観点からも、避妊法は重要な意味がある。だが、避妊そのものが宗教的にタブーとされる地域も多く、HIV/AIDSの感染率とも関係するデリケートな問題である。
知識が乏しいからといって、教育制度を整えても効果が上がらない。就学率が上がらないのは、学校がないからではなく、子供自身や親が学校に行かせたがらないからだという。家族の露店や店の手伝いをする子供たちは、小学校で教える計算よりもずっと複雑な計算を暗算でやってのける。親たちが、公的な教育効果の質に疑いを持っているばかりか、教育や知識を金儲けの手段ぐらいにしか考えておらず、どうせ学校にやるなら、私立を目指しエリート志向を強める結果となっている。ちなみに、我が国にも昔々、学校に行く暇があるくらいなら、商売の手伝いでもしろ!と説教された時代があった。
また、選挙を実施したところで、誰に投票していいか分からず、選挙の意義も知らない。だから、同じ民族や同じ出身者に投票するだけで、そうした集団行動が既得権益による腐敗を助長する。ただ、このような投票行動は、我が国の後援会選挙と同じに映るのは気のせいか?
ところが、彼らの行動原理も、知識をちょっと与えるだけで、がらりと変化するという。投票行動にしても、民主主義的な知識をちょっと与えるだけで、正反対のインセンティブを働かせることができると。人が愚かな行為をするのは無知にほかならない、という考え方はソクラテス流の教義にある。そして、無知を自覚できる者こそが、賢者というわけだが、インセンティブの働きとは、まさにそれか。人間は不合理な行動がお好き!お金をドブに捨てるような使い方をするのは、どこの国にも見られる。ちなみに、世界人口で2%にも満たない日本人が総額保険料の20%近い保険料を支払っていることに、外国人たちは滑稽に思っているようだ。高額療養費制度まである国で。おまけに長寿大国!そんなにお金が余っているなら、自己投資でもすればいいのに...

2. 奇妙な貯蓄法とインセンティブの働き
途上国では、都心から郊外へ出ると、未完成の家がたくさん見られるという。屋根がなかったり、窓がなかったり、壁が作りかけだったり。それは、貯蓄の手段なのだそうな。手元に現金が余ると、少しずつ家を作っていく。何年もかけて煉瓦100個ずつ建てられる。これが、1日99セントで生活する人々の暮らしで、貧乏だからこそ巧妙な貯蓄法を考えだすという。豊かな国の住人でも、少しづつ増築したり、家具を徐々に増やしたりする。古くから貧乏人は無能で怠惰という見方があるが、貧乏人が貯蓄しないのはお金がないから、という考えはどうも豊かな人の勝手な発想のようだ。
小口の貯蓄口座にしても、銀行側は管理するのに手間がかかる。そこで、インドで人気の「自助グループ」は、コストを下げる方法の一つで、メンバーたちが貯蓄をプールして、引き出しや預け入れを協調して行う仕組みだという。貧乏人にだって、貯蓄が将来の保険として機能することを心得ている。
しかし、肥料に関する行動は腑に落ちない。農民たちは無料で肥料を提供しても使わないという。肥料による年間収益率は、少なく見積もっても7割を超えると推計されていて、効果に対する知識がないわけではないらしい。肥料は少量ずつ買っても使えるので、ごくわずかな貯蓄があれば、活用できる絶好の投資機会となるはず。だが、農民たちは、収穫期から作付けまでの期間に、すっからかんになってしまうそうな。隣人の病気見舞いとか、お客の食事とか、近所付き合いを断りづらいとか...なんだかんだと物入りだとか。そこで、肥料を購入する時期を収穫直後にすると、肥料を使うように誘導できたという。適切な時期に、玄関まで届けてやれば、農民たちは喜んで肥料を買うのだそうな。それは、豊かな国の住人が、モバイル端末のおかげで最も欲求の高ぶるタイミングで物が買える行動原理と似ている。支援とは、こうした行動へのインセンティブを働かせることが重要だという。貧乏だからこそ、余計に自制心が必要なのかもしれない。自家用ジェット機で買い物に行く金融屋が破綻しても公的資金にたかれば済む、のとはえらい違いだ。
ところで、インセンティブには不思議な力がある。我が家で太陽光発電を設置したのが10年ぐらい前。計算上では15年で設備投資が回収できる予定だったが、妙にエコ意識が働き10年未満で回収できた。エコ意識や貯蓄心理というものは、快感になりやすい。意識改革とは、そうしたちょっとした事から始まるものかもしれん。結局、書籍代になって浪費されるのだけど...

3. マイクロファイナンスと初期誘導の難しさ
貧乏人向けの小口融資にマイクロファイナンスという事業がある。だが、かつて騒がれたほど機能するものではないらしい。貧困層は自立性を欠いているので、ボランティア的な性格を持つことになろう。実際、NGOが運営しているケースも多く、この関係事業でノーベル平和賞の対象となったケースもある。一方で、金融屋魂を強めるマイクロファイナンス機関もあって、借金を苦に集団自殺に追い込んだ事例もある。
本書は、マイクロファイナス機関は債務不履行を絶対に避けるべきだとする考えが強く、酷く柔軟性を欠くと指摘している。マイクロ融資は、グループメンバーの連帯責任という形で運営されるという。借金で連帯責任を負わされるとなれば、その利用を躊躇するだろう。グループの構成員ならば、他のメンバーに安全に振舞うように求めるだろうが、他人に口出しされたくもない。マイクロファイナンスに柔軟性を欠くならば、柔軟性のある高利貸しを頼ることになる。高利貸しが必ずしも悪徳業者ではないようだし、結局、高利貸しの引き立て役になってしまうのか。スーツで着飾り、証券取引所で活動するだけでは、真のビジネスモデルを構築することはできない。ドロドロとした現場にこそ、創意工夫というものが現われる。貧乏人は天性の起業家となりうる可能性があり、社会の底辺層から生じたビジネスの成功物語はいくらでもあるという。ゴミ拾いから始め、ゴミ分別モデルとゴミ収集の大規模ネットワークの構築で成功した者も、高利貸しから借金していたとか。
経済学者は、何かと限界収益といった用語を用いたがる。つまり、経営効率が成功の鍵を握ると。それも間違いではない。ただ、貧困社会には最初から非効率で溢れている。政府の施策や社会制度でさえ。限界収益は、利益が枯渇した時、投資を増やすか減らすかを判断する上で重要な考察となる。しかし、貧乏な事業では、投資が最初から限られていて、総収益がどうなるかの方がはるかに重要であると指摘している。小規模な事業が乱雑することも非効率の要因であり、限界収益が高くても総収益が低くならざるをえないと。小事業主のコミュニティ化に融資がセットになって生産性を向上させる。マイクロファイナンス機関が目指すものとは、そういうものであろうか。現実に起業することは難しい。利潤の再投資に対して見通しがなければ、借金しても苦しむだけ。ここに初期誘導の難しさがある。バラマキ政策がうまくいかないのは、非効率性を助長するからであろう。世界最大級のマイクロファイナンス機関FINCAのCEOジョン・ハッチは、こう語ったという。
「貧しいコミュニティに機会を与えて後は邪魔をしないこと」

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