2015-03-08

"言語と精神" Noam Chomsky 著

泉井久之助著「言語研究とフンボルト」によると、ノーム・チョムスキーはフンボルトの路線にあり、またヒュームの説くところに似ていると紹介される。それは、カントの批判哲学に継承される直観主義的な学者だということである。
幼児には、生まれつき言語を習得する能力が具わっている。生まれたばかりの餓鬼には、純粋な共通観念のようなものが見えるのだろうか?もし、この世に普遍言語なるものが存在するとしたら、プラトンが唱えたイデア的な存在、すなわち精神の原型をとどめた者にしか見えないのかもしれん。
しかしながら、一旦知識を獲得すると、知識のなかった頃の自分を思い出すことは難しい。高名な学者たちですら、科学的な見識を重んじるあまり、計量や数値化に因われているではないか。言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を知れば、それをひけらかさずにはいられない。人間精神ってやつは、知識が蓄積されるほど生得性から遠ざかり、何事も理屈で説明できないと落ち着かないものらしい。なるほど、言語の習得とは、自己に言い訳するための屁理屈論であったか...

能書きはさておき、言語機能を一つの有機体として捉える考察は興味深い。一般的に言語能力と呼ばれるものは、自明な精神現象とは言い切れず、仮説の域を脱していないように映る。あるいは、暗黙に前提されるぐらいなものであろうか。
本書は、ア・プリオリな習得能力をもって「生成文法」なるものが育まれるとし、さらに第二言語の学習戦略にまで議論が及ぶ。そして、行動科学は、実際に生じる行動パターンに目を奪われ、心的現象から遠ざかりつつあると指摘している。なにも構造言語学や分類学といった科学的な見識を否定しているわけではなく、一定の成果を認めつつも距離を置いているようだ。
確かに、近代言語学が経験主義的であることは否めない。そうなると、二段階の考察が必要になりそうだ。つまり、言語が生得的に発達する段階と、知的に発展する段階である。本書においても、科学的な分析を取り入れながら「深層構造」「表層構造」の二つの層に着目し、双方を繋げるための直観的な操作に「変形生成文法」という用語を持ち出す。粗削りな見方をすれば、深層構造で意味解釈を与え、表層構造で文法形式を与えるという役割分担になろうが、そう単純ではない。ソシュールは、記号を構成する要素に意味的なものと表象的なものを区別しておきながら、その不分離性を唱えた。身体と魂のごとく、けして切り離せないモナドのような存在と言わんばかりに。
しかしながら、自己精神の中で合理的な文法形成と心理的な意味解釈の融合を図っても、主観は客観を鬱陶しく思い、客観は主観を罵ってやがる。言語の研究から、教示的なことは何一つ言えそうにないではないか。精神を相手取る理論では、様々な変種が生じるのも道理というものか。チョムスキーやフンボルト、あるいはソシュールやヤーコブソンの理論が一枚岩ではありえないし、様々な批判的立場が共存するのは健全であろう。それは人類が、いまだ主観と客観の双方を凌駕できないでいる証であろう...

ところで、言語ってやつは、生活習慣に最も密接に関わるくせに、その正体は見えない。言語とは、やはり空虚な存在なのか?そんなことは問わずとも、薄々気づいている。愛の言葉によって...
精神に関する学問が困難を極めるのは、あまりにも身近にあるからであろう。人間ってやつは、外的な問題に対してはすぐに難癖をつけるくせに、自己の問題となると沈黙しやがる。自分の事を知っているという自負が、もはや疑問すら持てないでいるのか?
ウィトゲンシュタイン曰く、「事物の最も重要な面は、単純さと身近さゆえに覆い隠される。」
もしかしたら、人間は自分が人間であることも、人間がなんであるかも、知らないのかもしれない。デカルトは、物理現象の説明原理に精神の存在を要請して「哲学原理」を書した。ニュートンは、説明の根拠に完全な原理を求めて「自然哲学の数学的原理」を書した。ニュートンもまたデカルトに対抗して、精神までも含めた原理を数学で説明しようと目論んだのであろうか?精神の原理を説明するのは、やはり芸術家の方が優っていそうだ。芸術家が新たな境地を求め続けるのは、人間であり続ける日常に退屈しているからであろうか?ヴィクトル・シクロフスキーという言語学者は、こう語ったという。
「海辺に住んでいる人々は波のささやきに慣れてしまって、それが彼らの耳に入らない。同じ経緯で、われわれには自分たちの発する語が決してと言ってよい程に耳に入らない、... われわれは互いに見合うが、お互いがもはや目に入らない。われわれの世界では知覚は萎え凋んでしまって、残っているものは単なる認知作用である。」

1. コンピュータ神話
1950年代初期、言語学に著しい凋落が生じたという。ヒルベルト問題が提示されたのが1900年、すべての物理現象は数学で解決できると意気込んだ科学者に、ノイマン型コンピュータという強力な武器が加わった時代である。精神という最も神秘的な現象までも、科学で説明できる日はそう遠くないと信じられた。今日ですら、機械翻訳や自動要約といったツールを、鵜呑みにする人を見かける。多言語間で単語と単語を一対一に対応づけ、数学的に定式化したアルゴリズムを崇める人も少なくない。
確かに、通信工学における数学理論は、語彙の作成と配列、あるいは検索技術などで実用性を高めてきた。オートマトン理論を神経学と結びつけたり、音声学をスペクトル解析と結びつけたり、といった技術は一定の成果を挙げている。構造主義的な発想から、刺激(stimulus)と反応(response)を入出力信号と結びつけて、S-Rの心理学を通信モデルとして実装することは、有限領域においてある程度は可能である。生理学的なメカニズムから条件反射の連想を定式化できるか?という問題は、低水準の知覚においては可能であろう。熱い!やら、痛い!やら。
しかし、理性や意志といった精神の根源的な性質となると、どうであろう?言語の本質は、まさにこの領域にある。そこには、無限の単語、無限に組み合わせた文章があるだけでなく、次々と生成される新語もあれば、社会から自然消滅していく死語まである。メモリ空間上のインスタンスのように、使い終わった知識をきちんと消去しないと、社会はゴミで溢れる。言語の体系は生活習慣や環境条件、あるいは自然淘汰などとも結びつき、量子論的進化論という観点も必要であろう。自然言語の研究とは、人間自身の探求であるが故に、その道は永遠であり、挫折感も大きい。ならば、言語の表面的な現象を追いかけるよりも、まずは精神の正体を知ろ!ってか?まさか、チョムスキーはそこまでは言うまい...

2. 深層構造と表層構造
言語を習得すれば、意味と音声の関連付けを身に付けることになる。だが、深層から意味や解釈と結びつき、表層から音声や形式と結びつくといった単純な関係ではなく、表層から意味と結びつくところもあれば、深層から音声と結びつくところもある。とはいえ、深層構造と表層構造との関連づけに何らかの規則性がない限り、人間社会に文法のような現象は生じないだろう。その初期段階における関連づけが、「生成文法」ということになる。
さて、二つの層の関連付けの規則を「文法変形」と呼ぶそうな。「変形生成文法」という用語はこれに由来するという。
本書の事例では、NP(名詞句)やVP(動詞句)を分離しながら、構文木構造が示される。プログラミング言語における構文解析や字句解析と原理的には同じである。人間精神にもコンパイラという神が住んでいるとすれば、苦労はない。深層構造から表層と意味を分離し、主語と述語の関係や動詞と目的語の関係などから基底構造を見せつけられると、確率的ではあるが規則性なるものを感じる。言葉の用法には個人差も大きいが、それぞれ口癖といった形式もある。それがすべてではないにせよ、ある程度の定式化は可能であろう。文法の役割は、ここにあるのだろうけど。
しかしながら、人間の認識能力とは奇妙なもので、言葉が直線的に配列されるにもかかわらず、精神空間には立体的な像を映す。単語が順序正しく整列していても、認識段階では勝手に順序を入れ替えたり、並列に眺めたりしている。絵画でも眺めるように。このような精神現象を構文的な観点から、どう説明できるというのか?幾何学的言語投影論でも唱えない限り、説明できそうな気がしない。もし、言語を精神空間にマッピングできる法則が見いだせるとすれば、それが普遍文法ということになろう。とはいえ、精神空間は何次元なのか、そもそもユークリッド空間にあるのかも知らん。空間の歪は精神状態によっても変化するだろうし、少なくとも泥酔状態の次元はぶっ飛んでやがる。泥酔状態をオートマトン理論でモデリングできれば、数学は真に偉大となろう。深層構造と表層構造の組合せは、無限空間に君臨してやがる。そして、フンボルトのこの言葉ほど本質をついたものはあるまい。
「有限の手段を無限に用いる。」

3. ポール・ロワイヤル文法について
言語学には、哲学的文法と構造言語学の二つの伝統があるという。哲学的文法の代表に、ポール・ロワイヤル文法について言及される。この文法形式が、フランス語で書かれたことは有意義であったという。だが、ラテン語に翻訳されたことが物議をかもしたとか。当時のデカルト主義者たちは、ラテン語を人工的に歪んだ有害な言語と見做していたそうな。問題となったのは、正当な文法からはみ出した慣用という現象を、いかに合理的に説明できるかである。
ところで、自国語の文法的な特徴を真面目に考える時は、外国語との対比においてであろうか。そもそも喋る時に文法なんて意識しない。そんな言い方はしないなどと言うことはできても、文法的な根拠を示せるわけでもない。
とはいえ、感覚に働きかけて、言語の知識を生み出すなんらかのメカニズムはあるはず。基底にある深層は言語形式の抽象的な組織を具え、精神に現存する。そこになんらかの表象信号が生じると、無意識に表層が形成され、内的器官によって知覚される。言語能力とは、深層構造と表層構造を生理的に連結する機能とでもしておこうか。哲学的文法の真の意図は、文章を解釈する技術を提供するよりも、心理学的理論を展開することにあったようである。

4. 一般性と普遍性
チョムスキーは、レヴィ=ストロースの原始的心性の分析を称賛する。レヴィ=ストロースは、意識的に構造言語学、とりわけプラハ学派のトゥルベツコイとヤーコブソンを取り入れているという。そして、音素分析と同類の手順を社会や文化の下部体系に適用することはできないとしている。無限の多様性を強調しているところにも、フンボルトの継承を感じる。
所詮、生得的な能力を取り戻すことは、脂ぎった欲望を知ってしまった泥酔者には無理な話よ!できることと言えば、多様性に寛容になるよう努力するぐらい。おまけに、自己の言語体系の中で直観を意識することもできず、口の動くままに身を委ねるのみ。心にもないことを口に出すのは、潜在意識がそうさせるのか?語彙の集合から勝手に優先順位が付けられるのか?回帰的に思考を繰り返した結果として言葉を発しているのだろうけど、その意識すらない。脳の中で生じる神経系を辿ることなど不可能だ。それこそ霊媒師にでも依頼するか。
精神空間が主観性に支配されているとしたら、地上の誰にでも理解できる共通言語には、かなり制限を与えることになろう。そうなると、言語は単純化し、本来の特徴である自由度を失うのではないか。だから、世界規模でメディアが発達すると、言葉の揚げ足を取り合い、単純な言葉で罵り合うのか?共通や共有の意識ばかりを崇めれば、言葉は分かりやすい方向に傾倒し、言葉の裏を読むことや、暗喩や比喩といった技巧が廃れるのではないか?
その一方で、芸術心と戯れる人たちによって言語技術は高められる。となると、言語の用法は二極化して、普遍言語から遠ざかっていくのか?実際、グローバル化の時代に、意識格差、情報格差、教育格差、所得格差... などの二極化現象が生じている。能動的な生き方をするか、受動的な生き方をするかの違いが、そうさせるのかは知らん。
それはさておき、言語にとって相性がいいのは、経済的合理性と精神的合理性のどちらであろうか?少なくとも普遍性とは、一般性とまったく異質なもののようである。尚、多数決の原理は普遍性よりも一般性の方を好むようである。

5. 第二言語の学習戦略
第一言語を学ぶ時は精神状態は極めて純粋にあるが、第二言語を学ぶ時は少し事情が違う。それは、余計な知識が邪魔をするということだ。文法を真面目に勉強すると言語の習得が遅れるとも聞く。言語をビジネスや金儲けの手段と考えれば、脂ぎった欲望が精神を支配し、もはや純粋な欲求が見失われるのだろうか?まだしも趣味や興味といった動機の方が、純粋な欲求に近い。第一言語と第二言語の習得レベルを同列に位置づけられる能力が、多言語話者とさせるのだろう。本当に普遍言語や生成文法なるものがあるとすれば、普遍的な欲求というものもあるのかもしれない。
チョムスキーは、知覚表象が第一次構成物で、文法はあくまでも第二次構成物としている。文法ってやつは、ある程度の習得があって、初めて機能するものかもしれない。ただ、基本的な文法が幼児によって形成されるという事実から、目を背けるわけにもいくまい。
「人間の精神はなにかの種類の真の理論を想い描くことに生まれながらの順応性をもっている。... 人間はもし自己の要求に順応した精神という賜物をもっていなかったならば、いかなる知識も獲得できなかったことであろう。」
さて、実践的な言語学習法では、限りなく第一言語の習得状態に近い精神状態を保つことになりそうだ。まずは、幼児的な視点で基本的なフレーズを真似て、それを繰り返す。そこそこ知識が蓄積されると、本当の意味で言語の発達を試みる。大まかにはこの二段階を踏むことになろう。ただ、最初の段階でも、そこそこの応用力が身につくだろうから、段階の移行過程は連続的で、自然な流れになるのだろう。学習の仕方もまた無限にありそうだ。どんな知識を獲得するにも、方法論は人の数だけあるぐらいに思った方がいい。
いずれにせよ、言語とは学ばされるものでもなければ、教えられるものでもなく、自発的な欲求に身を委ねるしかあるまい。したがって、アル中ハイマーは純粋な欲求に身を委ねて、外人パブへと消えていくのであった...

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