2015-03-01

"言語研究とフンボルト" 泉井久之助 著

ここに、フンボルト人間論という視点から言語学を語ってくれる書がある。それは、カントの批判哲学に触発されたドイツ精神史の一物語、といったところであろうか...
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、「一つの言語」という名辞を初めて使った人だそうな。この用語には、全人類の普遍言語を模索するという壮大な構想が伺える。言語が精神の投影だとすれば、言語の発達は精神の成熟度の指標となろう。本書で語られる言語哲学には、思想のための言語と実践のための言語の双方を凌駕すること、及び、様々な言語環境に身を置くことで自己育成を図ることを主眼とし、精神の発達を第一義的とする考えがあるようだ。そして、「内的言語形式(die innere Sprachform)」という用語を持ち出す。
「言語は常に人間の主観性の模写であろうとし、思惟は音形にはいって、はじめて客観的に認識されうるものとなる。主観と思惟は、言語において客観化されようと待っている。人間は、その思惟において生き生きと明瞭に認識するところは、これを言語に出さずにはいられない。しかし言語に表現する時には、同時に思惟において概念を判明にする契機がなくてはならぬ。フンボルトのいう表現とはこの判明化の意味である。」

言語は主観によってもたらされ、主観は客観に恋い焦がれ、記述によって客観化されようと望んでやがる。数学という言語には客観性と単純化という神が宿り、プログラミング言語には利便性と分かりやすさという神が宿る。だが、これらの神の正体は、いずれも直観による人間の思惑であって、直観もまた極めて主観に近い領域にある。
では、自然言語には、どんな神が宿るであろうか。言語の法則には法律と似た事情があり、国語学者は言葉の乱れに憤慨してやまない。それでもなお、詩人は孤高の道を行き、優れた文学作品は国語辞典を超越した表現力を発揮する。なるほど、芸術には自由精神という神が宿るようである。
人類が精神の正体を知らぬ今、言語に変化の余地を残さねば、精神を存分に記述することはできまい。言語の体系を語るのに、どんな合理的な記法を持ってしても、思弁的にならざるを得ない。ソシュールの記号論にしても、チョムスキーの深層構造にしても、なるほどと思わせるものの、それですべてが解決できるとは思えない。人間社会の多様性を相手取ることは極めて手強く、いまだ言語学は無限の坑道にある。したがって、言語には自由と柔軟性の神が宿るとしておこうか...
「態度と方法は、われわれにおいて自由である。何の主義、何の態度、何の学説によらなくてはならない... ということはない。過去でもそうであったし、将来もそうであるにちがいない。われわれは進んでみずからの手を敢えて縛る必要はない。対象は言語自体であって、その学説ではない。」

この時代、万能な天才を多く輩出したルネサンス時代から啓蒙時代を経て、まだその思想的余韻が残る。何事も本質を見極めようとすれば、学問の垣根に囚われることなく、自然に学際的となるであろう。
当時、フンボルトは様々な学問に精通した異色の政治家として知られ、学問では弟アレクサンダー・フォン・フンボルトの方が自然学者として知られていたようである。ナポレオン戦争後のヨーロッパ再編の時代、フンボルトはプロイセン第二位の全権大使として活躍。政界を隠退し、本格的に言語学者の道を歩むことになったのは、根っからの真理の探求者であったからであろうか。早朝から深夜まで制約がなければ、精神を存分に解放できる。真理の探求者にとって、これほど喜ばしい環境はない。現役から隠退した途端に生き方が分からなくなるとしたら、それは生きてきたのか、生かされてきたのか。そもそも人間は、死ぬまで人間を隠退することはできない。どんなに自発的に生きていると信じていても、人間は何かに依存せずには生きられない。精神活動が記憶と知識に頼るしかないとすれば、既に言語によって支配されている。確かに、言語を超越した精神活動は存在しうる。だが、それを記述できなければ、後世に残すことはできず、もはや永劫回帰は望めまい。ソクラテスがあえて記述を残さなかったのは、言語の限界を悟っていたからであろうか?フンボルトの言語研究の立場は、この言葉で言い尽くされている。
「人間は言語によってはじめて人間である。しかし、その言語を考案するには、すでにまず、人間でなくてはなるまい。」

1. 政治家フンボルト
ナポレオンの圧政から解放されると、全ヨーロッパでナショナリズムが目覚めていく。啓蒙主義の伝統は国家啓蒙主義へと微妙に変化し、やがて訪れる国家民族主義への変貌を予感させる。フンボルトもまた反フランス的な愛国者だったそうな。彼の全権としての立場は、こういうものだったという。
「国家を損なうのは戦争ばかりではない。防衛の手段を奪われて敵の餌食になるなら、平和こそ却って国家を頽廃に導くではないか...」
政治と学問の両刀使いの新しいタイプの政治家は、論理は鋭く弁が立ち、外国からも警戒される。オーストリア宰相メッテルニヒを筆頭に。とかく才ある者は身内からも疎んじられるもので、プロイセン宰相ハルデンベルクからも疎まれる。タレーランは詭弁主義の権化と罵ったものの、その才能は認めていたようである。
フンボルトの構想は、南はオーストリアを北はプロイセンを盟主とし、全ドイツの愛国主義的な大同団結を図ろうというもの、そして、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝を復活させ、進歩的な立憲君主国家を構築しようというものだったようである。イギリスの自由選挙制度を批判し、ルソーの社会契約論を斥け、モンテスキューの三権分立をもプロイセンの伝統に合わないとし、その上で、国民に道徳的な義務を植え付けようと。道徳や理性という美しい理念の強制によって団結を図ることほど、国粋主義と結びつきやすいのも確かだ。緩やかに結ぼうとするメッテルニヒと、頑強に結ぼうとするフンボルトの対立は、憲法案において鮮明になる。だが、ドイツ憲法は充分に機能していなかったようで、後にビスマルクがまとめた国は小ドイツであって、オーストリアは加わっていない。
政治思想とは、哲学的な理念を押し立てることから出発するものであろうが、理念だけでは政治的に無力となる。1819年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、宰相にハルデンベルクとフンボルトのどちらを選択するかを迫られた時、ハンデンベルクを選んだ。そして、政界を去る。

2. 自己育成と国家機能限界論
人類は、宗教の限界を経験し、国家の限界を経験してきた。自由精神は、どんなに優れた思想をもってしても、どんなに強力な武力をもってしても、強制などで鎮圧できるものではない。だが、有識者どもは、けしからん!と憤慨しながら、罰則の強化によって鎮圧するよう求める。相対的な価値観しか持てない人間にとって、自分の道徳観に自信を持つということは、他人の道徳観を蔑むことになろう。人間には、自分の理解できないものを認めようとはしない性癖がある。だから、第三者の目を要請する。精神を外界に晒すことは、けして自己を失おうとするものではなく、むしろ自己の素材を内的に検証することである。言語とは、そのための役割を果たすものであって、コミュニケーションやプレゼンテーションの手段であるばかりではあるまい。比較言語学とは、なにも言語や文化の優越性を掲げるものではないはずだ。
しかしながら、言語学が政治と結びつき、やがて民族優越主義の時代を迎えることに。フンボルトにもエリート主義的な態度が見られるものの、環境の多様性を自己育成の必要条件としている。ジャワ島のカヴァ語といったマライ・ポリネシア諸言語の広範な比較研究では、現地調査の執念を伝統とし、レヴィ=ストロースなどの民族学者に受け継がれているものと思われる。そして、自己育成に「国家機能限界論」を結びつけている。
「単なる力にもその働く場としての一つの対象が要る。単なる形式... 純粋な思想... にも、自らの刻印を印しつつ自らを永続せしむべき地盤として素材がいる。同様に人間にとっても自己以外に一つの世界がなくてはならない。自己の活動と認識の圏を拡大しようとする人間の努力は、このゆえにこそ起こりうるのである。しかしこの世界から得、もしくは世界において自己の外に実現しうるものは、実は人間にとって真の問題ではない。問題はもっぱら自己を内的に改善し高貴にするにある。あるいは少なくとも内的な不安の鎮静にある。純粋に、その窮極の目的性において見れば、要するに人間の思惟は、自己を自己に対して完全な理解の対象たらしめんとする精神の試みであり、人間の行為は自己内において自由であり独立であろうとする意志の一つの試みであり、その外的な営為の全体は一般に、自己において懈怠にあらざらんとする一つの努力に外ならない。そして思惟と行為の二つの実現は、ただ第三者、すなわち非人間的なるもの、すなわち世界の表象とその加工によって可能なのであるから、人間ができるだけ世界の多くを把握し、能う限り緊密にこれと結ぼうとするのも、また自然の勢といわなくてはならない。」

3. 言語研究と言語哲学
啓蒙思想から受け継がれる科学的な洞察が、構造主義的な観点を育んできた。19世紀初頭、印欧比較言語学が成立して、フンボルトのインド・ヨーロッパ語族の研究が花開く。
フンボルトの科学的分析は、物象性、外対性、特に音形性で成果を上げたという。人間の口の形はだいたい決まっていて、発する周波数が限定的だから、音声学は物理学である程度説明がつく。
しかし、意味論においてはどうだろうか?それこそ客観性や形式性からは程遠い。フンボルトの意図は、科学的な見地よりも精神分析に重きを置いている。比較言語学が機能するのは、比較対象が相互に類似点を持っている場合においてだが、人類の扱う言語はどんなものでも類似点を見つけることができると信じていたようである。言語を客観的に解明するということは、まさに人間精神を解明するに等しく、主観に支配された精神をどうやって記述するか、という途方も無い問題を抱えている。フンボルトがア・プリオリ的な直観主義者であったことは、必然なのかもしれない。
本書は、似たような思想路線の言語学者に、ノーム・チョムスキーを紹介してくれる。チョムスキーはフンボルトと等しく、またヒュームの説くところとも似ているという。ただ、チョムスキーの用語に「深層構造」という階層的な方法論があるが、本書は論理的な根拠は見いだせないとしている。ロマーン・ヤーコブソンの音形論も論理実証的な考察に基づく理論として知られるが、これまた一般言語論には至らないとしている。ソシュールはデカルト的な清掃工作を言語学の方法論に試みた人と言われるらしいが、一応成功するものの、彼もまた経験的な言語学者として一般性の域に達していないとしている。
こうした理論は数学的過ぎるということであろうが、そもそも自然言語を完全な法則や理論に当てはめることなどできるのだろうか?今日では、むしろコンピュータ科学の分野で役立ってきたと言えよう。プログラミング言語における構文解析や字句解析、あるいは、通信設計における語彙の作成と配列、検索技術などで実用性が高い。どんな言語を用いるにしても、例外的な扱いが生じる。数学ですら不完全性定理に見舞われているではないか。どんな学問であれ、一般性と普遍性は混同されがちである。三角形の内角の和が二直角に等しいということは、ユークリッド幾何学における一般性であって、宇宙における普遍性ではない。言語研究と言語哲学の違いとは、こうした一般性と普遍性の探求の違いに表れているのかもしれない。
直観は偉大であるが、人間の言語能力を生得的であると信じるがあまりに、思考を硬直させる恐れがある。そこで、哲学者クヮインという人物を紹介してくれる。どこかで聞いた名だが、クワイン・マクラスキー法の???どうやらそうらしい。カルノー図と同様の目的で使われるブール関数を簡略化する方法で、コンピュータ工学を学んだ人なら聞いたことがあるはず。クヮインは物理学にも精通し、経験的な見方も取り入れて、無限性においてはチョムスキーよりも分があるという。言語研究の流れは、科学的な立場から受け継がれる面が強いようである。
では、こうした傾向に対して、フンボルトの言語哲学はどうあり続けたのであろうか?はたして彼は、言語の本質を掴み得たのであろうか?それも疑わしい。既に数千年の歴史が、それは不可能という結論を出しているのかもしれん。フンボルトは、一般文法なるものを嫌ったという。多くの言語から浮かび上がった論理的操作、すなわち結果論に過ぎないとして。
「私は無限に富んでいる、何となれば地上に私が有効に摂取し得ないものは一つとしてないから。しかもまた無限に貧しい、何となら到達し得べからざるものへの憧憬が常に私を満たしているからである。かつて私は宗教的だったことはない。しかも篤信の人と全く異なるところがない。何となれば私は所有し把握し得べからざる無限なるものに常に心を惹かれ、最も好んで畢竟、永遠なる一つの理念において生活しているからである。」

4. 言語の分類
「言語は本質的に総合である。そして一つの連続体である。」
文章は順序正しく直線的に書かれる。しかし、文豪の手にかかれば、立体的な像を見せてくれる。ページ順に行儀よく並ぶ文字の大群が一斉に押し寄せると、頭の中で再マッピングされ、記憶と精神の空間において有機体のような存在となる。それは、文法論だけでは説明できない精神現象だ。文法には、一般的に規定される外面的なものと、暗黙のうちに自我に形成される内面的なものがある。フンボルトが問うたのは、内的現象の方であろうか。
「若干の固定したクラスに言語を分類しようとするのは悲しむべき思想である。それはまた言語の生きた個性を抹殺するものだ。」
しかしながら、本書に示される四つの種別も、若干の固定したクラスに映る。言語を構造的に分類する場合、「孤立語」「膠着語」「屈折語」、そして、フンボルトが土着言語の研究から唱えた「抱合語」の四つに種別する見方があるという。
屈折語は、原則として意義部と形態部(文法部)とを切り離せないという。意義と文法的役割が、同時にしかも有形的に与えられる特徴があると。主語として立ち、格、数、性において形容詞の形を決定し、数において動詞と一致し、文全体の可能性を決定している。しかも、文における個々の語の独立性は、このために却って明瞭である。単位においても全体構造は予想される。こうした特徴から、総合的に最も完全で最も自由であるとしている。
膠着語は、意義部と形態部の総合が充分でないという。単に接合があるのみで、屈折語のような融着はないと。
抱合語は、原則として文形の全体が固定し、総合の作用には全体を予想する単位と、単位を予想する全体の自由な交流による軽快で冷静な活動がないという。
フンボルトは、これら四つのタイプで、屈折語こそが最も完成度が高いとしたようである。そして、最高位から屈折語、膠着語、抱合語、孤立語の順に評し、サンスクリットとシナ語は屈折と孤立において両極をなすとしている。
ただ、このようなランク付けは独断的な印象も与える。フンボルトがインド・ヨーロッパ語族主義と言われる所以であろうか。西欧中心主義の旺盛な時代ではある。実際、哲学するのに最も適した言語はドイツ語とする哲学者は少なくない。英語は現象の言語で、ドイツ語は理念の言語である、といった具合に。文学作品を、英語で読むのとドイツ語で読むのとでは、ニュアンスも大きく違うだろう。現代の傾向では、屈折語的な特徴が失われ、孤立語的、膠着語的な性格が強まり、特に英語において顕著なようである。源氏物語のような古典を読む場合でも、古典語と現代語では印象が随分違う。言語で精神を完全に記述できないとすれば、文学や哲学の作品では、言葉の裏を読むという技術が求められる。作者の意図を汲み取るには、読者の側からも登っていくしかあるまい。
しかし、情報が溢れる社会ともなれば、分かりやすく簡易的な文章に群がり、文章を隅々まで読むよりもインデックスの検索に注力する、といった皮相的な傾向を強める。

5. シラーやゲーテとの親交
フンボルトが主観主義であったのは、カントの影響というより、カント研究に没頭したシラーの影響のようである。その理想は、カントの批判精神に、プラトンやアリストテレスに発する美的精神を融合して、人間論を完成させようというもの。フンボルトはある論文を発表した時、こう言ったとか、言わなかったとか...
「内容はカントのごとくであって、カントのようではなかった。だからカントはよく解らない!」
カントを知り尽くしたという自負があるからこそ、あえてこう言ったのかは知らん。
また、古典の翻訳作業では、ゲーテに手助けを乞うているそうな。ゲーテの詩「ヘルマン・ウント・ドロテーア」は、ホメロスと同じようにダクテュロスの六脚韻を踏んでいるという。ゲーテとは、古代哲学を尊重する観点から意気投合したようである。哲学の究極目的は、人間そのものである。あらゆる美学は人間性に起因し、それゆえに美と道徳も一致することができる。芸術は、趣味を超越した自己育成をもたらすであろう。客観性は、人間性を排除しようとする試みであり、主観性を崇める理由がここにある。それは、客観性を排除しようとするのではなく、相補関係にあろうとすること。ゲーテは、こう語ったという。
「主観のなかにあるすべては客観のなかにある。しかもなおそれだけでは納まらない、何かまだあまりがある。客観のなかにあるすべては主観のなかにある、しかもなお何かあまりがある。」

6. 近代言語学事情
「少なくともその主流を占める近代の実証的な言語学は... 言語という心理的、社会的、または人間的な現象は、どのようにしてこれを最も合目的的に記述し理解すべきか... を、問題としている。言語は何であるか... あるいは、言語的総合はどうして可能であるか... のような思弁は、それぞれ哲学の分野に依託して、一応はかえりみるところがないと、いってもよい。言語学の問題の据え方においては、言語の存在と作用の客観的な現実性は、自明のことだとしているのである。」
言語学には歴史性の他に共時性という見方があり、さらに、比較言語学や音声学といった見方も現れ、そこに心理学が結びついてきた。そして、社会学や人類学の領域まで踏み込み、方言や言語の分布という観点から言語地理学という分野も開拓されてきた。このような様々な合理的な分析は、西洋を中心に行われてきたが、極めて思弁的であることも否めない。
本書は、言語学の勃興、凋落が特に激しくなったのは、第二次大戦以降だと指摘している。あらゆる分野に科学技術が導入され、新言語理論は主にアメリカで起こる。数理・計量言語学である。こうした数学的な理論が、充分に言語の用法とは合致せず、一般言語理論として発展するには至らなかったという。さらに、モリス・スウォデシュという人が言語年代論を唱えてから、外象的な面に囚われるようになったと指摘している。
しかしそれは、言語学だけの問題ではあるまい。社会全体、ひいては精神に関わるすべての学問が抱える問題であろう。大昔から弁論術や修辞学がもてはやされ、現代ですらプレゼンテーション技術が象徴するように、そこそこ理があって、見栄えの良いものに目が奪われがちだ。メディアが発達するほど、群れの本性を目立たせるだけのことかもしれん。ステレオタイプ的な見方や流言蜚語の類いなど、概して人間は噂話がお好きよ!

0 コメント:

コメントを投稿