2016-03-13

"名画で読み解く ロマノフ家12の物語" 中野京子 著

名画で読み解く... シリーズ第三弾。相変わらず文章のリズムが肌に合い、ヘタな歴史教科書よりもはるかにイケる!

「絶対君主制はおそらく滅びるべくして滅んだ。」
ハプスブルク家650年、ブルボン家250年に続いて、ロマノフ家300年もまた血塗られた謀略が渦巻く。徳川家250年もまた、全国の大名の力を削ぎ落としながら維持されてきた。難癖をつけてはお家断絶に追い込むというやり方で。政治権力とは、虚栄心、嫉妬心、羞恥心といった人間の最も醜い情念を曝け出しながら、自尊心を傷つけあう世界。愛されるより恐れられる方が、はるかに安全だ... とは誰の言葉であったか。マキャヴェリズムの真髄がここにある。
しかしそれは、絶対君主制固有の問題ではない。人間ってやつは、つくづく歴史に学ばないものらしい。最も高い道徳観念を持つとされる政治屋どもは、自分のことを棚に上げては、ライバルを蹴落とそうと必死。正義漢たっぷりに。ヤジが飛び交う様子は、生徒会や児童会でそっくり再現される。政治討論会こそ、R-18指定すべきかもしれん...

この物語は、ロシア的な特徴を一つ見せてくれる。それは、気味が悪いほどの秘密主義である。水面下で事を運び、公式発表が当てにならないのは、どこの国も似たようなものだが、実は生きている!と亡霊のごとく出現する偽者伝説や、殺しても死なない!といった怪物伝説がすぐに生まれる。アナスターシャ伝説やラスプーチン伝説がそれだ。
しかも、権力者が引きずり降ろされた運命は、罷免や財産没収、国外追放では終わらない。苛烈な拷問、シベリア送り、四肢切断は、妻子や一族にまで及ぶ。誰もが疑心暗鬼に囚われ、寝首を掻かれる前にやっちまえ!
当時のヨーロッパ社会は、科学的知識を中心に据えた啓蒙主義の段階に入っていた。ピョートル大帝は、積極的にヨーロッパ文化や科学を持ち込んだことで知られる。新たな首都サンクト・ペテルブルグでアカデミーを設立し、外国から多くの学者を迎え、その中に数学の巨匠オイラーやベルヌーイ兄弟がいた。
しかしながら、思想面では時代を逆行するかのように、キリスト教的秘密主義よりも怪しい魔術主義を開花させていく。そこには、ロシア固有の事情がある。広大な領土の上に多民族国家で、教育格差や知識格差が大きすぎるほど大きい。民衆を束ねるために、ロシア正教を中心とする思想改革が断行されてきた。いつの時代も、思想弾圧を受けてきた民衆は妙に賢くなるところがあり、本音とは正反対の言葉で表現する術を身につける。反体制を批判するためには、それがどんなものかも語らなければならない。知識人たちは、禁じられた思想を広めるために、まずそれを紹介し、できるだけ説得力のない言葉で貶してみせる。しかも、聴衆がその反対の意図をちゃんと心得ている。こうした構図では、芸術を用いるのが常套手段。ロシア文学、ロシア絵画、ロシア音楽には、皮肉に満ちた絶妙な表現力が溢れている...

1. ロマノフ王朝の開祖
ハプスブルク家の源流がオーストリアではなく、スイスの一豪族であったように、ロマノフ家の始祖もまたロシアの生まれではなかったという。リューリク朝イワン雷帝の時代、移住してきたドイツ貴族コブイラ家が息子の代でコーシュキン家と改め、さらに五代目のロマン・ユーリエヴィチがロマンからロマノフ家に改姓したとか。
イワン雷帝はロシアで正式に戴冠した初めてのツァーリで、王妃にロマン・ユーリエヴィチの娘アナスターシャを迎える。二人の間に三男三女をもうけ、成人したのは次男イワンと三男フョードル。イワン雷帝は、気に入らぬことがあれば長い王杖で殴打する性癖の持ち主。息子イワンの妻が妊娠して略装で現れると、腹を立て杖で殴った。これに息子が怒って直談判すると、父は息子を殺めてしまう。その様子は、「イワン雷帝と息子イワン」イリヤ・レーピン画に描かれる。
三男フョードルは甚だしく知能が低い人物だったそうだが、ツァーリに担がれ、フョードル1世を名乗る。すると、アナスターシャの実家ロマノフ家と、フョードル一世の妃の実家ゴドゥノフ家の権力闘争が始まる。一旦は後者が勝利するが、深刻な飢饉を招き、農民暴動が頻発。その混乱に乗じてポーランドが侵攻してきた。国家の危機に直面した代議士たちは、権力闘争で敗れて修道院に隠棲していたミハイル・ロマノフをツァーリに就ける(1613年)。まだ16歳のミハイルは、何度も固辞したという。野心もカリスマ性もなく、暗殺を恐れたようだ。有力者にしてみれば、無能な王ほど都合がいい。だが、臆病ゆえに賢明に政治を学び、したたかさを身につけ、治世は32年続く。

2. 「フョードシヤ・モロゾワ」ワシーリー・スリコフ画
1672年に起きたフョードシヤ・モロゾワ公爵夫人の逮捕劇の一幕... 一台の馬橇が人混みの中を進む。荷台には高貴な夫人が鉄鎖でつながれているが、青ざめながらも意気軒昂の様子。多くの民衆が悲しみに沈むのに対して、聖職者たちは嘲笑う。
夫人が右手を高らかに掲げ、人差し指と中指を立てると、座った浮浪者風の男が二本指を立てて呼応する。この男は、ユロージヴィ(聖愚者)だという。二代目アレクセイ・ミハイロヴィチは農奴制を法制化し、農民の移動を禁止。そんな中でユロージヴィが増えていったそうな。
アレクセイは権力を拡大し、絶対主義への道を突き進む。宗教界のトップには野心家ニコンを就ける。ロシア正教は、ローマ・カトリックから分裂したギリシャ正教の流れを汲むが、地域教会は土着の信仰や因習と強く結びつき、聖書解釈も儀式もばらばらで、国家宗教としての統一性を欠いていた。総主教ニコンは、宗教改革を断行する。最初は、儀式のやり方を強制するような柔らかいものだったが、徐々に激化し、火炙り刑まで実施される。反対者の多くは下層農民を中心とした素朴な人々で、教会が悪魔に乗っ取られたと信じこみ、集団焼身自殺まで起こったという。フョードシヤ・モロゾワ公爵夫人こそ、下層農民の代弁者というわけである。
アレクセイはニコンを解任。教会権力が増長し、政治にまで介入するようになったからだ。前年1671年には、「ステンカ・ラージンの反乱」勃発。コサックを主導したラージンは、反ツァーリズムと反農奴制を呼びかけ、モスクワへ進軍する。尚、コサックの語源は、トルコ語のカザールだという。ただし、異説もあるらしく、「自由の人」という意味もあるらしい。14世紀以降、下層農民や逃亡奴隷などがロシア南東部に定住したのが始まりとされる。コサックダンスは、勇猛な兵士としての身体能力の高さを誇示する。
ラージンは、ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)の要塞で大敗し、赤の広場で四肢切断、斬首。その二百年後、この地にレーニンが生まれる。本名ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。レーニンは、ラージンの恨みを継いでいたのかは知らん...

3. 「ピョートル大帝の少年時代の逸話」シャルル・フォン・ステュイベン画
母ナタリヤ・ナルイシキナ(故アレクセイ・ミハイロヴィチの後妻)が、息子ピョートルを命がけで守ろうとする一幕... 護衛官の死体や、槍や剣を交える戦士がある中で、十歳の少年は乱入者を敢然と睨みつける。
後に大帝と呼ばれるピョートル1世は、十歳でツァーリの座に就き、すぐに暗殺未遂事件にまきこまれた。順当にフョードル3世が即位したものの、世継ぎを残さぬまま21歳で病死したからである。裏で糸を引いていたのは、フョードル3世の姉ソフィア。男に生まれなかった不運を、摂政になる野望で満たそうと。まだロシアに女帝を容認する下地はないが、自分の肖像入り貨幣を発行するという豪腕の持ち主。ソフィアは、フョードルは病死ではなく、ナルイシキン家の陰謀だと偽り、ピョートルはロマノフ家の血筋ではないと触れ回る。そして、フョードル3世の弟イワン5世を帝位に就かせた。知能に難があり、父帝から「馬鹿のイワン」と呼ばれた人物を。
ピョートルは支持者もろとも田舎に追放されるが、成人すると立場が逆転する。信長が「うつけ」を装ったごとく、私的軍隊を密かに組織していたらしい。反ソフィア派を吸収し、今度はソフィアがノヴォジェーヴィチ女子修道院へ押し込まれる羽目に。ソフィアは、少年の時に殺しておけばよかった!ともらしたとか、もらさなかったとか。
ソフィアを無力化して安心したピョートルは、大使節団を組織してヨーロッパ旅行へ出かけるが、その隙に謀反。ピョートルは、黒幕はソフィアに違いないと、ノヴォジェーヴィチ女子修道院前の広場で首謀者たちを処刑し、彼女の部屋の窓にぶら下げたという。「皇女ソフィア」イリヤ・レーピン画には、彼女の怒りが凄まじい迫力で描かれ、女性には似つかわしくない、豪腕政治家の風格を漂わせる。

4. 「ピョートルと息子」ニコライ・ゲー画
ピョートル大帝は、ヨーロッパに憧れ、技術や文化を積極的に取り入れ、近代化を促進した。だが一方で、容赦しない残酷さを併せ持ち、自分の手で拷問、処刑も平気でやる。それが身内であろうと。十代で政略結婚した妻エヴドキヤも、気に食わぬと離縁しただけでは済まず、修道院へ幽閉。エヴドキヤとの間に生まれたアレクセイは、母親似で、信仰にかたまり、保守派に担がれて近代化に反対する。
そして、1716年、戦地へ赴くと偽り、遁走!激怒したピョートルは、ナポリ潜伏中の彼を捕らえて連れ戻し、尋問する。大男で圧倒的なカリスマ性と抜け目ない政治力を持つピョートル大帝が睨みつければ、アレクセイは目が合わせられない。ひ弱な息子に期待はずれのレッテルを貼り、アレクセイは軍法会議にかけられ、拷問の末、国家反逆罪で死刑判決を受ける。そして、父親の恩赦もなく、ペトロパブロフスク要塞に収容され、まもなく謎の死を遂げた。
ピョートル大帝は、少年期の政権闘争に巻き込まれた苦い記憶や、保守派色の強いモスクワを嫌い、新たな首都建設を計画する。サンクトは「聖」、ペテルは使徒ペテロを意味し、ペテロは英語でピーター、ロシア語でピョートル。サンクト・ペテルブルグは、聖ピョートルの町というわけだ。
尚、この町には、改名の歴史がある。第一次大戦後には、ブルグのドイツ語が問題視され、ロシア語のグラードに改められ、ペトログラードとなる。レーニン時代には、レニングラード。ソ連崩壊後には、再びサンクト・ペテルブルグとなる。
能力重視の官吏登用、都市商人の優遇、製造業による富国強兵、徴兵と秘密警察の制度化など、いっそう中央集権化を進め、農奴制を経済基盤としたロシア絶対主義は、ここに完成する。
さて、ピョートル大帝は、二重人格性を指摘されることが多い。大男なのに小さな部屋で過ごすことを好んだり、お家柄や血筋にこだわらないといった先進的な面を見せたり。また、リヴォニアの貧しい小作人の生まれで、娼婦あがりの娘マルタを、憚ることなく王妃に据えた。寵臣メンシコフの目に止まり、その愛人となった女性で、ピョートルがメンシコフ邸を訪れた時に夢中になったという。しかも、エカテリーナの名を与えた。そう、ロシア初の女帝となる人物だ。
1724年、ペテルブルグ郊外を視察中、増水した川の中洲で船が座礁したのに出くわし、ツァーリ自ら川に入って救出作業を陣頭指揮。このために体調を壊し、世を去る。人命軽視の罪滅ぼしであったのか?いや、わざわざ新品のワイシャツを着て、農作業を手伝って見せるのが政治家の行いというもの。ピョートル大帝の死後、メンシコフはすぐに元愛人を帝位に就けた。女性が国王になることへの抵抗感は、すでに皇女ソフィアが薄めていたようである。

5. 「エリザヴェータ女帝」カルル・ヴァン・ロー画
ロシアっぽさがない、まるでフランス女帝... ヴェルサイユの貴婦人風に美化した肖像画は、さすがルイ15世の首席宮廷画家。1727年、母帝エカテリーナが病死した時、エリザヴェータは18歳。愛らしさと優雅な立ち居振る舞い、流暢なフランス語をあやつる彼女を、両親はヨーロッパ大国の王妃にと考えていたという。ヴェルサイユ・デヴューを果たし、人々から喝采を浴びると、ルイ15世の王妃にと秘密裏に打診するも、音沙汰なし。ルイ15世の結婚相手は元ポーランド王の娘マリー・レクザンスカ。フランスはロシアよりもポーランドを選んだ。ロシアはまだ成り上がりの二流国にすぎないというわけか。
野心家メンシコフは、娘をピョートル2世と婚約させるが、正式に結婚にありつく前に病で寝こむ。その隙に、政敵ドルゴルーコフの策謀によって財産没収、一家シベリア送り。ドルゴルーコフ家は、ミハイル・ロマノフの最初の皇妃を出した家柄で、今度はドルゴルーコフが姪をピョートル2世と婚約させる。だが、これまた結婚式の前に、14歳のツァーリが病死。ドルゴルーコフもまた政敵に捕らえられ、財産没収の上に拷問処刑。
次に帝位に就いたのはアンナ。馬鹿のイワンことイワン5世の娘は、既にクールラント公国(バルト海沿岸部)へ嫁いだ未亡人で、ロシアと縁が切れている。有力者たちは、お飾りが欲しいだけ。だが、馬鹿のイワンの娘は、馬鹿ではなかった。目障りな貴族連をシベリアへ送り、ロシア人は信用ならぬと、多くのドイツ人を重用したという。「アンナの野卑な宮廷」ヴァレリー・ヤコビ画には、彼女の堕落生活を、当時の証言をもとに描いているという。ベッドに横たわって酒を浴び、おべんちゃら連中に囲まれて喜んている様子。アンナが誰よりも嫌ったのはエリザヴェータ。
一方、したたかなエリザヴェータは、皇女ソフィアのように修道院に幽閉されぬよう、静かに機を待っていた。彼女は、独身で三十路を過ぎていたが、ますます美と愛嬌に磨きがかかり、民衆と軍隊に人気を博したという。
帝位はアンナの姪の息子イワン6世が継ぐが、1741年、ついにエリザヴェータを崇拝する近衛軍がクーデターを起こす。ドイツ人を重用したことに反感を持つロシア派も後押し。エリザヴェータは慈悲深さを演じるために、一旦はイワン6世に四肢切断刑を言い渡すが、減刑してシベリア送り。ヨーロッパ風に振るまい、いかに中世風ロシアが腐っているかを世に知らしめる。外交では親仏路線をとり、ポンパドゥール夫人とマリア・テレジアと共にフリードリヒ大王を包囲した。ペチコート作戦である。他には、ロシア大学の開設、本格的な人口調査、銀行開設、拷問禁止など、父帝ピョートルの改革路線を敢行したという。結果的に、フランス王妃になるより、ロシア女帝になって幸せだったかもしれない。

6. 「皇女タラカーノヴァ」コンスタンチン・フラヴィツキー画
薄暗く寒々とした牢獄で、窓は割れて水がなだれこみ、足元にドブネズミが這いまわる。その中で壁によりかかり、絶望する一人のうら若き乙女... その名はタラカーノヴァ、皇女を名乗ってヨーロッパを渡り歩く。ここは、かつてピョートル大帝の息子も放り込まれたペトロパブロフスク要塞監獄。
1777年、ペテルブルグを襲った大洪水で多くの死者を出し、その中に、皇女タラカーノヴァが含まれていたかは分からない。公式発表では、洪水よりも二年も前に病死したことになっている。だが、夫を殺して女帝となったエカテリーナ2世のこと。
タラカーノヴァが忽然とパリに現れたのは、洪水の5年ほど前で、素性をこう明かしたという。亡きエリザヴェータ女帝と愛人ラズモーフスキー伯爵との間の娘である、と。自称皇女はヨーロッパを渡り歩き、その噂は宮廷にまで届く。素性が怪しいとはいえ、皇女という噂は聞き捨てならない。
ところで、エリザヴェータ女帝は、後継者ピョートル3世に幻滅していたという。ドイツ人として育てられ、ロシアを後進国として馬鹿にし、啓蒙君主フリードリヒ大王に心酔する有り様。後にエリザヴェータが急死すると、ペチコート作戦でプロイセンを包囲していたロシア軍を即刻撤退させた。おまけに、天敵フリードリヒ大王から「陛下は我が救世主です」との謝辞をもらう。
それを予感してか、子供の方に期待して王妃選びが始まる。エリザヴェータは父譲りの大柄で、パリのファンションに身をつつむ美貌と貫禄の持ち主。後にエカテリーナの名をもらうことになる少女ゾフィは、正反対に小柄で野暮ったい。エリザヴェータは美女にあからさまに嫉妬するタイプで、むしろ好感を持ったという。しかも、プロテスタントからロシア正教に改宗することにも抵抗しない、忠実な皇太子妃を演じる。
尚、エリザヴェータの母エカテリーナ1世もロシア人ではなかった。エリザヴェータが死ぬと、ピョートル3世は嫌いな王妃を排除しようとするが、エカテリーナの方もこれを察して、長い年月をかけて軍隊を中心に味方を募っていた。そして、わずか半年で王冠を奪う。
18世紀のロシアは女帝の時代。エカテリーナ2世はロマノフ王朝における最後にして最大の女帝であった。彼女自身が異国の女帝であり、片時も出自を忘れず、であればこそ、皇女を名乗る存在が許せなかったのか...

7. 「エカテリーナ2世肖像」ウィギリウス・エリクセン画
世界三大美術館の一つに数えられるエルミタージュ美術館。その基となる所蔵品は、ピョートル大帝がヨーロッパ視察旅行で得た収集品で、更なる拡充はエカテリーナ2世の功績だという。彼女は、ドイツの画商ゴツゴウスキーが売り出した絵画225点を一括購入したとか。フリードリヒ大王のためのコレクションだが、資金ぐりがつかず、横取りした形で。
大量の名画が非文明国ロシアへ運ばれることに、ヨーロッパでは抗議運動が起こったという。ロシアの財力を見せつけた一幕。各地のオークションに目を配り、彫刻、陶器、工芸品など精力的に収集したという。だが、その財力も農奴制に支えられている。エカテリーナ2世の在位は34年の長期に渡り、トルコ戦に勝利して領土を拡大、ソ連時代とほぼ同じ領土を保有した。
一方、ヨーロッパでは啓蒙主義の時代へ突入。女帝には、啓蒙だの、自由だの、国家を弱体化するものに映ったようである。この時代、上流階級と下層階級では、日常使われる言語も生活様式も違い、顔つきまで違う。身分の違う相手を理解することは、不可能なほど隔たりがあり、むしろ他国の王侯たちの方がよく理解できたことだろう。フランス王を守るために、ロシアは、オーストリア、スウェーデン、スペインなどとともに反革命派を支援する。だが、ルイ16世と妃アントワネットはギロチン刑にかけられ、衝撃を受ける。
ところで、エカテリーナ2世の私生活は伝説化しているそうな。「王冠をかぶった娼婦」。愛人は数百人?最新の研究では、21人という噂。そして、こんなジョークが生まれたという。
「1961年、ソ連共産党第二十二回大会は、スターリンの遺体をレーニン廟から叩き出すことにした。スターリンは新たな安息所を求めてさまよう。だが、イワン雷帝はスターリンと並んで寝ることをいやがり、ピョートル大帝もことわった。やっと、だれかが呼んでくれた。"お髭さん、私の横へいらっしゃい"エカテリーナ2世だった。」... 平井吉夫編「スターリン・ジョーク」より

8. 「ロシアからの撤退」ニコラ=トゥサン・シャルレ画
1777年、ネヴァ川の大洪水の年、アレクサンドル1世が誕生し、息子パーヴェル1世に失望していたエカテリーナ2世は狂喜する。かつて自分がエリザヴェータ女帝にされたように、両親のもとから切り離し、自らの監視下で帝王教育を施す。アレクサンドル1世は、目の前の相手を喜ばせ、祖母も父も敬愛していると思い込ませ、政治的に振る舞う術を会得したという。彼が優柔不断と見做されるのは、主義主張の異なる連中を信じこませ、中庸路線をとったからのようである。後年ナポレオンは、自分より8歳年下のロシア皇帝を、こう評したとか。
「才知あふれる性格に何か欠落したところがある... 魅力的だが信用ならぬ偽善者...」
エカテリーナ2世が崩御し、パーヴェル1世が即位すると、アレクサンドルは18歳。父に恭順の意を示す。パーヴェルは母親憎しから二度と女帝が誕生できなくし、プロイセン式厳罰主義を持ち込む。これは軍隊や宮廷から不評を買い、王座に就いて5年で孤立無援。アレクサンドルはクーデターに担がれ、パーヴェルは近衛兵に殺害される。公式発表は、卒中発作。タレーランはこう皮肉ったとか。
「ロシア人というのは、皇帝の死に他の病名をつけられないのかね。」
アレクサンドル1世は、イギリスやプロイセンの対ナポレオン同盟に参加。1805年、ついにアウステルリッツで仏軍と衝突。援軍到着まで静観するようにとのクトゥーゾフの忠告を聞き入れず、初戦で完敗。尚、クトゥーゾフは、トルストイが小説「戦争と平和」で賢者と評価した人物。
翌々年、フリートラントでも惨敗。やむなくナポレオンの講和条約締結の要求に応じる。ティルジット講話条約では、ナポレオンはプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世には興味がなく、ロシアを味方につけたかったという。アレクサンドルはナポレオンと対面し、和気藹々と会談を進めたとか。しかし、平民から成り上がった皇帝と、正統な血筋を誇る皇帝とでは、共通点がない。母宛の手紙には、こう書いたという。
「ナポレオンは天才だが弱点が一つあります。それは虚栄心です。わたしはロシアを救うため自尊心を捨てました。」
一方で、フランス側の交渉人タレーランが水面下で接触してきたという。王政復古を画策して。
「ナポレオンを倒してヨーロッパを救えるのはあなたしかいません。」
1812年、ナポレオンはティルジット条約を破棄し、65万の仏軍が押し寄せてきた。自国を焦土化しながら、じりじりと広大な領土へ引きずり込む戦略に、やがて冬将軍の到来。仏軍は11万にまで減り、クレムリンに入城した時、ロシア軍はもぬけの殻。食料のない厳寒のモスクワで、ナポレオンは降伏文書を携えてくるのを待つが、ついに退去命令を下す。すると、ロシア軍の反撃が始まる。かつての二度の惨敗が、良い教訓になったというわけか。

9. 「アレクサンドル1世」ジョージ・ドウ画
「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたウィーン会議。ナポレオン追放後の、ヨーロッパ地図をどう塗り替えるか?国家の思惑がぶつかりあい、交渉は進まない。1814年の9月18日に開幕し、議定書の締結は翌年の6月9日。毎晩、舞踏会が催され、おまけに、1815年3月、ナポレオンがエルバ島を脱出する。
フランスは敗戦国にもかかわらず、策士タレーランによって悪いのはナポレオン個人だとし、認めさせた。議長を務めるオーストリア外相メッテルニヒは、タレーランに優るとも劣らぬ手強い交渉相手で、ロシアの勢力拡大を阻止せんとする。
対して、アレクサンドル1世は、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と結託し、ポーランドとザクセンを自領にすることを主張。結局、ロシア皇帝がポーランド王を兼ねることで同意する。
当初、ナポレオンを敗走させた立役者としてリーダシップをとったアレクサンドル1世だったが、ナポレオンの脱走劇と、ウェリントンのワーテルローでの勝利で、歴史の印象では存在感は薄い。
結局、ウィーン体制は、従来の王政を互いに尊重しあい、維持しようという談合のようなものであったのだろう。王侯貴族たちは、まだ時代の変化に気づいていない。すなわち、啓蒙主義から培われた自由の風潮と共和制の流れに。自国の安定よりも、他国との王侯関係を重視するとは滑稽である。
また、この時代、スイスが永世中立国になったことも注目したい。ヨーロッパは自らの器の中に、誰もが自由に発言できる場の必要性を痛感したということか。こうした性質の国は、歴史的に話し合いの場としても活用されてきた。ただし、中立を宣言すればいいというものではない。権威や自立性を具えていなければ。実際、宣言しても侵略される事例は少なくない。
アレクサンドル1世は啓蒙主義と科学の時代を受け入れたものの、神秘主義に心酔していく。国政は軍人アラクチェーエフに丸投げ。このアラクチェーエフの支配が最悪で、秘密警察は強化され、検閲制度は厳しさを増し、神の摂理を重んじないとして医学論文は焼かれ、大学の自治は奪われ、国民生活の隅々まで監視したという。プーシキンに言わせると、「悪念と復讐欲の塊で、知性も感情も高潔さもない... 全ロシアの迫害者...」
特筆すべきは、「屯田制度」だという。人間心理を無視した実験であったとか。屯田地に兵士を住まわせ、同じ形の家と軍服と食料が支給される。軍事訓練は農作業を兼ね、上官の命令で一斉に軍隊式歩行で畑まで行進し、全員同じ動きで鋤をふるう。家で休む時の椅子の座り方まで規定されたとか。近隣の女性が妻としてあてがわれ、一定の頻度で男児を産むよう命令される。子ができなければ罰金。このような強制好きな指導者は、いつの時代にもいるものだが、人間の隠された性癖なのだろう。
1825年、アレクサンドル1世は王妃をともなってアゾフ海北東岸のタガンロークを視察中、原因不明の高熱で逝去。遺体が二千キロも離れた僻地からペテルブルグに到着した時は傷みが酷く、公開されるべき棺の蓋は閉まったままだったという。そのために、実は生きている!という噂が。十年後、クジミーチと名乗る背の高い立派な老人が現れたという。だが、どこから来たか記憶がない。シベリアへ送られた老人は、歴史や聖書など知識が高く、どんな相談事にも適切な忠告を与え、尊敬を集めたという。やがてアレクサンドル1世の仮の姿という噂が広まり、聖人とされ、話を聞きに大勢の人が訪れる。そして、世を去ると、墓は巡礼地になったという。死後、人気を博す専制君主も珍しい。

10. 「ヴォルガの舟曳き」イリヤ・レーピン画
十人ぐらいの舟曳き人夫は幅広いベルトを体に巻きつけ、船を引っ張る。遠くに蒸気船が見え、既に帆船の時代は終わっているが、農奴も、逃亡奴隷も、貧民も、人間という動力源は捨てるほどある。これは、当時の諺だそうな。
「借金が払えなえればヴォルガ川へ行くはめになる。」
アレクサンドル1世の後継は弟ニコライ1世、徹底した専制君主と恐怖政治で最も暗い時代と言われる。1825年、「デカブリストの乱」は農奴制度や奴隷制度に対する蜂起。このためにニコライ1世はより硬化したようだ。さらに知識人の抑圧、自由思想の弾圧を強化、大学の自治を掠奪... 彼のサディスティックな一面として、ドストエフスキーのエピソードがある。
27歳の新進気鋭の作家ドストエフスキーは、社会主義サークルに入会したとの理由で逮捕され、死刑を言い渡された。銃殺隊を前にして死を覚悟した時、早馬に乗ってきた使者が恩赦を告げたという逸話は、シュテファン・ツヴァイクの「人類の星の時間」にも描写される。減刑でシベリア送りとなるが、実はニコライ1世が仕組んだ演出で、最初から流刑に決まっていたらしい。自由気ままな作家を懲らしめるためか?あるいは、温情のあるところを知らしめるためか?若い政治犯や、少しでも自由主義を標榜した学生が大量に流刑され、シベリア開発に従事させられた時代である。
また、国民全体の識字率の向上、知識レベルの向上も、この時代に見られるようだ。文学では、ツルゲーネフ、ゴーゴリー、ドストエフスキー、トルストイ... 音楽では、ムソルグスキー、ボロディン、チャイコフスキー... 絵画では、クラムスコイ、スリコフ、レービンと錚々たる名があがる。
ニコライ1世は、正教徒の保護を口実にトルコを攻める。ナイチンゲールが活躍したことでも知られるクリミア戦争は、マスコミが積極的に加担した最初の戦争とも言われる。ナショナリズムという思想概念が広まり始めたのも、この頃であろうか。世論を煽り立てるという手法が旺盛となっていくが、こうした社会現象が啓蒙主義の時代と重なるのも偶然ではあるまい。
ロシア皇帝がトルコを手始めに全ヨーロッパの専制君主になろうとしている、と大々的なキャンペーンを展開すれば、ヨーロッパ中で世論を味方に資金や志願兵を増やす。ロシア産業の遅れも露呈し、黒海の海戦では蒸気を動力とする連合艦隊の敵ではなく、フランス、イギリス、サルディニア王国がトルコに味方して敗北し、黒海を失う。敗戦の半年前、1855年、ニコライ1世は既に病死。
戦後処理は、嫡男アレクサンドル2世に委ねられ、父とは反対に「解放皇帝」と呼ばれたという。クリミア戦争の教訓は、産業を育成し工業化すること。そのために土地に縛りつけた農奴を解放して、工業生産に向かわせる。解放とはいっても、向かう先が土地から工場になるだけ。結局、地主から放り出されて大量の失業者を出し、発令から3年で農民一揆が起こり、軍隊に鎮圧されるたびに政府への憎しみが蓄積していく。
また、皇帝暗殺未遂も繰り返され、アレクサンドル2世は伯父アレクサンドル1世と同様、自閉していく。数々の改革が、専制君主制とは合致しえないことに、未だ気づかないでいる。いや、気づいていたから絶望し、閉じこもったのか。1881年、馬車に爆弾が投げ込まれて死去。アレクサンドル2世は、当時の国民には憎まれたが、司法制度や教育制度を改善し、女性に学問の道を開いたとか。警察機構の改革、産業の育成、農業から工業への転換を図り、息子アレクサンドル3世はその路線を継承したという。

11. 「ハリストス 復活」山下りん画
ロマノフ物語に、なぜ日本人が?そういえば、神田にニコライ堂ってのがある。建設当時、ニコライ皇太子が高額の寄付をしたそうな。山下りんは工部美術学校へ入学し、女性第一号の学生の一人だという。彼女は正教会の推薦で、ペテルブルグで修行させてもらう。女性に学問の道を開いたアレクサンドル2世のおかげか。
アレクサンドル2世の暗殺事件では、山下りんはホテルの部屋で爆発音を聞いたことを手紙に残しているという。そして、アレクサンドル2世の孫ニコライ皇太子のために、イコン(聖画像)を描くことに。イコンの語源は、イメージ、表象。ハリストは、キリストのロシア語読み。ヨーロッパでは、聖書を理解するための宗教画、ひいては芸術作品としての宗教画という意味合いがある。
ところが、正教では、まったく異なり、崇拝の対象で、時には奇蹟も起こすと信じられていたという。しかも、オリジナルであれ、コピーであれ、印刷物であれ、そこに差はないとされるとか。
当時、ロシアのイコン制作には二筋の対立する流れがあったという。もともとギリシア由来で、はじめビザンチン風の非リアルで平板な描法が続き、ピョートル大帝が多くのヨーロッパ絵画を購入して以来、遠近法や立体表現を駆使した近代的イコンへと変化する。しかし、19世紀後半、ロシア回帰とともに、古典的イコンの方が写実的イコンより崇高とされたようだ。山下りんが目指したのは写実的な方で、信仰心が薄いと指弾されたという。
さて、ニコライ皇太子が来日したのは、22歳の時。1890年秋にペテルブルグを出航し、地中海からインド、中国をまわり、長崎に入港しのは、1891年4月。鹿児島、神戸、京都、大津、東京をまわり、ウラジオストックでシベリア鉄道の起工式に出席する予定だったという。
そして、「大津事件」に遭遇。警察官の津田三蔵に斬りつけられた暗殺未遂事件である。なぜ津田は斬りつけたのか?アゾフ号という軍艦でやってきたことで、侵略のための偵察などと新聞はロシアの危険性を煽る。来日して、すぐに天皇に謁見しなかったことも、無礼だと憤慨したという。ロシアからどんな難題をつきつけられるか日本中が震撼するが、その対応は迅速で、天皇自ら京都のホテルへ見舞い、神戸まで同じ列車で見送ったという。津田は、死刑を免れ無期懲役を言い渡される。この裁判事例は、政府の要求を司法が阻んだ事例としても有名だそうな。
ニコライ皇太子は上京する予定だったが、事件のために早々に切り上げて帰国。イコン「ハリスト 復活」は、神田のニコライ堂に贈呈されるはずだったとか。イコンはアゾフ号へ郵送され、ニコライ2世は、山下りんのイコンを気に入り、居間に飾ったという。神田のニコライ堂にも山下りんの作品が飾られていたそうだが、残念ながら関東大震災で失われたそうな。

12. 「皇帝ニコライ2世」ボリス・クストーディエフ画
ヨーロッパ美術は、何世紀もかけて、ルネサンス、バロック、ロココ、新古典主義、ロマン主義、写実主義、印象派と変化してきた。一方、ロシアではかなり遅れた上に突然押し寄せてきたために、流儀が混沌としていたようである。
19世紀後半、ロシア・アカデミーの主流を占めたのは写実主義だったそうだが、この肖像画はちと異質。平面的で、色彩がカラフルでありながら陽気に見えないのは、ラストエンペラーとなる運命を匂わせているのか?
父アレクサンドル3世は、暗殺を恐れ、王宮ではなく、ガッチナ離宮で半ば隠遁生活を送る。この時代は比較的平穏で、有能な側近ウィッテの経済政策が奏功し、ロマノフ家は世界有数の大富豪となる。アレクサンドル3世は、アルコール摂取過多による腎臓病を悪化させ、五十前に逝去。彼は歴代ツァーリと違い、愛妾を持たず、夫婦仲はよく、家族を人一倍大切にしたという。また、デンマーク王女だった母マリア・フョードロヴナも、子供たちをよく育て、家族の太陽のような存在だったという。
ニコライ2世は、大事に育てられたせいか、マザコンが抜けない様子。そんな彼が、母に逆らったのはただの一回、妃選び。ヘッセン大公の娘アリックスと反対を押し切って結婚し、アレクサンドラ王妃となる。彼女の母はヴィクトリア女王の次女で、問題はこの長命女王が血友病の遺伝子を保有していた。血友病は、男児にのみ発現する病で、ニコライの母はこれを危惧する。
ところで、ニコライ2世は、大津事件のために日露戦争を決めた、という説がある。それは、ウィッテの自伝にそう書いてあるためだそうだが、ニコライの日記には、むしろ日本贔屓のことが書かれているという。清潔で、事件後も親切に接してくれたことを。国家元首になろうかという人物の日記に、本音が書かかれるとは限らないが。日露協調路線のウィッテには、ニコライが説得に応じず、好戦派にひきずられていく様子がそう見えたのか?解任される愚挙に反感を持ったのか?いずれにせよ、戦争やむなしという機運は国内情勢の悪化のためであり、やがてロシア革命として噴出する。
宮廷では暗殺事件が続き、ゼネストやポブロム、すなわち、革命派による労働運動やユダヤ人に対する集団的迫害が頻発する。国内問題における政府の責任逃れで、国外へ意識を向けるのは政治家の常套手段。
一方、ウィッテの失脚は日本の親露派にも衝撃を与え、日本でも若い将校を中心に開戦派が勢いづいたという。好戦派ってやつは、よもや負けるとは考えない。ロシアの惨敗は、帝政打倒の声を大きくさせた。
終戦前から不満は高まり、1904年には内相が暗殺。1905年には叔父セルゲイ大公が暗殺。この年に「血の日曜日事件」。労働者による皇宮へのデモ行進は、十万もの群衆となり、軍隊と衝突して数百人もの死者を出す。「戦艦ポチョムキン事件」もこの年。前代未聞の水平の反乱である。ニコライ2世は、父に輪をかけたマイホーム主義。国事よりも家族を優先し、長期休暇に明け暮れる始末。待望のアレクセイ皇太子が生まれたのが1904年だが、母が心配したように血友病の遺伝子を受け継いでいた。この呪われた家族に、怪僧が忍び寄る...

13. 「ラスプーチン」クロカーチェヴァ・エレーナ・ニカンドロヴナ画
犯罪捜査では、写真よりも似顔絵の方が効果を発揮するという。怪しげな怪僧ぶりに、無気味な存在感。ロマノフ王朝物語のトリを飾るのが、怪僧伝説というのも、なんともロシア的である。
グリゴリー・ラスプーチンは、シベリアの寒村出身。無教養な農夫で、字もほとんど書けなかったという。苦行層となったのは30歳頃。初期はユロージヴィと見做され、やがて未来を予知し、大勢の病気を治し、霊能者として上流階級でもてはやされることに。
ニコライの日記には、神のごとく人間と書かれるという。だが、皇帝に謁見する前からアレクサンドラ妃の信頼を得ていた。医者が匙を投げた皇太子の病を、ラスプーチンは祈祷によって救ったのである。催眠術に長け、プラシーボ(擬薬)効果に似た治療を施したと伝えられる。
ニコライはラスプーチンに政治的な助言を求めるようになり、家族の一員のように休暇旅行にも同行する。政治に口を出せば、反ラスプーチン派が集う。秘密警察が、彼の淫蕩、酒乱、収賄の事実を暴いたが、皇帝夫妻は斥ける。かくして、怪僧がアレクサンドラ妃のベッドに潜り込みヒステリー治療を施すという噂が流れ、エクスタシーを与えることから巨根伝説も生まれた。
ラスプーチン暗殺未遂は何度も浮上する。青酸カリ入りの菓子を振る舞っても平気で食べ続けるやら、毒入り酒でも平気で飲み干すやら。挙句の果てに、銃弾が左胸に命中して、死後硬直を確認するも、しばらくすると死体は消えていて、這いずって逃げようとしていたやら。さらに銃乱射で、動かなくなったところを何度も棍棒で殴って、完全に殺して袋詰にしてネヴァ川へ投げ捨てたやら。それでも、遺骸が上がった翌日、袋の紐は解かれ、肺には水がたまっていたとか。つまり、川へ投げ捨てられた時にはまだ生きていたことになる。
さて、ニコライの意を受けた首相ストルイピンは、1906年から一年間だけで千人以上もの処刑を敢行したために、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれたそうな。ストルイピンもまた数年後に暗殺される。
1909年頃から、ニコライは、異常なまでの長期休暇をとり始める。家族総出で四ヶ月のクリミア旅行や、妃と二人で三ヶ月のドイツ旅行など。1914年にも贅沢な休暇、オーストリアがセルビアに宣戦布告した年に。ニコライ2世は新たな意欲に掻き立てられる。戦争こそが国内の敵から逃れる唯一の手段と言わんばかりに。バルカン半島におけるロシアの影響力を維持するために、セルビアを見捨てるわけにはいかない。これにドイツが意を唱え、参戦が連鎖。第一次大戦である。この戦争で、ハプスブルク家、ロマノフ家、ホーエンツォレルン家、オスマン家の四王朝が幕を引くことになる。
1917年、ついにロシア革命。王家は、生き残る限り、叩いても叩いても、亡霊のごとく復活する。ボルシェビキは皇帝一家を抹殺。地下室で銃殺した後、身元が分からぬよう顔に硫酸がかけられて森に埋められたという。公式発表では、皇帝だけを処刑し、妻子は安全な場所に移したとされるが、信じる者はほとんどいない。
そして、1920年頃、実は生きていた... 「アナスターシャ伝説」だ。ベルリンの精神病院で、記憶喪失者として収容された若い女は、自分は処刑を免れて脱走したアナスターシャだと言い出すと、騒がれ映画化もされる。ちなみに、アナスターシャは、ラテン語で再生を意味するそうな...

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