2018-11-04

"フロイトの使命" Erich Seligmann Fromm 著

アリストテレスは、師プラトンを友と呼んだが、彼以上に真実を友とした。ここでは、フロイトを超えようとした新フロイト派の雄が、師の精神分析を試みる...
成功することで破滅するタイプの人間が、確かにいる。精神分析学の創始者ジークムント・フロイト。この偉大な精神分析医にして、自らの精神分析には疎いと見える。真理と理性への尋常ではない情熱がゆえに、権威主義とその偏狭ぶりを露わにし、自己中心的な依存と誇りの葛藤に苛む。彼は孤独であった。孤独に悩み、孤独への妥協を許さず、孤独へ向かう勇気を誇りとし、矛盾の蔓延する超自我の中をさまよう。
エーリッヒ・フロムは、自我ってやつがいかに手に負えないヤツかを物語る。とはいえ、学説から見出される誤謬を批判していると、一緒に最も価値ある部分までも放棄してしまう危険がある。ヒトラー主義やスターリン主義へ傾倒していく時代、フロイトは合理主義者としての最後の砦のような存在で、ラテン語の格言 "Sapere aude.(知ることを恐れるな!)" を体現したような人物だったと評している...

フロイトとは、どんな人物だったのか?彼の批判者たちが噂するような官能的で無教養な退廃的ウィーン人だったのか?それとも、彼の後継者たちが信じるような偉大な教師で、反対者にも親切に接した人物だったのか?一人の人間分析において、世間の悪口や名声はあまり当てにならないとしても、彼がある公式に出会ったことは事実である。それは快楽原理と呼ばれる。
「快楽は積極的な悦びよりはむしろ、不快さや苦痛の緊張からの解放である。」
一つの人物像としては、アインシュタインとの共著「ヒトはなぜ戦争をするのか?」の中で垣間見ることができよう。二人は互いに平和主義者として共感し、人間が喜んで戦争に参加する心理について書簡を交わしている。それは、死の本能に根ざしていること... 文明が進化するにつれ、破壊的傾向が超自我の形で内在化すること... 自由主義者も、社会主義者も、愛国心を旺盛にさせるのは、自我を集団の中に埋もれさせることによって、個人の重荷を軽減させようとしていること... といったことである。
「フロイトの、本能を理性によって支配するという基本的な理想が、自分の宿命を方向づけることは普通の人間の力では不可能である、という深い不信の念と結びついているのを知る。これこそフロイトの生涯の悲劇の一つである。ヒトラーの勝利の一年前、彼は民主主義の可能性に絶望し、唯一の希望として勇気のある、自分の欲望をおさえる選民達の独裁を主張した。精神分析を受けた選民のみが、無智の大衆を指導し、支配できるということが、その希望ではなかったろうか...」

理性の力を信じる点では、フロイトは啓蒙時代の子供であったという。しかしながら、大きな子供ほど手に負えないものはない。母や妻への母性愛への強い依存と女性蔑視との対立や、友人や弟子への依存と強い独立意識との対立から、二重人格性を覗かせる。
女性を男性より下位に置きたいという欲求は、強迫的ですらあったという。女権解放問題ではジョン・スチュアート・ミルを批判し、馬鹿げた人間性のない男と言い放ったとか。偏見に満ちたヨーロッパの伝統精神に反対しながらも、女性問題となると伝統的な考えに固執する。
蔑視感情は、師や同僚や弟子にも向けられる。理論上の反対意見を提出する人たちとは、ことごとく絶好状態へ。精神分析学という構想を与えた良き指導者ブロイエル、親友フリース、さらに、弟子のユング、アドラー、ランク、フェレンツィらも離れていく。ユングには「私の息子であととり」と発言したこともあったとか。フロイトの性格における受容的な依存症と誇り高き独立像との葛藤は、凄まじいものがあったようである。

また、自らの英雄列伝をナポレオンやハンニバルと重ね、さらにはモーゼとの同一性を唱えたという。
「モーゼが賤しいユダヤ人から生まれなかったように、ちょうど私もユダヤ人ではなくて、王族の子孫である。」
彼の名からしてユダヤ系であることは想像に易いが、ここに父親への反発心を覗かせる。母親の子供への愛は父親のものとは違う。父の愛は子供の行為に応じて与えられるが、母の愛は無条件に与えられる。そして、自分の血筋を呪ったのかは知らんが、晩年のモーゼ研究に執念を見せる。モーゼがヘブライ人ではなく、エジプト人であったことを証明しようと...
この思慮深い男が、権力を振りかざした野蛮人がユダヤ人の抹殺を図った時代に、なにゆえユダヤ人の英雄伝を抹殺にかかったのか。合理主義の極致を示しながら、自ら合理主義に致命的な一撃を喰らわそうとは...
正統フロイト理論と正統マルキシズム理論との間には、奇妙な関連性があるという。フロイト派は、個人的な無意識を見て社会的な無意識を見ようとしなかったが、マルクス派は反対に、社会行動における無意識的要因を鋭く意識しながら、個人的な動機を評価する点で甚だ盲目であったと。
フロイトは、人間としての自分を自慢しなかったが、自らのもつ使命には誇り高かったという。その権威的な支配欲は、けして虚栄心や利己心と無縁とは言えまい。彼は、自己統制的人間になることを強すぎるほどに求め、無意識の領域までも理性によって統制できると信じていたが、それも自己満足に過ぎなかったということか。自ら課した使命に憑かれ、自らの使命に溺れていく独りよがりの末路は、ある種のナルシシズムを思わせる。
「個人の無意識を理解するためには、自分の属する社会の批判的分析が前提であり、欠くことのできないものである。フロイト派の精神分析学が自由主義的中産階級の態度を捨てて、社会一般に目を向けることができなかったという事実は、その狭さと、個人の無意識を理解するという特殊な領域に結局とどまってしまった一つの理由なのである。」

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