2013-06-02

"最底辺の10億人" Paul Collier 著

世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とする...などというのは本当であろうか?著者ポール・コリアーは、そうした観点から注目してきた経済学者の一人で、アフリカ経済の世界的権威者と目される人物。彼は、世界銀行で開発研究グループディレクターを勤めた経験から、ノーベル賞経済学者ジョセフ・スティグリッツの示唆を受けて最貧国の研究を進めてきた様子を語ってくれる。そして、最底辺の国々が負のスパイラルから抜け出せない原因を、四つの罠から解き明かす。それは、紛争の罠、天然資源の罠、劣悪な隣国に囲まれる内陸国の罠、劣悪なガバナンス(立法、司法、行政に及ぶ広義の統治)の罠である。しかも、一国の直面する問題がその中の一つだとしても、周辺地域の統合によって複雑化し、悪の相乗効果を生み出す。さらに、犯罪者やテロリストや疫病の逃避先となり、悪のブラックホールと化す!
どんなに苦しくても、ほんの少し生活が右肩上がりになり、今年よりも来年は必ず改善されるという保障さえあれば、人々は希望をつなぐことができよう。しかしながら、どんな集団にも蟻地獄に吸い込まれていく人たちがいる。これが集団性の法則だとすれば、人間社会は集団性の悪魔と同居していることになろう。この書は、基本的人権を問うている。

負のスパイラル下では、援助もまた絶好の餌食となる。援助の熱狂は、ある種のイメージ作りとしてロックスターやセレブやNGOによって引き起こされる。だが、援助を受ける側では既得権益が優先され、多額の支援金が腐敗を助長する。おまけに、抵抗勢力が海外主導の改革を頓挫させれば、奇妙な国家安全思想を煽り軍事費を増大させる。支援金で一時的に貿易が改善されたとしても、すぐに軍事費に吸い上げられ、元の木阿弥!
天然資源にしても、オランダ病の根源となって他の生産活動を阻害する。石油やダイヤモンドなど一次産品に依存すれば、そこに欲望が群がり、神からの恵みも悪魔からの施しと化す!更に追い打ちをかけるのがグローバリズムで、見事なほど負のスパイラルと同化している。国内に失望した優秀な人材が海外へ逃避するのを手助けし、グローバル化した金融システムが資本の海外流出を円滑にする。
各国の政治家たちは、援助を世論向けの宣伝材料にする。正義という名を掲げれば、そこに人々が群がる。似非ヒューマニズムってやつは、どこにでも転がっているものだ。だいたい、友愛やら博愛やらといった癒し系の言葉には危険性が孕んでいるとしたものである。
援助をめぐっては、激しい政治対立に曝される。左派は、援助を植民地主義に対する償いと見なし、開発のためでなく西側社会の贖罪であると主張する。右派は、援助を生活保護へのたかりと同等に考え、単なる施しは問題を拡げるだけだと主張する。本書は、左派と右派の対立は最悪な部分を引き出し合うかのように見えると語る。
「世界政府というものは存在しない。それはたぶん良いことだろう。たとえ世界政府を望んだところで、それは誕生しないという事実を受け入れなければならない。少なくとも、底辺の10億人の国が直面する問題に関わる期間には起こりえない。」

アフリカや中東の地図を眺めると、国境線が一直線になっているところが多く見られる。民族や部族による生活圏によって作られた境界線ならば、自然地形に沿った複雑な線となりそうなもの。それは人為的に作成された境界線であることは明らかで、欧州列強国による植民地時代の名残である。したがって、国境付近には、無理やり分裂させられた民族や部族が混在し、国家とは無関係の集団を点在させる。こうした構造に、アルカイダ系イスラム組織などの武装勢力が結びつくと、国境付近で政府軍の及ばないテロ活動のリスクを抱えることになる。近年、北アフリカや中東でテロの脅威に曝されるのも、植民地時代の代償を払っているという見方もできるだろう。
本書は、軍事介入の必要性と、貿易障壁の削減を主張している。こうした意見は世論を敵に回すことになろう。軍事介入は平和主義者によって主権を脅かすと非難され、貿易障壁の削減は平等主義者によって弱い者いじめだと非難される。しかし、軍事介入を躊躇したがために大虐殺が発生し、貿易障壁を設けるがために一次産品への依存度を高めると指摘している。支援では、自立を促す必要がある。国が自立するためには、生産性を高めて貿易品目を多様化させる必要がある。国際援助はそれを阻害しているというのか?俗世間の酔っ払いができる事といったら、ユニセフのような援助機関を通じて寄付金を出し、自己満足に浸ることぐらい。だが、募金の使途など知る由もない。ひょっとしたら腐敗の手助けをしているのかもしれない。先進国とされる我が国ですら復興財源が転用される始末。ガバナンスなんてものが、いかに脆いものか。モラルハザードは、なにも金融業界の専売特許ではない。
著者は、国際的な機関や開発機関だけでなく、各国の有権者の考え方も変えなれければならないと訴える。有権者の世界観こそが可能性を形づくると。まずは、見ること!知ること!であろうか。そして、残された道は情報の透明性ぐらいであろうか。
「情報に精通した有権者がいなければ、政治家は底辺の10億人の国を写真撮影の機会に利用するだけで、それらの国を真に変化させようとはしない。」

1. 軍事介入の必要性
いくら政府レベルで公的資本を投下しても、労働機会を見出すことができないのはなぜか?必要なのは民間資本の方だという。確かに、手っ取り早い方法は民間企業の進出であろう。工場誘致によって労働機会を見出すことができる。アジア諸国が豊かになって実質賃金が上昇すれば、次はアフリカの番であろうか。とはいえ、ロボット化が進み、工場が無人化していく中で、東アジアで成功したような事例は期待できないかもしれない。
さて、ポール・クルーグマンとアンソニー・ベナブルズによる洞察の重要な要素に「集積の経済」という用語があるそうな。規模の経済による利益を相殺するほど賃金格差が大きくなるとどうなるか、と二人は考えたという。いくら労働賃金が安いとはいえ、企業がその国に最初に進出するリスクは大きい。労働に対する意欲や教育、工場立地のための整備、そして何よりも言語と文化の壁がある。資本の根本には信用の問題があり、国際援助で誘発される改革を投資家はあまり信用しないだろう。ましてや、政治リスクや暴動リスクが高ければ躊躇する。それでも、成功例を一つでも作れば、話は変わってくる。よって、治安維持が最優先されることになる。
本書は、国外軍の駐留を10年スパンで行うことを主張している。国内軍の充実は、むしろ内戦の発端になるという。しかし、世論は軍事介入となると敏感に反応し、誇大宣伝に流されやすい。特にアフリカへの介入は、ネオコロニアリズム(新植民地主義)と非難を受け、先進国の間でも歴史の陰がつきまとう。だが、軍事介入を躊躇したために、ルワンダでは50万人にのぼる大虐殺が発生した。シエラレオネでは、アハメド・フォディ・サンコーが反政府勢力である革命統一戦線(RUF)を組織し、若者を麻薬中毒にして従順に従う兵士にするばかりか、村人たちの手や脚を切り落とした。歴史背景が躊躇させるなら、アフリカの一国がリーダーシップをとって介入に乗り出すという手もある。実際、南アフリカはコートジボワールの内戦の調停に乗り出しているという。
また、アジアから企業進出する手もある。アジア諸国は経済成長に伴い天然資源の確保に必死だ。特に中国はアフリカの至るところに働きかけている。しかし、中国の巨額支援は、天然資源依存という悪循環を助長していると指摘している。ガバナンス問題をあまり気にしないために、却って情勢を悪化させると。政治的影響力を強めようという意図は見え見えか。そもそも、政治的な思惑を排除した国際援助は可能であろうか?何百年か先であれば、可能かもしれんが...

2. 貿易障壁の削減
保護は、援助と同じぐらいデリケートな問題である。そもそも競争の原理を働かせないと産業は育たない。国際貿易では比較優位の理論が基本的な概念としてあり、貿易政策ではその国の強みを相対的に活かすことになる。だが、保護貿易主義はどこの国にも根強くあり、貧困国ともなれば尚更。しかし、何を保護しているのやら?貿易政策は専門家にも分からない厄介な問題であろう。経済学者たちの意見はまるっきり正反対だし。ならば、確率的なモノの見方をしたらどうか。天気予報のようにとまでは言わないまでも。どうせ蟻地獄が続くのなら、失敗覚悟で思い切った政策を試すべきかもしれない。正論を展開したところで、ジリ貧に陥るようにしか見えないし。いずれにせよ、人間社会は試行実験の場ということになろう。
保護貿易を訴える運動は、だいたいキリスト教の慈善団体が粗雑なマルクス主義を押し付けるという形で生じるという。貿易政策は、いかに時代の潮流に乗るかが検討されるべきであろうが、政治家どもは奇妙な国家像を持ち出す。押し売り的な援助が、関税障壁の問題を悪化させることは想像に易い。本書は、西側の人々がアフリカの貿易障壁削減に反対する運動に、善意の募金を注ぎ込んでいると批判している。とはいえ、初期段階では保護を必要とする。フェアトレード(公正貿易)が解決策となるかは、難しいところではあるが。
本書は、支援が必要としながらも、保護政策が長期化すれば、政府高官たちの汚職の場を提供すると指摘している。親戚や友人の所有する企業の優遇措置として機能すると。多くの国で、保護産業が逆に国際競争力を失う結果となる事例がわんさとある。それが癒着の場となることも珍しくない。そうした経験から、援助に否定的な意見も少なくない。ただ、最底辺の国々では腐敗の次元が違うようだ。援助と腐敗の按配を模索するしかなさそうか。少なくとも援助の質を考慮する必要がある。金銭的支援よりも、人材不足なので人的支援の方が効果がありそうか。多くの場面で現物支給の方が効果がありそうだが、政治家ってやつはどうもバラマキ習性があるようだ。援助バロメータとして選挙アピールしやすいわけか。ならば、有権者の方が見方を変えるしかあるまい。

3. 方向転換の条件
方向転換のための条件として、三種類の特質が検出されたという。なんと、人口が多いほど中等教育を受けた国民の割合が高いこと、さらに、最近内戦から脱した国ほど持続的な方向転換が可能になる傾向があるという。そして、方向転換にそれほど重要でないものは民主主義と政治的権利だという。政策転換や改革には民主主義は向かないのか?これは、底辺の10億人の国々でも民主主義が普及しているため、ひどく失望させる見解である。しかし、妙に説得力がある。我が国の情勢を眺めれば...
どうやら、教育を受けた批判精神をもつ大衆が必要ということらしい。無知な大衆は却って邪魔ということか。国際的な視点の持てる高度な教育が必要であるが、そもそも国の教育機関が腐敗している。教育レベルが低いと、偏重した愛国心教育によって内戦へ向かわせる。腐敗者は自分が腐敗しているとは思わないし、それどころか正義感旺盛だ。新大統領が就任し、民衆が改革に希望を抱いたところで、中身に幻滅すれば改革そのものを疑う。民主主義が方向転換にそれほど役に立たないとしても、一旦その方向に舵をとれば後戻りできない。もし逆戻りすれば、更に強烈な独裁国家へと進む。政策の失敗を掲げ、大統領を批判するのも命がけ。それでも、そんな勇気を持った人が少なからずいる。改革とは、方向転換の機会が訪れたら、その初期段階をいかに持続させるか?これにかかっている。

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