2014-03-09

"ヒトはなぜ戦争をするのか?" Albert Einstein, Sigmund Freud 共著

この組み合わせに目を疑った... アインシュタインとフロイト???
1932年、国際連盟はアインシュタインに、ある依頼をしたという。
「人間にとって最も大事な問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください!」
そして、とりあげた問題は戦争、相手はフロイトだったとか。ナチズムに握り潰され、長らく忘れ去られてきた二人の往復書簡が甦る。それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡っての対話であった。アインシュタインは、権利と権力の関係から議論を求める。フロイトは、これに賛同するものの、権力より暴力という、もっと剥き出しにした言葉を用いたいと提案する...

翌1933年、アインシュタインはナチズムに追われアメリカに亡命。彼が有識者こそ暗示にかかりやすいと主張したのは、まさにヒトラーの演説に狂気した群衆心理を物語っている。真理を探求するには、科学だけでは不十分だということを痛感したのであろう。ここに、科学者と心理学者を結びつけることに。
1938年、フロイトもまたロンドンに亡命。第一次大戦の教訓から発足した国際連盟は、人類史上初の試みであり、世界から戦争をなくすための唯一の希望であった。しかし、独立機関として機能せず、第二次大戦の勃発で失敗に終わり、20世紀は大量殺戮の世紀と化す。その思想は国際連合に受け継がれるものの、各国の思惑が絡むことに変わりはない。
司法機関を権力と分離させることは極めて難しく、国際機関でさえ正義の下で機能させることは不可能なほど難しい。それは、正義という言葉があまりにも美しい印象を与えるわりに、普遍性や客観性からは程遠いことにある。歴史を振り返れば、脂ぎった権力ほど正義を巧妙に利用してきた。しかも、彼ら自身が正義者だと信じ込んでいる。人間ってやつは、自分の道徳観に自信を持つと、ろくなことにならないようだ。そこで、現実的な対策として実践されてきたのが、モンテスキュー式権力分立の原理である。人間社会ってやつは、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか?そいつは、真理の探求という普遍原理よりも優るとでも... そうかもしれん。

1. アインシュタインからフロイトへ
「ナショナリズムに縁がない私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思えてしまいます。すべての国家が一致協力して、一つの機関を創りあげればよいのです。この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。」
ところが、すぐに問題にぶつかる。司法は人間が創り出したもので、周囲の様々な圧力を受け、正義はすぐさま宣伝やパフォーマンスに置き換えられる。自由や平等、あるいは友愛や博愛といった響きの良い言葉ほどタチの悪いものはない。
アインシュタインは、国際平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を放棄しなければならないと主張する。そして、人間の心に問題があるとし、第一に権力欲を放棄することができない特質を挙げる。教養のない者を導けばいいというものではなく、むしろ知識人の方が暗示にかかりやすいと。机上の言葉を頼りに、複雑な現実を安直に捉えようとするからだと。教育者、報道屋、宗教屋たちが、政治的に扇動される当時の様子は... 今もあまり変わらんようだ...

2. フロイトからアインシュタインへ
「むき出しの現実の力を理念の力に置き換えるなど、今でも無理なのです。失敗するのは必至です。法といっても、つきつめればむき出しの暴力にほかならず、法による支配を支えていこうとすれば、今日でも暴力が不可欠なのです。このことを考慮しなければ、大きな過ちを犯すことになります。... 人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにない!」
今日、世界中の民族を支配しているのは、ナショナリズムという理念であろうか。フロイトは、ナショナリズムこそがすべての国々を敵対させる原因だとしている。そして、原始時代に遡って考察し、人間の本性を暴こうとする。
一般的には、権利と暴力は正反対のものと思いがち。だが、権利の行動は、暴力と深く結びついてきた。人と人の間には利害の衝突があり、ほとんど力関係で決着がつけられる。人間とて動物なのだ。文明の発達が、腕力競争を武器競争へ変化させ、やがて科学戦争、経済戦争、情報競争といった頭脳戦へと移行させてきた。唯一の救いは、人間の場合、暴力の前に意見や思想の対立があることだ。極めて抽象的なレベルで意見が衝突することもある。フロイトは、こうした特質のおかげで、暴力以外の解決策の可能性があるとしている。
実際、暴力による支配から法による支配へと変化してきた。法を編み出したのは、多くの弱い人々が結集し、権力者の強大な力に対抗して権利を認めさせた結果であろう。
しかし、今度は集団性が暴力を剥き出しにする。狡猾な政治屋どもは、腕力よりも集団性を利用する方が効果的だということを熟知している。君主制を打倒した共和制の下で恐怖政治が行われると、民衆は強烈なリーダーシップを持つ政治家の登場を願う。その結果、再び独裁者の台頭を許す。対立や衝突の生じない社会は存在しない。神の前で誓った二人ですら、利害関係から敵対心を剥き出しにするではないか。相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己存在を確認するには、その対象を必要とする。愛の情念は、憎の情念との相対的な関係から生じる。実は、正義と暴力は相性がいいものなのかもしれん...

3. 共同体を形成するものとは
共同体を支えているものは、感情の結びつき、あるいは一体化ないし帰属意識というやつであろうか。もっと言うならば、哲学的な共通意識とでもしておこうか。だが、手段に目を奪われれば、絆などという心地よい言葉だけがひとり歩きを始め、感情的な行為に及ぶ。
汎ギリシア理念では、バーバリアン(野蛮人)より優れているという自負があった。その意識はアンピクティオニア(隣保同盟)、信託、祝祭劇などにはっきりと現れ、ギリシア人同士の争いが熾烈をきわめずに済んだ。だが、争いを根絶することはできない。ライバルを蹴落とすために、一部のギリシア都市は、天敵ペルシアと手を組んだ。ルネサンスにおけるキリスト理念では、多くの人がキリスト者としての一体感を強く感じていた。にもかかわらず、大小のキリスト教国が互いに衝突すると、イスラム教のスルタン(君主)に助けを求めた。人間ってやつは、いとも簡単に戦争に駆り立てられるものである。
アインシュタインは、憎悪に駆られるのは人間の本能であり、相手を絶滅させようとする欲求が潜んでいるとしている。フロイトもこれに同意し、攻撃性を戦争に結び付けないために、他に捌け口を見つけることが重要だとしている。
そして、人間の衝動には二つあるとしている。一つは、保持し統一しようとする衝動で、エロスや性的本能である。権力者は性欲が強いとよく言われるが、英雄色を好むというやつか。二つは、破壊し殺害しようとする衝動で、攻撃や破壊の本能である。
両者とも愛と憎しみの対立から生じる。物理学的に言えば、引力と斥力の関係にある。だからこそ、これらが釣り合うように精神のバランスを求める。片方を悪として排除すれば、他方が暴走を始める。愛もまた独占欲から生じる。憎しみを悪として排除すれば、愛が暴走を始め憎しみ以上にタチが悪い。自己愛が自分を主役にしたいと欲すれば、そこにも攻撃性が生じる。愛を崇め過ぎれば、愛を安っぽくさせるだけよ。
しかしながら、衝動もまた人間には必要な情念である。芸術とは、まさに衝動の爆発した結果である。悪意や攻撃性こそが、革命や創造性を掻き立てる。そして、情念の行き過ぎを意識できるから、抑制しようとする意識も働く。これが中庸の原理というものであろうか。そもそも人間の本性を排除しようとすることが、宇宙法則に逆らっていると見るべきではあるまいか...
「共産主義者たちも、人間の様々な物質的な欲求を満足させて人間たちの間に平等を打ち立てれば、人間の攻撃的な性質など消えると予測していました。けれども、このようなことは幻想にすぎません。今、ボルシェヴィキの人たちはどのような有様を呈しているでしょうか。武装化に余念がなく、実に入念な武装化をはかっています。そのうえ、ボルシェヴィズムを信奉しない人間への激しい敵意と憎悪こそ、彼らを一つに結びつける大きなものとなっているのです。」

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