2015-03-22

"続 死ぬ瞬間 最期に人が求めるものは" Elisabeth Kübler-Ross 著

死にゆくことは難しそうだ。受容の境地に到達した者ですら、それは辛かろう。生まれる者は死が運命づけられる。人間にとって、これほど偉大なイベントが他にあろうか。なのに、この二大イベントの扱いはまるで正反対。誕生は祝福され、死は口にすることすら忌み嫌われる。寿命が延びれば未練も先延ばし。これだけ技術進歩を遂げておきながら、死観だけは置き去り。近代社会は死を語ることをますます難しくさせ、現代人はまさに死否認社会を生きている。
しかしながら、本当に難しいのは、生きぬくことの方かもしれん。死は向こうからやってくる。そこに熟練した精神力はいらない。死を理解する必要もない。テクノロジー社会が医療施設の能率主義や合理主義を助長させ、非人格化を促す。そんな場所で、人間の威厳を保ったまま死を受け入れることができようか。命が一番大切だと叫ぶ社会で、死にゆく者にどう生きろというのか。生とは、死をもって学びうるものということか...

精神科医エリザベス・キューブラー・ロスは、「死と死ぬことのレディ」として知られる、と自ら語る。彼女の著作「死ぬ瞬間」では、末期患者が死に向かう五段階の精神状態について語ってくれた。それは、否認、怒り、取引、抑鬱、受容への精神遷移である。ここでは、受容の段階に到達した患者の境地が中心に綴られる。ほとんどの末期患者は、人に知ってもらいたいと願っているという。自己存在を確認するために。だが、孤独は現実に目の前にある。自己を狼狽えた孤独へ導くことは容易いが、平安な孤独へ導くことは難しい。
では、自己存在を確認する必要がなくなれば、静かに孤独を謳歌することができるだろうか?キューブラー・ロスは、死は成長の最高のパートナーになりうると語る。彼女の言葉から、末期患者と向き合う医師の叫びが聞こえてくる... 病いには癒やしを... 怪我には救いを... 苦しみには安堵を... 悲しみには慰めを... 絶望には希望を... 死には平穏を... そして、医療技術や権威の正当化よりも患者を見よ!... と。
告白できずに死んでいく者は多い。告白してもなお生き続け、告白の報いを受ける者もいる。告白して死んでいける者は、まだしも幸せかもしれん。人間らしい生き方というものがあるとすれば、人間らしい死に方というものもあるはず。これは、一人の医師が末期患者の戦友であることを表明した記録である...
「死の理解をもとめる人々にとって、死はきわめて創造的なひとつの力である。生の最高の精神的価値が死への思索と研究とから生まれでるからである。」

ところで、尊厳死とは、どういうものを言うのであろうか。欧米社会には、安楽死を合法化する動きが見られる。社会が多様化すれば、死生観もまた多様化していくだろう。近代医学は、延命治療をますます進化させる。だが、そうすることによって苦悶を長引かせるだけに終わるケースも少なくない。医学生たちは、死に向かう心理よりも、肉体に対する物理的な措置の方を多く学ぶ。医師が少しでも死期を早める措置をとろうものなら、メディアは理性の検閲官を自認して袋叩きにし、本人の求める積極的な死ですら殺人と見なす。社会がどんなに合理化へ邁進しようとも、精神の合理化となると躊躇してやまない。あらゆる価値を貨幣換算しておきながら、人間関係をば仮想世界に追いやっておきながら、自分の命となると肉体という物理的な存在に縋る。死の定義では、いまだ古代哲学は輝きを失わない。つまり、人類は生ですら明確に定義できないでいるということか。ショウペンハウエルは、死を「真の霊感を与える哲学の天才」と呼んだとそうな。トーマス・マンは、「死というものがなかったなら、この地上に詩人は生まれなかったろう」と述べたとそうな。「死がその鑿(のみ)をもって彫ったのではないどんな思想も、わたしのなかには存在しない。」と言ったのは、ミケランジェロだとか...
仏教的な教理には、目覚めた者はいかなる欲にも執着しないという考えがある。快楽に執着せず、苦痛からも逃れようとしない。大切なものは、生でも死でもなく、ただその時を待つのみ。無欲と瞑想が、死の回想をもたらすと。いよいよの時に慌てふためくことがないよう、ひたすら知性を磨きながら待つ。それは、受動的な禁欲などとは違う。積極的な無欲であり、自然な風狂を生きるということだ。死を克服するとは、生を克服することにほかなるまい...

1. 死生観
死は人間にとって普遍的な問題。しかし、その答えは文化圏によって大きく異なり、死の意味も自ずと違ってくる。日本では、死人に白装束を着せる風習があり、「死に装束」とも呼ばれる。現在では、葬儀は忌み嫌われる儀式となっているが、古くは、死に召されることは神霊にゆくとされた。死ねば浄土!死はけして恐れるべき対象ではなかった。生の世界に絶望すれば、死後の世界に夢を託す。
では、死してもなお希望が持てるとすれば、死ぬ瞬間まで平穏に生きることができるだろうか?かつて、武士は恥を忍ぶぐらいなら死を選んだ。切腹の苦痛を和らげるために介錯という作法があった。これを残忍と見るかは、死観によって違ってこよう。世界に目を向けると、死者が天国に迎えられるための、めでたい儀式と捉える地域は少なくない。その一方で、遠い過去の大罪人に対して、その墓石を踏んづけ、ツバを吐きかけるといった行為も見かける。パスカルが言ったように、どんな人間も狂気するものだとすれば、そこまで憎悪を引きずるものであろうか?と問うてみても、人間はそう簡単に寛容になれそうにない。人間ってやつは、集団的信仰に憑かれた残虐行為を平気でやる動物だ。そして、憎悪の狂気が正義を暴走させ、建設的な反省を放棄し、別の形で大罪人を創出する。もはや死にゆく者にしか、精神修行のための静寂な空間は訪れないというのか...
一方で、末期患者が告知を受けると、自分探しの旅に出かけるという話をよく耳にする。自己実現のための孤独の旅へ。残り少ない人生だからこそ有意義に生きたいと願う。それは、寿命が延びると、怠惰になり粗末に生きるということの裏返しか。権力欲に憑かれて他人を貶めたり、貨幣的な所有物を増やすことに執着したり、仮想的な人間関係を増やすことに躍起になったり... とエネルギーを浪費すれば、生の最終章を完結させる準備を怠る。生の意義は、死を考えることによってしか見出せないというのか...
「死を恐れることはいらない。気にすべきことは肉体の終わりではない。それよりも、生きている間は生きること... おのおのが誰であり何者であるかの外面的な定義づけに合うように工夫されたファザード(前面)のうしろに隠れて生きているような生き方に伴う霊的な死から、内的自己を解放すること、これがわれわれの関心でなければならない。」

2. 受容の覚醒
死に意義を求めること、それは生の意義を求めるに等しい。つまり、二項対立の原理を克服することである。それは、相対的な価値観しか持てない生命体の宿命であろう。絶対的な価値観の持ち主とされる神ですら、天国に対して地獄をこしらえ、人の運命を弄んでやがる。利便性や自動化によって、なすがままにOKボタンを押しつづけた果てに、誘導サイトに辿り着くかのように。魂が天高く、データの塊のごとくクラウドへ消えていくのか。いずれにせよ地獄への道は、敷居が思いっきり低いことは確かなようである。
二項対立の原理の果てに、苦悩の全円環を回り終え、いよいよ死に挑む。これが自然の摂理というもの。はたして死は、生からの解放をもたらすことができるだろうか?本書は、一つの受容モデルを提示してくれる。
「恵みとしての受容... この覚醒の次元では、人間として、かすかな潜在可能性すらもなしに出発することができる。ゼロから出発するのである。人間が存在するとは、そのことが、誰か他のひとにとって何ものかである。何らかの意味をもつ、ということにほかならない。いまここにこうしてあるという存在を、自力では、単独では、直接には創りだすことはできない。それはもうひとり別の人の存在から与えられるだけである。それはひとつの恩恵なのである。」
孤独の中に自己を発見するということは、自己信頼を深め、自己充足とならなければならない。それは、極めて自己中心的な考えでもあるが、悪い意味での自己中心ではない。啓発された利己主義とでもしておこうか。ここには、知性の役割とは何か?という問い掛けが内包されている。あるいは、信仰の意義とは何か?と問い直してもいい。
患者たちは、自己破壊の道に踏み入ろうとしている。内的葛藤も、病的な罪悪感も、倦怠も厭世も、どうしようもない鋭利な孤独感も、自己の否認、拒否から始まるという。それを救えるものは、信仰と信念だとしている。
とはいえ、信仰を成すものは、なにも宗教とは限るまい。科学者たちは、独自の宇宙法則的な神を構築してきた。いわば、知性の延長上としての信仰だ。どんな学問でも普遍性なるものを探求すれば、自ずと宇宙論的な信仰へと向かうであろう。哲学を伴わない学問や技術は、単なる手段に成り下がる。宗教的方法論として無条件に信じさせることは、集団性と相性がいい。対して、健全な学問は健全な懐疑主義をもたらし、孤独と相性がいい。
はたして、知性の鍛錬を死の準備段階とすることはできるだろうか。ゴードン・オールポートという心理学者の著作には、成熟したパーソナリティの三つの人格特性について記述されているそうな。自我を洞察する自己客観性、メタ的観念、反省的視点といった能力である。人間には、自己存在の意義を見直すことによって、アイデンティティの再構築を図る能力を自然に具えている。人生はいつでもやり直せると言われるが、死に向かう時ですらそれを信奉できるとすれば、真の自己実現をもたらすかもしれない。それは、過去に培ってきた知性によってもたらされるのであろう。自己否定に陥ってもなお、心が平静でいられるならば、知性の力は偉大となろう。
「死にゆく患者が自己憐憫を主調とした人間関係にいつまでもとどまっていず、他の人々と対等の関係へよろこんで入っていくという心的態度は、オルポートの自我延長(自己拡張)といっているものに匹敵する。オルポートはこれを、"自分の身体と自分の物質的所有物以上のものに関心をもちうる能力"と説明している。」

3. 葬式宗教
「葬式とそれに先立つ準備について考えるとき、あなたの心にどんなイメージが浮かんでくるだろうか。自然的とみられるような人工的メーキャップをうけた肉体。礼儀正しくかつ不誠実な会葬者たち。泣くのは未熟の証拠ということだからと涙を必死に抑えること。偽善的で無意味な祭式。非人格的で無神経な人間の群れ。これらは、葬式とそれを取り巻く一切について、ほとんどの人々が抱く典型的な反応の一部である。多くの人々にとって、葬式は無意味で不愉快な儀式となりさがっている。」
日本では、葬式仏教やら、坊主丸儲けやら、と揶揄される。葬儀屋とお寺さんが組んで、そこに病院が絡むという構図だ。戒名料で死者を格付けし、お布施でベンツを乗り回すとは。霊柩車で初めてベンツを体験をする親族も少なくあるまい。宗教は、生身(ナマモノ)は扱わないってか。生きている間は生きている者同士で付き合い、死んだら死んだ者同士で語り合い、生きている者に邪魔されたくないものだ。
葬式に集う人の数、花輪の数で、その人の価値が決まるなどと発言する人も見かける。じゃ、孤独死を覚悟し、共同墓地に入ることを承知した者は価値がないとでもいうのか?そのくせ、大勢の孫たちに囲まれて賑やかに死んでいくことを願ったり、盛大な葬式を願ってビデオレターで演出したり、生前葬をやっては生への未練を断ち切れないでいる。自己を慰める術を知らなければ、他人の同情を引くしかない。
一方で、生まれながら、孤独死を運命づけられた人たちがいる。それでもなお犯罪に及ばず、自殺もせず、誰の慰めも受けずに生を全うできるとすれば、どちらが偉大な精神の持ち主であろう。あるいは、ホスピスのような施設で、死に向かう者同士で集い、分かち合い、静かに死んでいくことを望む人たちもいる。家族や友人には死後通告だけを依頼して。せめて苦痛を和らげてくれるよう医師に縋り、安楽への道があると信じて...
「その人の死と生の質がどうだったかをいえるものは結局、死にゆく人である。死が充分によく生きられた一生のしめくくりであったか、それともこの世で過ごしたある年月の終端であったかという、その人の生の基調が何であったかを決めるのは死ぬ当人である。」

4. 信仰の先生
本当に宗教を必要としているのは、どんな人間であろう。数理論理学者レイモンド・スマリヤンはこう語った... 子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい... と。
知性を伴わない者に、宗教は危険な存在となろう。精力溢れる者に、神の救いは必要であろうか。だが、宗教勧誘は、まさに生に溢れた者を対象にしている。お布施で見返りを求める余裕のある者を相手にしている。人間ってやつは、自分が良い目にあうと、他人にも勧めたくてしょうがないものらしい。
宗教を営む人たちもまた健康な身体の持ち主であって、死に向かう人と対面するにはよほどの熟練を要するだろう。博愛や友愛などという言葉では救われない。皮相的な人道主義はむしろ厄介。それでも紋切り型の儀礼や死観を押し付けて、自己実現を阻もうと仕掛けてくる。自我を相手取るよりも手強い相手だ。
いまや、成長の定義も問い直さなければなるまい。潜在意識と葛藤する自己実現の道とは、いかなるものであろうか。それは、一切の価値観を逆転させる道であろうか。絶望、孤独、喪失... といった俗世間で忌み嫌われるものに価値を求める道であろうか。自ら地獄へ誘なうような。まるで自虐の道。もはや、幽体離脱していく自我の力を信じるしかあるまい。
しかしながら、仕事を辞め、人間関係を断ち切り、贅沢な趣味を棄て、財産を放棄し、まるで聖人にでもなるような精神修行を積むなんて、おいらには無理な話よ。自我が自我を見つめ直し、自惚れを消し去ることなどできようか。そうしたものが受容の段階だというのなら、そうしたものを教えられる教師がいるとしたら、それは死にゆく人たちだけということか... そうかもしれん。

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