人の一生とは、狂言のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、騎士の仮面をかぶれば騎士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じて生きてゆけるか。そもそも生というものが抽象的で不確かな実在であり、だからこそ、そこに意味を求めるのであろう。そんなものはありはしないと薄々気づきながらも、あると信じてないとやってられんよ...
では、書き手の方はどうであろう。単に物狂いをお笑いネタとして描いただけということはないだろうか。深い意味なんぞこれっぽっちもなく、気ままに筆を走らせた結果ということはないだろうか。もはや作者の手を離れ、作品が独り歩きを始める。セルバンテスは、あの世で嘲笑っているやもしれん。自ら仕掛けた人間喜劇にまんまと引っかかった深読みする読者たちを。まさに諷刺劇の達人!
ところで、深い!とはどういう意味であろう。ここでいう深みとは、きわめて複合的で曖昧なものらしい。互いの人間の性質が絡み合った環境の産物とでも言おうか。それは、五感を総動員しなければ、けして味わえないものらしい。てなわけで、今宵は、ボウモア蒸溜所の Deep & Complex で深酒に落ちるとしよう...
「何をお考えですか。人間は考えるべきではありませんや、考えると老けこみますからね。ひとつごとにこだわっちゃいけません、そうでないと気違いになってしまいます。千の考えを入れて、頭を混乱させておく必要ありです。」
... イタリア旅行中、ゲーテの道連れとなったある大尉の忠告より
文学百選で間違いなく上位に顔を出す「ドン・キホーテ」。17世紀初頭に書かれたこの小説は、当初、滑稽本として受け入れられた。騎士道物語を読み耽け、妄想に駆られた初老の紳士が、古ぼけた甲冑に身を固め、痩せ馬にまたがって旅をする。ひどい時代錯誤に騎士振りと老衰振りのギャップが行く先々で物笑いの種となる、まさに道化物語。当時のスペイン情勢を映し出す、なかなか諷刺のきいた作品である。
しかし、諷刺とは、時代への批判を間接的に表現したもの。おそらく芸術精神は、人間社会への批判や皮肉といった感情から沸き起こるのであろう。疑問を感じなければ、なにも描けない。芸術とすこぶる相性の良い自由精神にしたって、現実社会の束縛から逃れようとする反抗心に発する。滑稽文化が長い時間を経て形式化し、伝統を帯びていくうちに、諷刺芸術として威厳の光を放ち始める。世阿弥の「風姿花伝」にしても、人間の滑稽を自然に演じきる奥義が論じられる。芸の道は人の道であると。
19世紀になると、この道化物語にも新たな読み方が提示され、その流れはドストエフスキーあたりから発しているようである。老紳士が妄想に駆られるのも、ある種の現実逃避。これは、人間の本質を描いた物語である。人間の本性を暴露すれば、ホセ・オルテガ・イ・ガセットのような哲学者たちの餌食となる。
ここに題されるように、「思索」というからには試論である。試論であるからには証明のしようがない。それゆえ、思考を自由に解き放ち、想像を存分に膨らませられる。酔いどれ天の邪鬼は、哲学者たちの評論にいつもイチコロよ。
ところで、狂っているのはドン・キホーテだけであろうか。キホティズムという用語は、良い意味でも悪い意味でも使われる。いつの時代も、大衆は自分の側が正常だと思い込んでいるもの。情報に翻弄される現代社会においても、有識者や道徳者たちの憤慨したコメントほど気違いじみていると感じることはない。いや、そう感じることが狂っている証なのやもしれん...
尚、アンセルモ・マタイス, 佐々木孝共訳版(現代思潮社)を手に取る。
1. 観念の密林
オルテガに言わせれば、「ドン・キホーテ」という作品は「観念の密林」だそうな。木を見て森を見ず... というが、いったい何本の木が集まれば森になるのだろう。読み手の目には、いつも上辺と深さの対立がある。目の前に立ちはだかる木々は、森という総体を覆い隠す。森は、読み手の立ち位置よりちょいと先にあって、一つの可能性を示す。それでも読み手は、本当の森が目に見えぬ木々によって構成されていることを知っている。それは、言葉によって知っているだけであろうか。そうした集合体がなんとなく存在するという感覚が、森の中にいることを確実に意識させる。中心がどこにあるかも知らずに...
「不可見性、隠れてあること、これは単に否定的な性質ではなく、かえって積極的な性質、すなわちある物に注ぎ込まれると、その物を変容させ、それから新しい物を作り出す性質なのだ。... 文字通りに森を見ようとすることは馬鹿げている。森は、それ自身としては隠れたものである。世界が内包する様々な運命 - 尊敬すべきもの、必然的なものも同様 - の多様性を見ない人々に対する、とっておきの教訓がここにある。つまり、明らさまにするなら、亡びてしまうか、あるいはその価値を失ってしまい、反対に隠され看過されることによってその充満性に到達するものがあるということだ。」
2. 環境の摂取
人間の使命として環境を摂取せよ!という。人間は、自己の置かれる環境を十分に意識した時、その環境に溶け込んだ時、自己の能力をフルに発揮できると。環境を通してのみ世界とかかわることができると。環境という寡黙なものたちを、よく観察せよと。神的な力が通っていないようなものは、この世界にはないというが、それは本当だろうか。難しいのは、この力に到達すること。凡庸な読み手は、目の前の幸せにも気づかない。それが幸か不幸か...
「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。Benefac loco illi quo natus es(生れし場所に祝福あれ)と聖書も言っている。プラトン学派でも、すべての文化のモットーとして次の言葉をうたっている。『外観を救え』。すなわち現象を救えという意味である。われわれの周囲にあるものの意味をさぐれということだ。」
3. リアリズムとイデアリズム
人間ってやつは奇妙なもので、フィクションの中にリアリズムを求める。映画にせよ、芸術にせよ、作り話だと承知しながら。小説もまた、虚構の中に事実を発見しようとする。虚構を現実に仕立て上げるという意味では、偶像崇拝の類いか。いや、人間精神そのものが得体の知れない存在なのだから、さして騒ぎ立てることもあるまい。
小説が仕掛けるものの一つに、現実逃避がある。現実と非現実の狭間で葛藤するのは、結構楽しい。そして、自分が発見したものを神のように崇めることができれば、幸せになれるという寸法よ。
一方、純粋な目でしか見えない概念、けして脂ぎった目では見えない概念、といった意味で「イデア」という用語がある。プラトンは数学的な概念を、そう呼んだが、オルテガは、本来、イデアリズムをリアリズムと呼ぶべきものだとしている。
しかし、原型としてのイデアはどこにも見当たらない。それは、ホメロスのような盲人にしか見えないのだろうか。現実を正しく見ることは至難の業。大量の情報に埋もれる現代人には、もはや見えぬ概念であろうか。いや、見えると信じ込めれば、幸せよ...
「芸術は、リアリズムとイデアリズムという二つの無害の言葉をでたらめに使うことによって、ひどい混乱におちいっている。普通一般には、リアリズムは - 物に由来する - ある物の模写あるいは虚構と解されている。だから、現実は模写されたものに相当し、幻想あるいは見せかけが、芸術に相当する。しかしわれわれは、このように仮定された事物の現実を前にして、どのような手を打つべきかを承知しているし、物はわれわれが肉眼で見る通りのものでないことも知っている。人の眼はそれぞれ、異なったものを見るし、時には同一人の中で、両眼が互いに反対しあう... 実現するということは、だから、ひとつの物を写すことではなく、さまざまな物の総体を写すことなのである。そして、この総体は、われわれの意識の中に観念として存在するしかないのであるから、真のリアリストは観念だけを模写する。つまり、この見地からするなら、リアリズムをさらに正確にイデアリズムと呼んでもさしつかえないわけである。」
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