2018-10-28

"自由からの逃走" Erich Seligmann Fromm 著

自由とは、実に厄介な代物だ。いざ自由を与えられても、凡人には何をしていいか分からない。大人どもは、いつも文句を垂れる。具体的に示せ!と...
誰かに当たる性癖は依存症の表れ。政治家に当たってはお前のやり方が悪いと弾劾し、道徳家に当たっては空想論もいい加減にしろと糾弾し、教育家に当たってはお前のしつけが悪いと誹謗中傷を喰らわせ、小説家にいたっては人類を救え!などとふっかける。
巷にはハウツー本が溢れ、ノウハウセミナーはいつも大盛況ときた。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで、まさにマニュアル人生。才能豊かな連中ときたら、哲学者の語る曖昧な言葉を金言にできると見える。何をヒントにするかは、自由と言わんばかりに...
一方、移り気の激しい大衆は右往左往するばかり。洪水のごとく押し寄せる流行りの知識に消化不良を起こし、要求するばかり。もっと分かりやすくしろ!と...
これほど無意識の領域が広大だというのに、なにゆえ自由なんてものが信じられるのか。これほど気まぐれな奴隷に成り下がっているというのに...
本当の自由なんぞ、この世にありはしない。あるのは自由感だけだ。あるのは自己満足感だけだ。人生に意味や目的があるのかは知らん。それを求めてやまないのは自己に意味があると信じ、存在感を噛み締めたいだけだ。真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。正義感に操られては非難癖がつき、倫理観に憑かれては意地悪癖がつき、理性や知性までもストレス解消の手先となる。自由に生きるよりも、人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにしながら生きる方がはるかに楽ってものよ。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼が、自由が欲しい!と大声で叫んでいる間も、天才どもは静かに自由を謳歌してやがる。どう足掻いても奴隷に成り下がるのであれば、そこから逃げるほかはない。人生はまさに逃亡劇...

「もし私が、私のために存在しているのでないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。もし私が、ただ私のためにだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。もしいまを尊ばないならば... いつというときがあろうか。」
... 「タルムード」、第一篇「ミシュナ」より

フロイト左派で知られる心理学者エーリッヒ・フロムは、社会的過程から人間の情動を読み取ろうとする。生を授かり終焉するまでの間、人とのつながりを完全に拒絶することができないのは、いわば人間社会の掟。すでにアリストテレスが定義しているではないか... 人間は生まれつき社会的な生き物である... と。
完全に自給自足のできる存在といえば、やはり神か。寂しさなんぞ恐れず、孤独を存分に謳歌できるから、沈黙のままでいられるのか。共同できないものが獣だとすれば、人間を共同できる存在とし、神と獣の中間に位置づけて慰める。そして、集団の中に最も深刻な孤独を発見する羽目になろうとは...
注目したいのは、ファシズム的服従とデモクラシー的抵抗、サディズム的傾向とマゾヒズム的傾向を対立させながらも、根源的な衝動は同じところに発しているとしている点である。本書の初版は、1941年刊行、ヨーロッパがナチズムに席巻された時代。フロムは、個人の自由が脅かされる過程を、権威主義や全体主義の政治的圧力だけでなく、自由に対する恐れと自由からの逃避という衝動を絡めながら考察して魅せる。
自由が耐え難い重荷になるか?と問えば、それは十分にありうる。個人の自由が他人の自由の脅威となるか?と問えば、それも十分にありうる。自由意志の根源を哲学的に問えば、自律と自立が要請され、ひいては孤立と孤独に引きずり込まれる。孤立と孤独ほど人間を不安に陥れる効果的な道具はあるまい。自由意志は能力主義と相性がよさそうに見えるが、自由は能力によって制限され、能力の欠乏が無力感を助長し、不安に陥れる。この不安は服従へいざなうのである。画一化された集団の中に自我を埋没させれば、不安から逃れられる。自発的な服従も、盲信的な服従も、やはり自由感に発しているようだ。大衆は酔う!国家という幻影に... 自由という暗示に... そして、酔っている自己に酔う...

ところで、自己ってなんだ?交通事故の類いか?自由意志の正体は、自由電子の集合体なのかは知らん。気まぐれが自由電子の衝突確率で決定づけられるとすれば、やはりそうなのか。天才たちは、何を衝突させているのだろう。人は欲望と抑圧を衝突させる。抑圧の中に自由を発見し、禁断の中に衝動を見出すのである。その証拠に、愛ってやつは、自我の叛逆のうちに失楽園を夢想し、成就した瞬間に興醒める。障害が大きいほど燃えるというが、不倫ってやつはよほど燃えるらしい...

1. 人間性と社会性
本書は、愛や憎しみ、権力への欲望や服従、官能的な享楽や恐怖、創造的な情熱や不安など、個性を彩る衝動までも社会的過程の産物だとしている。社会は、抑圧的な機能を持つと同時に、創造的な機能を持っているというのである。
あらゆる創造物が相対的な意識から生み出され、あらゆる価値観が善悪美醜のごとく対称性にうちに見出される。外界を観なければ内界を知ることもできず、内界を熟慮しなければ外界を判断することもできない。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命である。人間性というものが、生物学的に説明のつく確固たる概念なのかは知らんが、一人の人間の内に一つの力学が働いているのは確かである。それは、欲望と抑圧の力学である。これが、極めて経験的で、文化的で、社会的な過程において育まれたものといえば、そうであろう。
しかしながら、断言されると、酔いどれ天の邪鬼は条件反射的に反発してしまう。確信と懐疑の力学が働くのである。もっといえば、理性の根源はどこからくるのか?と問えば、直感的な、いや直観的な部分もありそうな気がするし、先験的な何かに発している部分もありそうな気がする。孤立しても自制心は働くであろうし...

2. ファシズムとデモクラシー
ファシズムは、結束主義といえば聞こえはいいが、個人を犠牲にして国家権力に服従する傾向が強すぎるほどに強い。民主主義社会における個人の堕落ぶりを声高に宣伝すれば、個人の自由というものに疑問を持ち、国家に犠牲を捧げる意志こそが美徳に見えてくる。デモクラシーにしても、個人の人権尊重といえば聞こえはいいが、画一的な価値観に飲み込まれるという意味では、服従という見方もできる。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合の良いものはない。ゲッペルス文学博士は小説の中で、こう書いているという...
「民衆は上品に支配されること以外なにものぞまない。」
結局、大衆は全体主義国家の奴隷になるか、民主主義国家に広く行き渡る画一化の奴隷になるか、二つの選択肢しかないというわけか。政治理論ではファシズムとデモクラシーは対極に位置づけられるが、集団的意志に身を委ねるという意味では同じ服従なのかもしれない。
そして現在、グローバリズムへ邁進するほどナショナリズムを旺盛にさせるが、これも類似に見えてくる。不安が服従を助長させ、服従が不安を増幅させ、敵意と反感を旺盛にする。そして、集団や組織や制度に文句を垂れる。文句を垂れるということは、依存していることであり、縋っているということか。現代人がますます批判的になっていくのも、その表れであろうか。近代合理主義は、いつも自由を叫びながら、自ら自由を束縛してきたのかもしれない。無意識という非合理主義に翻弄されて...

3.サディズムとマゾヒズム
「権威主義的性格の本質は、サディズム的衝動とマゾヒズム的衝動との同時的存在として述べてきた。サディズムは他人にたいして、多かれ少なかれ破壊性と混同した絶対的な支配力をめざすものと理解され、マゾヒズムは自己を一つの圧倒的に強い力のうちに解消し、その力の強さと栄光に参加することをめざすものと理解される。サディズム的傾向もマゾヒズム的傾向もともに、孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服するために共棲的関係を求める要求とから生ずる。」
権威主義や官僚主義の下では、サディズムとマゾヒズムは、すこぶる相性がいいらしい。
サディズムは、思いのままになる者を愛し、思いのままにならぬ者を虐待する。この場合の愛し方は、命令して従わせることで、支配欲との結びつきが強い。そのために画一的な集団性を欲し、独立心を忌み嫌う。しかも虐待の対象までも必要とするのである。
マゾヒズムは、信頼する者や崇拝する者に特に愛されようと望み、思いのままになろうとする。そのために集団の中での自己の立ち位置を強く意識し、出世欲との結びつきが強い。
支配する側は、崇められる存在でなければならず、そのために偽りの自己を演出し、支配される側もまた、お気に入りになろうと偽りの自己を演出する。どちらの苦悩にも、自己喪失、あるいは二重人格性の傾向が見て取れる。どちらも人間の弱さを露出させ、集団依存性が強く、虚栄心との結びつきが強い。
指導や教育の場で、叱って伸ばすか、褒めて伸ばすか、という議論をよく見かけるが、叱ったり褒めたりする側も、叱られたり褒められたりする側も、ある種の快感を覚えるであろう。支配する側も、支配される側も、愛の奴隷というわけか...
とはいえ、人間であれば、どちらかの傾向にあるだろう。ちなみに、おいらは、M だと断言できる。だって、神から恵まれる自由を信条としながらも、小悪魔から恵まれる甘いわな(= なわ)に縛って欲しい...

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