2015-03-15

"死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話" Elisabeth Kübler-Ross 著

古来、死は忌み嫌われてきた。これからも、ずっとそうだろう。死と対峙する心構えについては、偉大な哲学者たちが様々な処方箋を提示してきた。ソクラテスは魂の不死を唱え、キリストは死を霊魂の肉体からの解放とし、神に近づくための昇天とした。あるいは、絶望的な限界を生きることで真の自己実現を目指し、生と死、希望と悲惨を一体化するという考え方もあれば、死を無意味な偶発的事故として徹底的に無視するという考え方もある。
いずれにせよ、死の不安をいかに克服するかを問うことに変わりはない。人類はいまだ、死の意義どころか、その正体すら知らないでいる。おそらく、生の意義もよく知らないのであろう。俗世間では、命が最も大切だ!と声を揃えてやがる。数日後、数ヶ月後、確実に死が訪れる末期患者に対してもなお、この言葉で力づけられるとすれば、それは真理かもしれんが...

命とは、なんであろう。近代医療は、肉体という物理的な存在に対しては大幅な進化を遂げた。延命措置を駆使すれば、機械的に生かすことはある程度可能となり、薬漬けで無理やり生かされるケースも少なくない。死は生命体にとって最も身近な現象であり続け、これを避けることはできない。にもかかわらず、精神的な対処法となると、これを遠ざける。寿命が延びれば死は非現実世界へ追いやられ、メディアの無神経な死の扱いが同情を誘う皮相的な演出を呼び、死をますます冷めて見せる。人類の死に直面する能力は、低下しつつあるのだろうか...
その一方で、末期患者たちは、毎日の医師の回診や、定期的に薬を持ってくる看護師を、ただうつろに待ち受ける。お座なりに精神安定剤を処方し、さっさと追い払おうとしているに違いない... と心のどこかで呟きながら。彼らは、真の会話に飢えている。それは言葉なんぞではない。傍に居るだけで無限の安らぎを覚えるような、人間としての威厳を保つことができるような、そんな何かを求めている。ましてや婉曲法など無力だ。コミュニケーションの本質は、言葉よりも、むしろ沈黙の方にあるのかもしれん...

精神科医エリザベス・キューブラー・ロス、彼女は二百人以上もの末期患者にインタビューし、その接し方についての一つの学習モデルを提示してくれる。それは、死に向かう五段階の精神遷移を承知することである。第一段階「否認と隔離」、第二段階「怒り」、第三段階「取引」、第四段階「抑鬱」、第五段階「受容」...
これらの反応は、順序どおりに起こるとは限らないし、併発させることだってある。ただ、すべての段階に常に並行してつきまとうのが、希望ってやつだ。同じ人物でも精神段階によって求めるものが違う。生きることだけが希望ではないってことだ。現実に、死にたいと願う人たちがいる。それは、いいことがあるなら生きていたいという願望の裏返しでもある。もっと悲惨な仕打ちは、数十年、あるいは生涯、闘病生活を強いられ、生き地獄を生きる患者であろうか。
健康な人ですら生き甲斐を見つけることは難しい。実際、ほとんどの人が惰性的な安定や惰性的な幸せに縋って生きている。生き甲斐とは、死を迎えるための準備段階を生きるということであろうか。神経学者オリバー・サックスは、医師と患者は互いに対等で協力関係にあり、医師が患者を治してあげるといった類いのものではないと語った。キューブラー・ロスにも同じ視点を感じる。これは、受容の境地に達し得た人たちに、教師になってくれ!と頼んだ記録である...

「危険から護られるよう祈るのではなく、恐れることなく、直面しよう。苦しみの納まることを願うのではなく、それを克服する心をこそ願おう。人生の職場で同盟軍を求めるのではなく、われわれ自身の力をこそ求めよう。救われることを心配しながら求めるのではなく、自由を勝ち取る忍耐をば望もう。自分の成功のためのみに慈悲を当てにする卑怯者ではなく、わたしの失敗のなかにあなたの手の握りを発見する勇者でありますよう。」
ラビンドラナート・タゴール「果実採取」より...

1. インタビューの反応
人間ってやつは、優しい反面、残酷だ。インタビューを申し込めば、抵抗にもあう。だが意外なことに、猛烈に拒絶するのは医師や看護師たちの方で、自分の重大疾患を語りたがらない患者は少ないという。
「自分自身否認を必要としている医師は、否認を患者に見いだす。対決をためらわない医師は、彼らの患者もまた対決をためらわないことを見いだす。否認の必要度は、医師自身の否認の必要度と正比例する。だがこれはまだ問題の半面でしかない。」
十分苦しみました!そろそろこの辺で... と口にする者もいれば、いつも奇蹟を信じ、これが奇蹟です!もう怖ろしささえなくなった... と口にする者もいる。戦場のタコツボには無神論者はいないとよくいわれる、これは真理です... と語る者。そして、人工呼吸器なしでは生きられない筋萎縮性側索硬化症の患者は、意思能力が完全に麻痺し、ベットに横たわったまま感情を告げることもできない。だが、多くを話しかけるうちに微妙な反応に気づき、その眼は言葉以上に雄弁であったという。さらに、こんな題目を突きつけられると、もう言葉にならない。
「知恵の発達が遅れている子どもと幼女と、病気の老人二人を抱えて白血病で死んだC夫人の悩み」
人間にとって、死に直面することよりも孤独に直面することの方がはるかに問題なのかもしれない。人間は無に対して異常に拒否反応を示し、無駄、無意味、無価値といったものを忌み嫌う。死を無と重ね、無に帰することを極端に恐れる。それは、自己存在を否定する道だ。だからこそ、死にも意義を求めずにはいられない。
ようやく死を覚悟し、運命を受け入れる境地に達した者に、延命は却って残酷を強いることになる。タブーの言葉を避けようなどという配慮は、虚しさを強調するようなものか。そんなことは、少し余裕のある者の特権なのかもしれない。もはや彼らは、自分を曝け出さずには生きられない。それでもなお心が平静でいられるならば、理性の力は偉大となろう。
キューブラー・ロスは、末期患者たちと対話するには、まず死からの恐怖を取り除かなければならないと語る。告知に際しては、感情移入されているという情緒が大切であると。それは、戦友であることを明確に意思表示することだと。そして、彼女の患者のほとんどが、平和と威厳のうちに死んでいったという。人間らしく生きる権利を主張するならば、人間らしく死ぬ権利を主張してもいい...

2. 死に向かう五段階... 否認、怒り、取引、抑鬱、受容
誰でも最初は、目の前の不幸を信じたがらないものであろう。そして、現実逃避に走る。病どころか、自分の醜悪や愚行ですら認めようとしないではないか。自分が社会の役に立ち、組織の役に立ち、家族の役に立つと信じきっており、それが認められなければ、怒りを露わにする。ふと怒りが去っていくと、せめて苦痛や激痛を和らげてください!と祈り、神と取引しようとする。
やがて訪れる抑鬱には、「反応抑鬱」「準備抑鬱」の二種類があるという。二つとも性質が正反対なだけに、まったく違う接し方が求められると。思いやりのある人ならば、抑鬱の原因を探り出し、それにともなう非現実的な罪責感や羞恥心を幾分でも和らげることは、それほど難しいことではあるまい。自然な振る舞いが、反応抑鬱に対抗する態度となる。
しかし、準備抑鬱の方はどうであろう。世界との決別を覚悟するための悲嘆、これは本人が乗り切るしかない。周りができることといえば、物事をそう暗く絶望的に考えないように配慮することぐらいであろうが、却って仇となりかねない。空元気を吹き込んだところで、お前さんに俺の気持ちは分からんよ... となる。患者に対する無知と理解不足が、過度の干渉となり、鬱を助長させる。準備抑鬱は、冷静な心持ちで自己分析ができるだけに手強い。
「不可避の死を回避したいと闘えば闘うほど、死を否認しようとすればするほど、この不安と威厳とに満ちた受容の最後の段階に到達するのがむずかしくなる。」
これらの精神状態を乗り切って、いよいよ受容の準備が整う。しかしながら、この境地に達するための最も妨げとなる存在が、患者の家族という場合が往々にしてある。ある患者は、こう口にする。
「すでに死ぬ心構えが出来ているのに生きるために闘うことを強制されるのは悲しい...」
患者だけを救おうとしても救われない。死に向かう五段階は、家族も医師も看護する者も一緒に共有しなければならない。この共有こそが最も難しい問題なのであろう...

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