2014-03-16

"モーツァルト = 二つの顔" 礒山雅 著

モーツァルト論には、小林秀雄の有名な「ト短調」をキーワードにしたものがあるそうな。対して本書は、「ト長調が綴る飛翔のイメージ」こそが、モーツァルトの真髄であると主張する。だからといって、ト短調論に対してト長調論をもって反駁しようなどという意図はないようである。モーツァルトの生きた時代は、音楽史上、最も長調が優勢であったという。その背景には、進歩を奉じて幸福を追求する啓蒙思想があり、積極的な社会風潮があるのも確か。だからこそ却ってシリアスな短調を洗練させるところがある。個人的には、ト短調の方に魅力を感じる。三代交響曲に魅せられたのは中学生の頃であろうか。仕事中のBGMで最も活用してきたのが、交響曲第40番ト短調である。交響曲第41番ハ長調「ジュピター」も最高だが、BGMには少々明るすぎる。チャイコフスキーの交響曲もそうだが、昔から短調系が肌に合うようである。どこかの音階が半音下がるだけで気分が変わる。このあたりに気まぐれの制御法があるのではないかとずーっと模索してきたが、アルコール濃度で半音分解する方が手っ取り早いようである。今度、バーテンダーに「短調カクテル」でもリクエストしてみるか...
それはさておき、おいらは、交響曲こそクラシック!というベートーヴェン的な考えに感化されてきた。ところが、ここではモーツァルトの本質を主にオペラへ向けられ、新鮮な感覚を与えてくれる。モーツァルト時代、シンフォニーはまだ主役ではなかったようである。これから始まる演奏は何々調です!と宣言されるぐらいの前座の役割でしかなかったとか。ファンファーレやフィナーレのような形式であろうか。本書は、悲劇物語を明るい調子で演出する洒落やユーモアを、オペラや歌曲の中に見出してくれる...

モーツァルトが類い稀な天才であったことは言うまでもない。しかし、それは彼一流の演技でもあったという。彼の才能振りでは、言語脳と音楽脳を使い分けたという話を聞く。妻と会話をしながら作曲をし、相互能力を触発させたという逸話もある。
一度書いた楽譜をまったく修正しないといった伝説は、どうやら誇張らしい。モーツァルトといえども、スケッチをやり、手直しをし、捨てるべきを捨て、時間をかけて作曲したようである。偉大な才能に一面的な讃美を与え、人物像を神話化してしまうことがある。鑑賞者は身勝手な理想像を描くものである。
一方で、才能をひけらかせば、敵意や嫉妬から根も葉もないことを言いふらす者がいる。オペラ作品には数々の女性が登場し、しかも特定の女性歌手のために書かれた曲も多いとくれば、女癖の噂は絶えない。大衆ってやつは、なにかとスキャンダラスな話題がお好き。天真爛漫かつ下品といった印象は、映画「アマデウス」の影響もあろうか。
借金まみれであったのも、個人的な問題もあろうが、社会的な問題も大きいようである。共同統治者女帝マリア・テレジアの崩御を受けて、その長男ヨーゼフ2世が単独統治を行い、啓蒙専制君主が改革をもたらす。民衆王と呼ばれながら対トルコ戦争が致命傷となり、ウィーンでは経済恐慌に陥る。貴族とて音楽どころではなく、モーツァルトの作品も激減したという。そんな時代であっても、登場率や演奏率の下降は見られないらしいけど。見栄っ張りで浪費癖であったのも確かなようで、気前よく、呑気で、無頓着で、ビリヤード好きだったとか。ギャンブラー説には、多くの学者が異論を唱えているけど。
杜撰で自己管理のできない人物と思われがちだが、正反対な性格も見せる。父レーオポルトが几帳面で管理主義の権化のような人物だったそうで、その血を受け継いでいるところがある。お馴染みのケッヒェル番号は、モーツァルト自身が目録を作成していたお陰で実現できたという。600曲を超える作品を第三者が整理するとなると至難の業。1862年、ルートヴィヒ・フォン・ケッヒェルは、成立年代順の番号を振った全作品の目録を出版。おかげで、その番号は作品の顔となり、マニアともなればケッヒェル番号で作品をそらんじる。それでも、目録に記載されない作品もあるそうな。大曲や知名度の高い曲でさえ。目録と自筆楽譜の食い違いもあるという。モーツァルトがフリーメイソンだったことは広く知られる。そのためかは知らんが、目録にも神秘が満ちているようである...

1. オペラに見るモーツァルト思想
「フィガロの結婚」(K.492)を人間愛の讃美としながら、「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)をモーツァルトの最も暗いオペラと評される。「フィガロの結婚」には、貴族の専横を打破しようとする平民の心意気が満ちている。そのことが、啓蒙的改革への情熱と呼応して皇帝の支持を受ける反面、オペラ受容層の貴族たちに不快を招くことに。ウィーン上演が早々に打ち切られ、しばらく日の目を見なかったという。
しかし、プラハで圧倒的な人気を博す。この作品に張り巡らせた反体制思想が、ハプスブルク家の支配にあえぐプラハ市民に熱烈に受け入れられたようである。その後、「ドン・ジョヴァンニ」が成立し、ここにもプラハへのメッセージが込められているという。それは、強烈な性的、実存的な訴えかけで、キェルケゴール的な直接的でエロス的な段階であると。覆面の主人公たちが農民たちとジョヴァンニ邸に集い、自由万歳!と叫べば、ドン・ジョヴァンニは死を選ぶ自由に酔いしれる。そして、啓蒙社会における抑制エネルギーの蓄積から下克上を予感させる。ウィーンで受け入れられなかったモーツァルト思想は、プラハで開花したというわけか。
ちなみに、交響曲第38番ニ長調「プラハ」(K.504)もいい...

2. モーツァルトの女性観
本書は、モーツァルトの人間好きを指摘している。幼児の頃から人なつこく、人見知りせず、どんな人ともすぐに友達になれる性格で、終生変わらなかったとか。その反面、人と距離を置くことが苦手で、貴族にことさら遜ったり、聖職者を敬ったりができなかったという。
人間好きなのか、女好きなのかは知らんが、オペラ作品の中に女性遍歴を垣間見ることができる。「コジ・ファン・トゥッテ」(K.588)に道徳者の伝統的な批判が付きまとうのも、女性の貞操観念を堕落させていく物語の宿命であろう。登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラは、本当の愛を味わっていると思い込んでいるものの、まだ幼い憧れの空想段階にある。だが、男たちの激しい求愛が混乱へ陥れる。しばしば、フィオルディリージの方は、ドラベッラと対照的に、最後まで貞操を貫こうとしたと解釈される。だが、それは間違っていると指摘している。それもそのはず、結局「女はみなこうしたもの!」と歌われるのだから。やはり女性はロマンスに弱い。ましてや、戦地に赴く男どもに、どこまで義理立てする必要があろうか。モーツァルトは、女性ばかりに押し付けられる貞操観念の重さに、不自然さを感じていたようである。
一方で、「コンサート・マリア」という歌劇とは別の独立曲がある。モーツァルト研究では後回しにされがちな分野だそうな。9歳(1765年)から最期(1791年)にかけて書かれ、モーツァルトの成長を伺うのにかっこうなジャンルだという。それは、コンサート用に独立曲として書かれたものと、他の作曲家のオペラに挿入するための代替曲として書かれたもの、の二種類あり、いずれも特定の歌手が想定され、存分に個性が発揮できるように配慮されているという。マンハイムで知り合った初恋の人アロイージア・ヴェーバーは傑出したコロラトゥーラ歌手で、その妹で妻となるコンスタンツェもソプラノ歌手で、彼女らに捧げた曲もある。独自のマリア像を、世俗の女性関係に求めたのかは知らんが、コンサート・マリアには、生涯をかけてモーツァルトの女性関係が刻まれているのかもしれん...

3. 歌曲に見る堕落論
歌曲は、ほとんど制約のないジャンルで、ひねりを利かせ、ユーモアを忍ばせ、時には正攻法で意表を突き... そんな多彩な仕掛けが張りめぐらされているという。あまりにも洒落ていて、意識されないほどに。ただ、そんな自由なジャンルなのに、30曲ほどしかない。
歌曲「すみれ」(K.476) の詩はゲーテが綴る。一般的には、すみれの花と羊飼いのイメージから可憐という印象を与え、民謡風の純真な可愛い曲と評される。しかし、その実態は、牧場で人知れず起こった惨劇だという。美しいすみれが無残に踏み潰される、あっという間の出来事を、ゲーテが何食わぬ顔で晴朗に歌い出しているとか。やってきた娘が、すみれに目もくれず、踏み潰して... それを見て喜んでいた自分が死ぬのも、彼女によって... といった具合に。本書は、挿入される物語と曲の調子が不均衡で、美化して歌われ過ぎだと指摘している。これも、芸術家の遊び心であろうか。ファウスト博士が、メフィストフェレスと戯れるかのような。ゲーテが大のモーツァルト愛好家だったのも、作風に通ずるものがある。
また、歌曲ならではの恋愛物語には、思いっきり男性諸君のエゴイズムを演出する。接吻やら、抱きしめるやらと、女体をむさぼる姿を、のどかな恋愛物語に変えてしまうほどの音調によって。幸福像に、さりげなく死霊を重ねると言えば大袈裟であろうか。いや、勝手に聴衆が幸福と思っているだけのことかもしれん。単純な長調が天真爛漫な気分を煽る。天真爛漫とは、自己主張の根源であり、エゴイズムの源泉と解することもできそうか。そして、これらを克服することこそ、すなわち、堕落の道にこそ、真理の道があるとでもいうのか...

4. 三大交響曲
交響曲第39番変ホ長調(K.543)、交響曲第40番ト短調(K.550)、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」(K.551)、これらは言うまでもなく、モーツァルトの交響曲においてピークの作品である。そういえば三曲を順番に聴いてしまうが、本書はそれもそのはずだと教えてくれる。変ホ長調のみが堂々たる序奏を持っていて最初に置かれることに意味があり、ハ長調の壮大なフーガがフィナーレとなって、これらにト短調がうまく対比されながら真ん中で座り心地が良い... といった構想になっている。
「終結フーガをもつ彼の偉大なハ長調シンフォニーは、すべてのシンフォニー中、第一のものである。この種のどんな作品にも、天才の神々しい火花が、これほど明るく、美しく輝くものはない。すべてが天上の妙音であり、その響きは、偉大な光栄ある行為のように心へと語りかけ、心を感激させる。すべてがこの上なく崇高な芸術であって、その威力の前に、精神は身を屈して驚嘆するのである。」
ジュピター神のごとく、天上の芸術というわけか。しかし、おいらには40番が一番思考のBGMに合う...

5. 聴衆を超えた幻想芸術
コンツェルトは、本書ではあまり触れられないが、モーツァルトの最高のジャンルの一つであろう。ピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)は、モーツァルトが一連の快活なコンツェルト人気の流れを突然断ち切った、最初の短調協奏曲だそうな。モーツァルト芸術が聴衆を超え、難解な世界へ踏み込む一歩となったということか。もっとも、その後の長い受容の歴史が、この作品を最高の人気曲の一つへ押し上げることになる。ピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」(K.537)よりも...
また、「フィガロの結婚」の創作の合間をぬって作曲されたピアノ四重奏曲ト短調(K.478)には... これは騒音だ!とても楽しめない!という感想さえ記録されているという。
「訓練を受けていない耳では作品の中の彼についていくのはむずかしい。かなり経験を積んだ耳でも、何度も聴かなくてはならない。」
こういう感想を意外に思うのは、現代ではモーツァルトの高級芸術が庶民化している証であろうか。確かに、複雑で疲れる。だが、おいらの大好きな曲の一つで、精神空間がぐちゃぐちゃにされるような幻想感がいい。
現代思想に飽きれば、逆に古典に新鮮さを感じる。ルネサンス期に古典回帰を懐かしんだのも、そこに新鮮な解放感があったからであろう。いつの時代でも、現在の自分を嘆けば昔を懐かしみ、単純さに退屈すれば複雑さに救いを求めるものである。

6. バッハとモーツァルト
バッハとモーツァルトは、通常バロック派と古典派で区別されるが、近年の研究では二人の連続性に注目されるという。18世紀を通じて、弦楽器や管楽器に大きな変化が見られないからだそうな。鍵盤楽器は別だけど。むしろ、モーツァルトとブラームスらのロマン派とを区別するのであろう。ブラームスやブルックナーで定着する豊かで長いレガートは、まだモーツァルト時代には存在しないという。本書は、モーツァルト時代を味わうには、古楽器演奏を勧めてくれる。古楽器が普及し認知されると、逆にモダン楽器による演奏の再評価という流れになるのだけど...
さて、19世紀的な「歌う原理」に対して、「語る原理」がまだ有効であったと捉えるそうな。だからといって、モーツァルトが18世紀の革新者であることを否定しているわけではない。素人感覚で眺めても、バッハとモーツァルトの間にはなんらかの境界がありそうだし、バッハから異質な変化を見せるのも明らかだ。おまけに、作風は正反対ときた。バッハのカンタータと言えば、神やら愛やら接吻やらを大袈裟に歌い、真面目臭く、説教じみて聞こえる。バッハを素直に聴けるようになったのは、30代半ば頃であろうか。対して、モーツァルトは照れくさそうに茶化すところが昔から肌に合う。
しかしながら、晩年の作品にはバッハの模倣に通ずるものがあるらしく、精神的な共通点が見出せるという。皇帝ヨーゼフ2世から音譜が多すぎると批判されたのは、オペラ「後宮からの逃走」(K.384)に関するものだったと思う。だが晩年は、信じられないほど簡明な転換が著しいという。難解な作品を残してきた天才芸術家が、晩年になって自然へ回帰し、簡明な作風を露わにするのをよく見かける。これが人間の普遍性というものであろうか...

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