2018-04-01

超自然主義を見た... 人生はノーパンだ!はかない...

今日、四月一日、午前四時... ステーキハウスでこってりとした朝食をとり、いつもの一日が始まる。脂ぎった精神には、ジューシーな脂肪分を摂取せねば...
ポータルサイトを訪れては、右から左へ流れていく情報の群れ、群れ、群れ... そして、じっと手を見る。我、退屈なり!
物憂い小春日和が、すべてを物語っているではないか。劇的なドラマなどあろうはずがないと。ちょっとした変化に期待しても、想定外の変化は迷惑千万!最後の砦を頑なに守ろうと必死だ。自我という砦を...

すべてを曝け出し、自然体でいることが、如何に難しいか!これを素直に実践できれば、思考の柔軟性を富ませるであろうに...
おいらはポーカーフェースが苦手だ。シリアスな顔は1分ともたない。慣れない筋肉を使えば、顔の筋肉がつる!自然体を体現するには、まずは力まないこと。まずもって自己を欺瞞しないこと。だが、自分に嘘をつかないで生きることが、如何に難しいか!そもそも嘘をついていることに、自分自身が気づかないでいる。
むかーし、ノーパン喫茶というのがあったと聞く。ノーパンしゃぶしゃぶってのも耳にした。そんな専門用語を羅列されても、おいらには何のことやら?まったく縁がない!決してない!断じてない!
ちなみに、「忘れっぽい嘘つきほど、気の毒なものはない。」とは、F・M・ノールズの言葉だ。
自己とはなんだ?交通事故の類いか?欺瞞とはなんだ?銀杏の類いか?夜の社交場で出会い頭に店に入ると、いつも乾き物をつまんでいる。
すべてを曝け出し、自然の姿のままでいることが、如何に難しいか!いくら仕事場が完全個室で、生まれたままの姿でいられるとはいえ、玄関のチャイムが鳴るとパンツを履くのに大慌て。実に果敢ない!思考が集中していれば、我を忘れてスッポンポンでお出迎え。その時に限って女性のセールスときた。いや、セールスお断りを強烈にアピールできれば、OK!ある落語家は言った... 人生はノーパンだ!はかない!

1. フル思考とフルチン志向
ゲシュタルト崩壊を起こした今、夢も現実もごっちゃ。妄想に耽り、妄想が妄想を呼び、妄想の産物が煩悩を神格化させる。それでもなお、ナマの女体に遠く及ばないとは、どういうわけだ?
思考を自由に解放することが、如何に難しいか!思考の制御は実に手強い。集中力ってやつは、いつも気まぐれときた。思考の方向性を誘導することはできても、難題を本当の意味で解決するためにはフル思考を要請する。最も理想的な精神状態と言えば、フロー状態であろう。無我の境地に達することができれば、雑念が完全に消え去り、時間や空間を超越した快楽へ導かれる。
ただ奇妙なことに、着想が湧いて出る瞬間は、思考しようという思惑から解放された場面に遭遇する。トイレで遭遇するという人もいるが、おいらの場合はお風呂!気分転換にスパでオイルマッサージを受けていると、突然解決策が頭に浮かび、メモに走る。かのアルキメデスには、叫びながら浴場から素っ裸で飛び出したという武勇伝がある。ヘウレーカ!フル思考とフルチン志向はすこぶる相性が良いと見える...

2. 裸体族を夢見て...
かつて人間社会は自然界の一員であった。現在もそうなのかは知らんが、自然回帰への憧れとして、ヌーディスト祭りなるものが出現した。それは、現代社会がもはや自然には戻れないという絶望感の現れか?どこかに人工的文化に歯止めをかけないとまずいとの考えからか?ナチュラリストと呼べば聞こえはいいが、ヌーディストと呼ばれると赤面しちゃう。
自由な身体の文化は、十八世紀末にドイツで始まったと聞く。それは、工業化や近代化に反発する形で現れた。その伝統は、1927年に公開されたサイレント映画「メトロポリス」に通ずるものがある。近未来批判ってやつだ。ナチス時代に廃止されるものの、その後、アーリア人の身体を語る文化として復権したらしいが、七十年代の旧東ドイツで盛んになったとか。FNN ビーチなどは伝統精神を守っているようで、一度誘われたことがあるが、その精神が健在とはいえ、若者離れが進んでいるとも聞く。
やはり生まれたままの姿は、自然とすこぶる相性がいい。家の中でもフルチンでいたいが、家族がいればそうもいかない。一人暮らし時代の、あのぶーらぶらな生活が懐かしい...

3. 自然学は、やめられまへんなぁ...
天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。
アリストテレスは、「自然学」という大作を成立させ、形而上学を第一の哲学、自然学を第二の哲学とした。彼の運動論は、「存在」という観念的な上位概念から発しており、実際、物質的存在を強烈に印象づける物理量が「重力」ってやつだ。命の重さを問うたところで、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。ひたすら自己存在の重さをアピールし、女性は天空の聖母に憧れて体重計の御前で存在の軽さを演じる。人間ってやつは、なにごとにも存在を意識した途端に、その存在意義を求めてやまない。そして、精神という得体の知れない存在を、形而の上に位置づけるのである。人間の存在が自然界の合目的に適っているか?って、そんなことは知らんよ。
そういえば、ある作家が、こんなことを言ったとか、言わなかったとか...
さて、諸君は自然哲学者と宗教家との違いをご存知だろうか。自然哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、真理が見つからないと嘆いては、弁証法級の屁理屈を並べて自己満足に浸る連中。宗教家とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、それを見つけたと豪語しては、信じる者は救われると吹聴して回る連中... と。
ちなみに、「信じる者」と書いて「儲かる」となる。自然学にせよ、信仰にせよ、やめられまへんなぁ...

「満足は、自然の与える富である。贅沢は、人間の与える貧困である。」... ソクラテス

「自然によってつくられた、人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって、人間と人間との間にできるものである。」... ジョン・アダムズ

「すべては自然が書いた偉大な書物を学ぶことから生まれる。人間が造る物は、すでにその偉大な書物の中に書かれている。」... アントニ・ガウディ

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