2014-03-23

"バロック音楽名曲鑑賞事典" 礒山雅 著

二十年前はモーツァルト以降にしか興味がなかったが、ここ数年はバロック音楽ばかり。だが、バッハ以前となると、あまり知らない。そんな初心者のために、西洋音楽史の専門家が百曲を厳選してくれる。話題が豊富でまったりとしながら、それでいてしつこくない。BGMを聴きながら本を読むことはよくあるが、本の方がバックグランドを演じてくれるのも悪くない。BGMには微妙な存在感が要求される。インパクトがありすぎても、感動しすぎてもいけない。しかも、思考のリズムが合わなければ気分を害す。さりげなく肩の力を抜いてくれるような存在でなければ...
さっそく購入検討に入る。カッチーニ、モンテヴェルディ、ヘンデル、ラモー、コレッリ、ジェミニアーニ、タルティーニ... 書籍もそうだが、音楽のToDoリストが溢れてやがる。セネカよ、やはり凡庸には、いや凡庸未満には人生は短い!

音楽が精神において大きな役割を果たすとすれば、音楽の観点から歴史を眺めることにも意味があるはず。音楽は、戴冠式、軍事、斬首刑、葬儀、礼拝、祭典など、政治的にも社会的にも欠かせない道具とされてきた。好きな音楽を聴きながら死にたい、という人もいる。敬虔な人は違う。死が来世への旅立ちだとすれば、葬儀に音楽という祝福は欠かせないらしい。自分のための葬送曲を、当代一の音楽家に依頼するなど贅沢な話よ。
だが、自己存在を永遠に刻もうと目論んだところで、神から祝福されるのは偉大な芸術を残す作曲家の方である。西洋史におけるクラッシク音楽は、宗教音楽として発達してきた。政治が腐敗すれば、音楽に祈りを込める。それは現在とて同じ。音楽家の本質的な役割は、ここにあるのかもしれない。
しかしながら、バロックいう言葉には「いびつな真珠」という意味がある。カトリック教会の目には、宗教心から離れて世俗化していく音楽が、秩序を乱すものに映ったことだろう。対抗宗教改革のさなか、社会全体が極度に寛容性を失うと、古代ギリシア・ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じた。ルネサンスってやつだ。バロック音楽には、その精神を受け継ぎ、過剰な宗教心から脱皮を図ろうとする意志を感じる。モノローグな独り善がりにも映るが、むしろ聡明な対話と捉えるべきかもしれない。宗教的な説教は鬱陶しくてかなわないが、普遍的な音楽となると話は別だ。言葉の布教には頑なに耳を覆っても、自然な音楽には素直に耳を澄ますことができる。やはり、あのナザレの大工の倅は余計な事を言わなかったに違いない...

ここに選考されるCDやDVDは、ピリオド楽器(古楽器)によるものを優先したという。具体的な楽器を想定して作曲されるだけにオリジナル楽器に注目しないと、真の着想は見えてこないだろう。ただ、現代楽器によるアレンジも悪くない。古楽器が認知されると、逆にモダン楽器による演奏が再評価される。
おいらのバロック音楽観賞は、パッヘルベルの「カノン」に始まる。有名なだけに様々な形式で演奏される。弦合奏、オーケストラ、管楽合奏... はたまた、電子演奏から携帯の着信音まで。本書は、この曲は味付けすればするほどムード音楽になってしまうと指摘している。それが人気の源泉でもあろうけど。いま、50弁オルゴールで聴きながら記事を書いている。うん~、たまらん...
ところで、この手の書に触れると、いつも思うことがある。それは「アリア(Aria)」という用語について。英語で言えば、air... 空気のように奏でるといった意味であろうか。どうもマリア(Maria)と重ねてしまう。宗教音楽という印象が強いからであろうか?あるいは、単なる語呂であろうか?聖女の名とされるのも、空気のような自然回帰の意味が含まれるのではないか、などと考えるわけだ。そして、ガイア(Gaia)も同じ音律を奏でる。ヘシオドスが大地の母としたやつだ。なぁーに、駄洒落好きというだけのことよ...
さて、アリア曲といえば、三大アヴェ・マリアであろう。最初に知ったのは、バッハとグノーのアヴェ・マリア。シューベルトのアヴェ・マリアも悪くないが、やはりカッチーニのアヴェ・マリアは絶品!その日の気分で変わるのだけど...
尚、「G線上のアリア」がなぜアリアなのかは、バッハのオリジナルに由来する。タイムスリップしてバッハに直接「G線上のアリア」は素晴らしいと感想を述べたところで、なんじゃそりゃ?って答えられるのがオチだろう。アウグスト・ウィルヘルミが、管弦楽組曲第3番(BWV1068)の第二楽章をヴァイオリンの独奏曲に編曲したのは19世紀後半。ニ長調をハ長調に変え、第一ヴァイオリンの主旋律をオクターブ下げて、一番低い弦のG線のみで演奏するようにした。よって、チェロのような太く朗々とした曲想となる。しかし、原曲は弦合奏と通奏低音のために書かれたという。しかも、原曲の素晴らしさは格段上にあるとか。四声の弦の精妙で陰翳に富んだ絡み合いがこの曲の生命線で、その肝心な絡みがヴァイオリンとピアノの編曲では読み取りにくいという。空間の深みが違うらしい。そういえば、頻繁に聴くわりには、原曲の方は聴かない。
ちなみに、演奏中に、確実にG線を切断するには300万ドルが相場だと聞く。演奏者にもヴァイオリンにも傷ひとつ付けずに。ゴルゴ13「Target.7 G線上の狙撃」より...

1. バロック史
17世紀初めから18世紀前半にかける音楽史はルネサンスの流れを汲む。やはり中心はイタリアであろうか。それは、ブルボン家の初代王アンリ4世とフィレンツェのマリア・デ・メディチの婚礼を記念して、ヤーコポ・ペーリのオペラ「エウリディーチェ」が上演されたあたりから始まる。実際、バロック時代の幕開けの象徴的作品で一般的に挙げられるのが、このオペラだそうな。1600年というキリのいい年に、フィレンツェのピッティ宮殿で初演されたという。しかし、まだ実験的な色彩が強く、本格的な幕開けにはジューリオ・カッチーニを推し、その歌曲「アマリリ麗し」を薦めてくれる。
また、初期バロック音楽の流れでは、声楽曲がクラウディオ・モンテヴェルディに代表されるならば、器楽曲、特に鍵盤楽曲はジローラモ・フレスコバルディを頂点にするという。そのライバルに、北方オルガン音楽の源流ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクを位置づけ、対して、フレスコバルディから南方のオルガン/チェンバロ音楽の流れが発したという。この二つの流れは、後にバッハによって総合されることになる。
個人的には、イタリアの情熱をヴァイオリン曲に感じる。コレッリの「クリスマス協奏曲」や「ソナタ集作品5」などに。おまけに、イタリア風のソネットが付せられると文学的に演出される。ヴィヴァルディの「四季」のように。この曲は、四季おりおりの風物を嗜む日本文化とよく適合する。
一方で、ドイツが中心という印象は、日本の義務教育の影響であろうか。音楽史におけるアルプスという境界は、なんらかの関係があるのかもしれない。ドイツにしても、フランスにしても。ドイツ音楽の父と呼ばれるハインリヒ・シュッツは、意外にもコラールを民衆的な形で使った作品がないという。対して、ミヒャエル・プレトーリウスにはコラールの素朴な編曲がたくさんあるらしく、舞曲集「テルプシコーレ」を紹介してくれる。
ところで、ヨハン・ヨーゼフ・フックスという名を聞かないが、音楽文献では重要な人物らしい。ハプスブルク家の宮廷楽長を務め、代々の皇帝の信望も厚く、大看板という言うべき音楽家だそうな。「グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッソス山への階梯)」と題する対位法の理論書を書いた権威者だとか。モーツァルトも、作曲のレッスンにフックスの課題を用いているという。

2. フランス音楽史
時代背景には、アンリ4世がナントの勅令によって宗教融和を図り、続くルイ13世が国力を蓄えながら芸術の発展にも乗り出し、ついに太陽王ルイ14世の下で最盛期を迎え、その後の衰退...という流れがある。宗教的なコラールが組織される時代でもあり、ヨーロッパの王侯たちがフランスかぶれとなった時期と重なる。
フランス音楽史を紐解くと、至るところでフランス派とイタリア派の対立をめぐる記述に出会うという。フランス派の筆頭はルイ14世時代の宮廷音楽家ジャン = バティスト・リュリで、イタリア派の筆頭はマルカントワーヌ・シャルパンティエ。シャルパンティエはヴェルサイユの要職に就くこともなかったという。国家の威信を背景にする批判があり、イタリアで純粋に学びたい音楽家たちは圧力をかいくぐって活動していたとか。
また、フランスにおけるクラヴサン音楽(チェンバロ音楽)の発展の前提に、リュート音楽の流行があるという。17世紀前半、フランスでは貴婦人のサロンが発展し、その花形楽器がリュートだったそうな。ロマンスには、ギター風の伴奏で歌うエール・ド・クール(歌曲)が欠かせない。クラヴサンに取って代わったのは、11本から20本以上の調弦を絶えずやらなければならないリュートの煩わしさにあるという。だが、手間をかけて雅を育むことで、高級芸術の雰囲気を醸し出すということはあるだろう。興隆時代のリュート音楽を代表するのはドニ・ゴーティエだそうだが、作曲家ではロベール・ド・ヴィゼを紹介してくれる。社交や舞踏の場にもギターが進出しつつあった時期に出現し、国王のギター教師でもあったという。

3. バッハの幾何学的構想
バッハの楽譜が図形的な美しさを持つことは、広く知られる。クロスしながら戯れる線の軌跡には、相似形、回転形、拡大縮小形といったユークリッド幾何学が現れる。いったい幾何学が、音楽とどう結びつくというのか?本書は、その様子を「ゴルトベルク変奏曲」で紹介してくれる。バッハの鍵盤作品中で際立って華麗な技法を連ねているのが、この曲だそうな。両手はしばしば交差され、名技性を高める。カノンのような厳格な対位法が随所に用いられ、それを3の倍数の変奏に割り振ったりと、数学的な構成が歴然であるという。目で見て秩序あるものが、耳に自然な自由を与えてくれるとは...
バッハは音楽を耳のためだけに書いたのではないようだ。知覚能力において、目と耳には何かつながりがあるのだろうか?感動する音楽や絵画に出会うだけで鳥肌が立つのも、なんらかの周波数を感じ取っているのだろう。人は芸術を味わうために五感を総動員する。幾何学や数学に美を感じるのも、そうした類いであろう。バッハは、人間のために音楽を捧げたのではなく、心の中に描いた彼自身の神に捧げたとでもいうのか。バッハが思考のBGMに合うのは、そのあたりにあるのかもしれん...

4. バッハの無伴奏チェロ組曲
チェロの独奏曲さえ稀であった時代、バッハは無伴奏による大曲を六曲セットで書いた。チェロはバイオリンほど小回りがきかないから、重音の乱舞するフーガだの、大きく積み重なるシャコンヌだのが登場しないという。サラバンド楽章ほどの重音で落ち着いた場面においても、たっぶりと多声的であるという。単音をかけめぐらせるだけのように見えるジグにおいても、複数の旋律を隠すような形で対位法的な仕掛けが施されているとか。
尚、ちと補足すると、無伴奏チェロ組曲は、プレリュード(前奏曲), アルマンド, クーラント, サラバンド, メヌエット, ジグ(終曲)という形式をとる。
バッハは、チェロという楽器そのものが和声的な効果を内包していることをしっかりと洞察していたという。低音域に発する豊富な低音が響きを融合させるのは、女性合唱よりも男性合唱の方がよくハモるのと原理は同じであると。無伴奏チェロ組曲第1番ト長調(BWV1007)は知名度が高い。だが、本書は第3番ハ長調(BWV1009)を薦めてくれる。フラウンス風の壮麗さとは、こういうものをいうのであろうか...

5. ヘンデルの開放感
ヘンデルの特徴は、なんといっても野外的な大らかさと開放感。その有名な逸話がある。イタリア留学を終えてハノーファー宮廷に招かれ楽長となり、その一年後、楽長在任のままイギリスに渡ってロンドンに定住。ところが、イギリス国王が交代し、ハノーファー選帝侯がドイツからジョージ1世を称して乗り込んできた。慌てたヘンデルは一計を案じ、舟遊びの際、美しい音楽を提供して、主君との仲直りに成功したとさ...
近年の研究では、この逸話が成立しないことが定説になっているそうな。それでも、水上の音楽が国王の舟遊びのために作曲され、テムズ河で演奏されたのは確からしい。高原風でもあるが、あくまでも水上の音楽とういわけか。
また、ヘンデルのオペラには難しい問題があるという。その理由の一つは、ナポリ派の流れを汲み、レチタティーヴォを挟むアリアの連続として書かれていることに起因するという。重唱は稀で、合唱もほとんど現れないため、短調な印象を与えかねない。個々のアリアは美しい旋律で綴られ、演奏効果も申し分ないが、完成度が高い分、羅列という印象も生まれやすいという。
さらに、ほとんどアリアが高音部譜表で、高声用に書かれているとか。それは、主役にカストラート歌手を使うため、どこまでもソプラノやメゾソプラノのアリアが続くということらしい。だからといって、男性役にテノールやバリトンを当てては、華やかさが失われる。したがって、ヘンデルのオペラ上演には、優れたカウンターテナー歌手が欠かせないという。そして、演出家が、それを強調してセックスアピールのある舞台を作り出す傾向があり、そのことがヘンデル人気を後押ししているという。
本書は、英雄オペラから「ジュリアス・シーザー」、魔法オペラから「アルチーナ」を紹介してくれる。ちなみに、ヘンデルは同じ歳のアレッサンドロ・スカルラッティと、ローマで鍵盤の腕比べをしたという逸話もある。

6. タルティーニの逸話「悪魔のトリル」
ジョゼッペ・タルティーニのヴァイオリン・ソナタト短調「悪魔のトリル」をめぐる逸話を紹介してくれる。夢の中で悪魔と契約したタルティーニは、悪魔がヴァイオリンを熟練と知性とをもって演奏しているのを聴いたという。だが、目を覚ますと、その曲を思い出そうにも思い出せない。彼は、自分の最上の作品を作曲し、それを「悪魔のソナタ」と呼んだという。そして、悪魔の演奏に遥かに及ばなかった、とつぶやいたとか、つぶやかなかったとか...
この逸話は、フランスの修道士の回想録に基づくもので、事実の裏付けはないそうな。

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