2009-03-22

"哲学者ディオゲネス" 山川偉也 著

「酔っ払ったディオゲネス」を名乗るからには、この本を避けては通れない。ディオゲネスは、自ら非人間階級に属し、積極的に社会からの関与を拒んだ。名誉を捨て、物乞いとなり、進んで乞食となったこの人物は、世間から犬と蔑まれる一方で、生きる上での必要な誇りとは何か?を追い求めた賢人とも評される。イエスしかり、偉人はホームレスの中に生まれるものなのかもしれない。ラファエロ作「アテナイの学堂」には、有名なギリシャ哲学者と一緒に描かれ、中央で一人だらしなさそうに横たわっているのがディオゲネスと言われている。その描かれる位置からは存在感が伝わり、その姿からは異端者であることが感じられる。
大甕に住んだと言われるこの犬派の哲学者を語る時のアル中ハイマーは熱い。本書も文庫本でありながら500ページと厚い。後書きには、600ページを超す原稿量になったが、500ページ以内に収めてくれと言われてかなりの部分を削除したとある。おいらの論文も長くしつこいので、必ず削るように指摘される。特に、理系の文書はコンパクトさが好まれ、余計な修飾は蔑まれる。ただ、前提条件を細かく吟味することは有用だと考えている。でも、世間からは受け入れられない。必要無ければ、読者が判断して読み飛ばせば済むことではないのか。おいらは前戯に目が無いのだ。実際に理系の論文であっても芸術的で感動させられるものもある。主観と客観を明確に使いわける分には大した問題にはならんだろう。ゲーテ曰く、「想像力は芸術によってのみ制御される。」文章表現はその人の精神を顕にする。表現の仕方を否定することは、その人の精神を否定することにもなる。ここで思い出されるのがモーツァルトの逸話である。それはオペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだったと思う。皇帝ヨーゼフ2世が「我々の耳には音譜が多すぎるようだ!」と言うと、モーツァルトは「音譜はまさに必要とされる量ございます!」と食い付いた。そう、芸術の域に達するものは、作者の主観に委ねられるべきだ。確かに、あまり分厚いと文庫本の読者からは敬遠されるだろう。だが、なるべく削らずに残してもらいたかった。たっぷりと主観を交えた専門家の意見を聞きたい。読者が客観的な目で眺めればいいだけのことで、作者の思考の深さをじっくりと味わいたいものだ。文庫本という形態にも制約があるのだろう。ならば上下巻に分ける手もある。などと思うのも、ディオゲネスに関する文献があまりに少ないからである。数々の逸話が残されているにもかかわらず、史料の少なさはアンバランスと言うほかはない。この人物は西洋でも意外と知れ渡っていないらしい。その理由はよくわからないが、思想が明確に残されていないからではなかろうか。その思想は逸話から想像するしかない。
本書は、数々の逸話を考察しながら、ディオゲネスの「世界市民」という世界観に迫ろうとする。その考察はかなり丁寧で、読むのも大変であるが、なかなかの重厚ぶりを披露してくれる。ディオゲネスについてこれだけ熱く語られた文献を他に知らない。おいらにとっては待望の作品である。ちなみに、アル中ハイマーは子猫ちゃん派である。

古代ギリシア時代に現れた都市国家群には、なんとなく興味がある。それも、グローバリズムの進む現在において、都市モデルとして通ずるものを感じるからである。ディオゲネスが生きた時代は、アテネイ、スパルタ、テバイベなどの有力な都市国家が凋落し、マケドニアが台頭してきた時代である。その時代に「世界市民」思想を先取りしていた点も興味深い。本書は、思想に迫るための前提条件として、逸話に対する信憑性から論じている。歴史家は、こうした曖昧な事象を放っては置けないのだろう。でなければ専門家とは言えない。これらの逸話は、ドラマティックに仕立て上げられているのも事実で、ほとんどが疑わしい。だが、その事実関係に目くじらを立てるつもりはない。それも二千数百年前の話だ。現在でさえ、著名人の語った見識を正確に報道できないでいる。注目したいのは、なぜこれらの逸話が、しかもこのような形で残されているのかということである。歴史の逸話には、通常その対象を称賛するか、あるいは、蔑むかといった一方向での誇張が見られる。ところが、ディオゲネスの逸話となると、その両方の傾向を合わせ持つところに謎めいたものがある。プラトンに「狂ったソクラテス」と渾名されるあたりは、ソクラテスと同列に扱われていると言ってもいい。アレクサンドロス大王やマケドニア要人との逸話は、思想や体制への批判であることは想像に易い。歴史には、本人が意図していたかは別として、周りの人々によって担がれ政治利用されてきた著名人が多い。ディオゲネスはアテナイの有名人で、しかも変人扱いされていたがゆえに、そうした象徴にされたのかもしれない。それは、おそらくキュニコス派(犬儒派)によってであろう。だとしても、反体制思想を持っていたことは間違いないように思える。本書は、プラトンと直接議論した可能性を否定し、批判の対象はその弟子アリストテレスに向けられたものだと語り、アリストテレスの国家思想と対比させる。本書の半分近くがアリストテレスについて議論しているという丁寧ぶりだ。また、資本主義の源流とも言うべき姿も現す。これらは推理小説ばりの展開が見られておもろい。

アリストテレスと言えば、幸福主義が思い浮かぶ。市民は平等であり、その最高善は幸福であるというものだ。しかし、「市民」の定義に疑問を持たざるをえない。その根底には「生まれつき奴隷」の思想があるからだ。そこには「市民」の身分を獲得できない人間が存在する。女、奴隷、農民、商人、手工業者、在留外国人など。古くから市民の自由や平等を唱えた政治家や思想家は多い。にもかかわらず、近代まで奴隷制や人種差別や植民地を伴なってきた歴史がある。古代ギリシア思想の終着点とも言えるアリストテレスの思想や、マケドニア人による支配体制を批判したのがディオゲネスの「世界市民」思想である。そこには「自足」と「上下逆転」の概念が現れる。どんな境遇の下に生まれるか、どんな国家に生まれるかは、運命とも言うべき偶然性に支配される。ディオゲネスは、家柄、富、名声といった生まれの違いを、「悪徳をめだたせる付け足しの飾り」と呼ぶ。これは、まさしく「生きること」がではなく、「よくいきること」が大切だと説いたソクラテスの精神を継承したものである。金と名声は、往々にして人を堕落させる。怠惰を求めると、なぜか勤勉になる。人間とは、おもしろい因果の下で生きているものだ。「世界市民(コスモポリテース)」という言葉は、ディオゲネスが作ったという。この言葉は、弟子クラテスを通じてストア学派の祖であるゼノンに伝わり、やがて帝政ローマの基本思想となる。ルネッサンス後は、欧州の道徳家たちの思想基盤となり、ルソーやカントの世界市民思想の伝統は、ニーチェなどを通じて現代まで受け継がれる。こうした継承の源流にディオゲネスの影が映るのは気のせいだろうか。ゲーテにも「聖ディオゲネス」という言葉を使った格言めいたものが現れる。

現在のグローバリズムには二つの対立した関係がある。それは国境を越えた分配思想と愛国心である。愛国心はグローバリズムと矛盾するという意見もあるが、それは本当だろうか?問題は宗教のように他を否定するところにある。過去にも「世界市民」と似通った言葉を使った政治家や思想家は多い。彼らは、自らの立場を正当化し言葉を操るのが得意だ。政治家や思想家は、物事を何もかも二極対立構造で捉えすぎる傾向がある。経済現象しかり、社会現象しかり、専門家は類似の議論をする。二極議論は分かりやすいので、注目もされ、大衆を扇動しやすい効果がある。人間は揉め事が好きなのだろう。精神は退屈しているのだろう。宗教では「聖なるもの」と「俗なるもの」という二つの関係で規定される。果たして、複雑系である人間の本性を二極対立の議論で単純化できるのだろうか?天体の二体問題は厳密に解けても、三体問題となると途端に迷走する。現在のグローバリズムは、欧米化であったり、先進国化であったり、異宗教の不和であったり、外国人の排除であったり、国粋主義であったりと、お国の事情によって様々な矛盾が対立する。神様は人間の精神を退屈させないために、矛盾の概念をお創りになったに違いない。この時代にディオゲネスが生きていたら何を語ってくれるだろうか?彼が唱えた「世界市民」とは、そんな単純なモデルであるとは信じたくない。こうなると「世界市民」の定義がなされていないことが残念だ。その分、想像の世界は広がる。モザイク画像だからこそ想像が膨れ上がって興奮するのだ。

1. 通貨変造事件
「そのことがあったればこそ、哀れな奴め、わしは哲学をすることになったのだ。」
「そのこと」とは通貨変造事件である。ディオゲネスはシノペの人で、古代都市シノペは現在のトルコ北端にある黒海沿岸のシノップという港町で、その名はアソポス河神の娘シノペに由来する。ディオゲネスの父は、銀行家ヒケシオスであるが、ただの銀行家ではなかったという。それは通貨発行に関わる最高責任者だったという。通貨変造事件を引き起こしたのは、ディオゲネス自身か父かは不明であるが、その事件によって父は投獄され、ディオゲネスはシノペから追放される。では、なぜ通貨を変造したのだろうか?それは、既に偽造通貨が多く出回っていて、シノペ通貨の信用が傷ついていたという。これは国家を揺るがす大問題である。この対策が通貨変造であると言われる。これは、むしろ正当化されるべき行為である。なのになぜ犯罪者とされたのか?当時ギリシアとペルシアが対立し、シノペはその間に位置する。本書は、シノペにペルシア帝国を後ろ盾にした勢力が入り込んでいたという推測を紹介する。また、単なる下級役人の不注意でノーマルな硬貨に対しても変造されたのではないかという推測も紹介する。ここには陰謀の香りがする。だからこそ、官僚の地位から振り子が真逆に振れて、自由人として生きたのではないだろうか。そして、国を捨ててアテナイへ流れ着き、哲学者となったのではないだろうか。

2. 狂ったソクラテス
プラトンにとって、ソクラテスは英雄的な存在であり、ディオゲネスはソクラテスの真逆の人物であった。「狂ったソクラテス」と表されるからには、ソクラテスと同列に扱われたとも言える。しかし、一般的には同列扱いされることを不快に思う人もいるだろう。ソクラテスは、追放刑を申し出れば助かったものを、自ら毒杯を仰ぐ「遵法の人」だった。ソクラテスは、不信心にして新しき神を導入し、青年を腐敗せしむる者として死刑を宣告されたが、あくまでもアテナイを愛し、国法に従ったのである。ただ、既に年老いていたので気力も失せていたのかもしれない。一方、ディオゲネスは、自ら国を捨て、国境なき世界市民として生きた。本書は、もしソクラテスが追放刑になって助かったならば、ディオゲネスと同じような道を辿ったかもしれないと考察する。両者の違いは、母国にこだわったかどうかであり、そこには思想的な類似性が現れるという。その思想とは、国境にとらわれない世界市民主義である。

3. アレクサンドロス大王との会見
ディオゲネスの逸話で最も好きなのがこれである。コリントスでアレクサンドロス大王と会見する。この地でギリシア軍が集結し、ペルシア遠征へ向かう直前の場面である。大王は、多くの政治家や哲学者が挨拶にくる中、ディオゲネスも出向いてくると期待した。ところが、ディオゲネスは大王すら相手にしない。そこで、大王の方から出向き、日向ぼっこをしているディオゲネスの前に立つ。この会話は本書と少々違うが、おいらはこの方が好きだ。
A: 「余が大王のアレクサンドロスだ!」
D: 「わしが犬のディオゲネスじゃよ!」
A: 「お前は物乞いだと聞く。欲しいものがあればなんでも申せ!」
D: 「では、日が陰るから、そこをどいてくれ!」
A: 「おまえは余が恐ろしくないのか?」
D: 「おまえは何者だ?善人か?悪人か?」
A: 「むろん、善人だ!」
D: 「ならば、誰が善人を恐れようか!」
会見後、ディオゲネスの誇りに感銘を受けて、次のように洩らしたという。
「余はアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスでありたかった。」
この逸話には、ディオゲネスの偉大さもうかがえるが、アレクサンドロス大王の傲慢さも伝わる。本書は、この逸話も判官びいきのディオゲネス伝作者によって作られたものだろうと推測している。そして、マケドニアの要人との逸話では、そのほとんどがディオゲネスを反マケドニア派に仕立て上げようとする作為を感じるという。いずれにせよ、大王をも引き立て役にしての伝記が残るということは、それだけの存在感を考慮しなければならない。何を言ったかは別にして、両者が会見した可能性までは完全否定できないだろう。それにしても、ディオゲネスの死んだ日が、アレクサンドロス大王と同日というのは、あまりに出来過ぎである。だが、これを反証する証拠はないらしい。

4. アリストテレスの思想
プラトンが「人間とは二本足の、羽のない動物」と定義すると、ディオゲネスは、雄鶏の羽をむしりとり、「これがプラトンの言う人間だ」と言ってアカデメイアに乗り込んだという逸話がある。ただ、時系列的にも実際に両者が体面したこと自体が怪しいという。これは、プラトンへの批判というよりは、アカデメイアで講義するアリストテレスを批判したとするのが妥当だという。ただ、プラトンが「狂ったソクラテス」と揶揄したことは、噂で耳にすることはできるので、否定はできないようだ。アリストテレスは、「人間とは、その本性においてポリス的動物である」と定義した。そして、全てのポリスは共同体であり、その共同体は善を行うためにつくられるとした。人間が生きていくためには共同するしかない。ここに神と人間の境界線がある。アリストテレスは、共同を必要とせずに自足できる者が神か獣で、共同を必要としなければ生きていけないのが人間であると主張する。ここでおもしろいのは、共同を必要とせずに自足できるものに、獣を含めているところである。詭弁のようにも思えるが、獣とは罪人などの非人間階級を指している可能性がある。なんとなく、国もなく、家もなく、日々を物乞いしてさまよう人間の存在を感じる。ディオゲネスこそ、共同することのできない人間で、「犬」のレッテルを貼られている。アリストテレスの世界観には、人間中心主義的自然観と目的論的自然観がある。全ての自然が、その必然性によって生まれ、奇形も一種の獣として扱う。奴隷も獣と同様で戦争の道具であり、「生まれつき奴隷」という概念がある。アリストテレスは、あらゆる動物の中で、最も完全なのが人間で、その中でもギリシア人が最も完全で、男は女よりも完全であるとした。アリストテレスの国家構想は、支配する者と支配される者によって成り立つ奴隷制を前提としている。

5. アリストテレスの正義
アリストテレスは、人間を「国家への貢献度」という物指しで査定したという。ただ、この時代に宗教との関わりを断ち切っている点では評価できそうだ。アリストテレスは、ユークリッド以前の人物であるが、その法則には幾何学的命題にも精通している。政治体制が違えば、人物や事物の価値を測る基準は変わる。だが、変わらないものがあるという。それが「需要」である。ただ、需要自体は計算することができない。だから、これに代わって万物を数えたり比較するための手段が必要となる。アリストテレスは、それが金銭だと主張する。貢献度の尺度として、一見能力主義を唱えているようだが、評価対象が技能ではなく、人間そのものであることに注目すべきであろう。人間の価値は値札をつけられてランク付けされるのだ。人間関係が資本関係に置き換えられ、貨幣至上主義を打ち出しているようでもある。この尺度によって配分の正義と、交換の正義が成り立つという理屈で、奴隷に値がつくのもうなずける。実際には、人間の価値評価は曖昧なので、不平等が生じるのは言うまでもない。この思想は、今日、安く買って高く売るという不平等交換が国際市場を動かし、それが一部の投機家によって扇動され、投機に直接関与しない人々までもが失業し自殺に追い込まれ、世界規模の経済危機に陥れられる様子と重なる。本書は、アリストテレスの正義を、プロタゴラスの命題「万物の尺度は人間である...」をもじって次のように結論付ける。
「万物の尺度は金銭である。それ故に、正義の本質は金銭である。」
アリストテレスは、人間社会に不平等が生じるのは当然だと言っているようなものだが、市民階級に限っては平等と言っている。これは市民階級の人間能力は皆同じということか?ここで、ディオゲネスのピッタリとはまる言葉がある。
「人間どもよ!と叫ぶと人々が集まった。おれが呼んだのは人間であって、がらくたなんぞではない。」

6. 「自足」と「上下逆転」の概念
「自足」をプラトンの定義集から引用すると、「自分で自分自身を支配する」とあるらしい。つまり、人生を自ら指導する能力、人生を思いのまま生きる能力ということである。
デモクリトス曰く。「思慮ある人とは、自分が所有していないものについて思いわずらうことなく、現に所有しているもので喜びを感ずる人のことである。」
限度をわきまえて必要以上のものを求めない能力は動物の方がはるかに優れている。人間は欲望の野放図になる。ただ、欲望の抑制を知識と鍛錬で克服できると主張する哲学者も多い。こうした思想は基本的にソクラテスに通じるものがある。ディオゲネスの思想もこの延長上にあるが、半端ではない。生活に必要なものを最小限に切り詰め、何一つ必要としないといった神々の境地にまで達しようとする。
「あるとき彼は、小さな子が両手で水をすくって飲んでいるのを見て、この子に負けたと言って、持っていたコップを投げ捨てた。」
この逸話は文明否定にもとれるが、そうでもない。それは以下の発言からもうなずける。
「市民国家が存在するのでなければ、文明化していても何の益もない。しかるに、市民国家は文明化をもたらすものであり、また市民国家が存在するのでなければ、法は何の役にも立たない。したがって、法は文明化をもたらすものだ。」
ここで言う国家は、既存の国家を指しているのではない。既存の国家が崩壊した後に見せる理想の国家である。つまり、既存の国家では、まだ文明すら語れるレベルにないと言っている。ディオゲネスは、奴隷は主人無しでも生きていけるが、主人は奴隷無しでは生きていけないと揶揄している。ここに「上下逆転」の概念がある。
「人を屈服させ隷属させることによってしか自分自身のプライドや生き甲斐を感じられないような連中は、すべて、自主独立した人間ではなく下劣な奴ら、奴隷に過ぎなかった。」
人間は自らを鍛錬し切磋琢磨して自足の道を歩まなければならない、これこそが自由であると唱えている。

ディオゲネスが奴隷市場で売りに出された時の逸話から...
「おまえはどんな仕事ができるか?と尋ねられたところ、人々を支配すること、と答えた。その時、立っていろ!と命令されても、そんなことはどうでもいいではないか。魚だってどんなふうに並べられていようとも、売られていくのだから。」

ディオゲネス臨終時の逸話から...
「死んだ折にクセニアデスが、どんなふうに埋葬しようかと訊ねたところ、うつぶせに、と答えた。なぜそんなふうにするのか?と尋ねると、まもなく上下が逆転するだろうから、と答えた。」
クセニアデスとは、コリントス市民で、奴隷市場でディオゲネスを買った人物である。ディオゲネスは、クセニアデスの二人の息子の教育と家の管理を任されたという。

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