ある大学の先生から、量子力学を勉強する下地に... と薦められた一冊。テクニオン - イスラエル工科大学のアッシャー・ペレス教授の書で、量子論の教科書的な存在だそうな...
この分野には実に多くの参考書が散乱し、エネルギー準位や遷移確率などの計算法を学ぶことができる。しかし、その存在論的な意味合いとなると、深刻な見解の相違が生じ、量子論的な認識論というものを意識せずにはいられない。認識論を数学という言語を用いて記述すると、どうなるだろう。本書には、そんな野心が見て取れる。あらゆる表現に数式が用いられるのも、客観的な記述の限界を試すかのようでもある。
本書は哲学の書ではない。著者もそう宣言している。ただ、おいらには、数学は哲学である... との信条があるので、これを哲学の書としてもまったく違和感はない。それにしても、これで大学院生レベルだというのだから...
本書は、「不確定性原理」のような明確に定義できない概念を避け、ベルの定理とコッヘン=シュペッカーの定理を中心に「隠れた変数決定論」というものが扱われる。光子系において、隠れた変数を導入することにより、古典的な決定論を回復させようという目論見か。この隠れた変数ってのが、例えば、超ひも理論あたりで議論される 10次元や Dブレーンのようなものを指すのかは知らん。要するに、概念的な話はおいといて、量子力学と古典力学が根本的に乖離するところを、ひたすら数学で記述しようというのだから尋常ではない。
注目したいのは、時空対称性や量子熱力学に情報理論を絡めた議論である。それは、エントロピーや不可逆性に至る議論で、技術屋にとってはなかなか興味深いものがある。演習問題を通して、光線どうしが重なり合っている部分を、光子という言葉でどのように記述したらよいだろうか?と挑戦的な疑問を投げかけたり... 個々の光子の偏光パラメータを測定する装置は存在しえないことを完全に納得するまで、諦めないでほしい!と励ましてくれたり... もはや、一つの光子の偏光状態はどうなっているか?などという質問に答えることはできないし、意味もない!と切り捨てたり... ちょっとした冒険心をくすぐる。
「偏光が光子からできており、そして光子は分割できない実体であるという考えを一度受け入れるなら、物理学はいままでと同じではありえない。乱雑性が基本的な要素になる。」
古典物理学では、物質の位置と運動量は同時に正確に測定できることが前提される。位置と運動量は客観的な性質で、観測者とは無関係な物理量と考える。だから、調和振動子の位相に対して一様分布や、気体の分子速度に対してマクスウェル分布を仮定したりできる。
一方、量子力学では、量子の位置と運動量は同時に正確に測定することは不可能とされる。観測環境では、対象となる物理系に観測系が関与するために、純粋な物理現象を得ることはできないというわけだ。運動量が不正確でも、位置を正確に知ることができれば、なんとなく存在は定義できそうである。逆に、位置が不正確でも、運動量を正確に知ることができれば、なんとなく存在は定義できそうである。
そして、量子の存在状態は確率論に持ち込まれる。それで、シュレーディンガーの猫が死んでいるか、生きているかまでは分からなくても、笑みを浮かべていそうなことぐらいは想像できる。不思議の国のチェシャ猫のように...
となると、人間の存在認識なんてものは、想像の産物ということになりはしないか。人体だって量子構造を持っているし、人間精神そのものが単なる量子の集合体から生じる現象かもしれないし...
我思う故に我あり... とは、あの大哲学者の言葉だが、実存とは、まさに自己認識に裏付けられた概念。つまりは、主観の領域にある。これを、数学で記述しようという野望は計り知れない。主観の正体を暴くための客観的方法とは。それが観測という行為に現れるが、観測環境は観測者の主観をも含んでいる。観測者の純粋客観なるものを夢みれば、カント風の主観論に引き戻され、自己矛盾を克服できそうにない。
では、観測をどう定義するか。観測の目的は、対象となる物理現象に客観的な視点を与えることにあるが、それは認識を与えることにほかならない。主観に頼らなければ認識すらできない知的生命体にとっては絶望的な状況にある。人類が編み出した最も客観的な記述法といえば、数学という言語を用いること。なるほど、量子力学とは、数学的記述法の限界を試す学問であったか...
2020-05-03
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