2019-08-04

"現代音楽の創造者たち" Hans Heinz Stuckenschmidt 著

ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、アルノルト・シェーンベルクに作曲を学び、音楽批評家として活躍した。ストラヴィンスキーの「春の祭典」が受け入れられなかった時代、音楽家の生産物はますます自由主義と表現主義の混合物という印象を与えていく。音響学の対象となるものすべてが手段と化し、いわばなんでもあり。愛の行為や、酔っ払った聖職者や、幻覚に惑わされるファウスト博士や... 様々な場面で擬音や雑音が用いられ、ジャズの断片までも利用される。精神活動のあらゆる様相を表現するために、複雑なリズム、ポリフォニー、不協和音といったものを融合させ、一つの有機体として浮かび上がらせるのである。音楽は、神への奉仕か、それとも悪魔の技か。シュトゥッケンシュミットは、自由な無調性から電気音楽に至る新たな音楽の時代の勇敢な擁護者を演じてくれる。
「わたしのパンテオンには、多くの神々のための席がある...」

世の中の大きな流れの影では、小さな反抗が育まれる。その小さな力が蓄積された時、新たな風潮が出現する。突然変異のごとく。創造と破壊のサイクル、これが歴史というものか。どうやら人類は飽きっぽいと見える。きまって世紀末に、懐疑的で退廃的な傾向が見て取れるのも気のせいか。だが、その新たな風潮も混乱期を経て、同じ志を持つ者の共鳴を呼び、ある様式に収束していく。ルネサンスの時代にも、古典回帰という思潮の下に多くの万能人を出現させた。
しかしながら、そこに辿り着くまでの過程は十人十色。それは、個々が我流で自由を体現しているからであろう。
世間では、自然主義が勢いづいても逆に超国家主義を旺盛にさせ、ダーウィンの徒が勢いづいても神秘主義者は衰えを知らないというのに、ここに紹介される20人もの音楽家たちは実に多彩、多様に自由を謳歌している。象徴派あり、高踏派あり、印象派あり、古典派あり、主観主義あり、構成主義あり、ロマン主義の残党までいる。人そのものが形式だと言わんばかりに...
正しい反論は、その対象を正しく理解してこそ可能となる。新しい事を始めるという行為が、古いものを熟慮した結果なのか、その行為が盲目的で偶像的な破壊行為に及んでいないか、などと問えば、あるワグナー崇拝者は反ワグナー党に鞍替えし、あるシェーンベルク学徒は反シェーンベルク論をあげつらう。それも人の形式に束縛されず、自己形式を追求した結果であろう。自由とは、能力の解放!才なくば、永遠に呪縛をさまよう、というわけか...

ところで、本書で用いられる「電気音楽」という表現は、いつしか「電子音楽」と呼ばれるようになった。その流れは、電子工学との相性の良さを告げている。もっと言えば、数学との相性である。音響学の数学的な研究は、古代から受け継がれてきた。ピュタゴラス音律などがそれである。オクターブ内に12音を均等配置すれば、その組み合わせは単純に、12! = 479,001,600 通り。音楽家たちは、これらのパターンから、不協和音のみならず、雑音までも芸術の枠組みで語り始めた。数学には素数という崇められる存在があるが、小節にもプリミティブな音列が存在するのだろうか...
どんな学問分野であれ探求が進めば、いずれタブーを冒す。動は反動を呼ぶ!これが物理法則というもの。新たな方法論を編み出せば、伝統を汚すとの批判を受ける。だが、新たな試みによってのみしか古典の理解を深めることはできまい。電子音楽には音楽の解放という意義深いものがあり、けしてバッハやモーツァルトを古臭いと蔑むことにはならない。そして今宵の BGM は、「大ト短調交響曲」でいこう...
「あたらしい音の全交響曲は、工業的世界のなかで現われ、われわれの一生を通じて、日々の意識の一部をなしている。もっぱら音をあつかっている一個の人間が、以上のあたらしい音によって、昔とかわらずにいるはずはあるまい。そこで、現代音楽の演奏会を聞いたあとでは、一体、たいていの作曲家は、つんぼなのか、それとも数百年以来、オーケストラが作り出してきた音で満足しているほど想像力が貧弱なのかと、考えないわけにゆかない。」

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