2019-10-27

"芸術の非人間化" José Ortega y Gasset 著

「我は、自分自身が生きていることを自覚した時、これらの肉体的もしくは心理的事柄において、自分自身を所有する。」

19世紀から20世紀初頭にかけて、産業革命に発する近代化の波は、富や資本を再分配させ、思想観念を解放していった。イデオロギー時代の幕開けとでも言おうか。自由主義を旺盛にさせると、王侯貴族のものであった政治や経済がブルジョアジーを経由して市民の手に渡っていく。大衆時代の幕開けとでも言おうか。同じようなことが、芸術の世界でも起こった。いや、むしろ芸術が先導してきたと言うべきか...
芸術ほど思想観念との結びつきが強く、また、芸術的な創造意欲ほど自由精神と相性のいいものはあるまい。しかし、かつての宗派間の闘争がイデオロギー闘争にすり替わっただけで、伝統的な階級が廃止されてもなお、新たな階級を生み出すのが人間社会。いつの時代も、多数派は少数派を飲み込もうとし、あわよくば抹殺にかかる。そして今、多数派に属すことに命をかけることが民主主義の弱点として露わになる。
大衆は臭い!いくら自由になっても、人の多様な行動には寛容でいられない。いくら階級を崩壊させても、差別癖は治らない。こうした性癖こそが人間性というもの。
では、題目にある「非人間化」とはどういうことか。空想的な人間性ということか。皮肉まじりに言えば、理想的な人間ということか。確かに、理想的な人間ってやつは人間離れしてやがる。こうした解釈が、本書の意図したものかどうかは知らんが、おいらの天の邪鬼な性癖は治りそうにない...
尚、本書には芸術に関する論文「芸術の非人間化」、「小説についての覚え書」、「芸術における視点について」、「内側からのゲーテを求めて」、「自己と他者」の五篇が収録され、川口正秋訳版(荒地出版社)を手に取る。
「概念と世界とのあいだには、絶対的な距離がある。... ところが、人間には、現実とは心が考えるところのものそれ自体であると臆断し、現実と概念とを混同する傾向がある。現実に対するこの執念が、無邪気な現実の理想化をもたらすのである。これが人間の先天的素質なのである。しかし、もしこの自然の手続きを逆にしてみるなら、つまり、現実と断定したものに背を向け、概念を単なる主観的な模型 - をそのまま採り上げ、やせて骨張っているけれども純粋で透明なその状態において生命を与えてみたなら、つまり故意に概念を現実化してみたら、われわれは概念を非人間化 - いわば非現実化したことにはならないだろうか...」

いつの時代も、新しいものには抵抗勢力がつきまとう。伝統を頑なに守ろうとする派閥と、それをぶち壊そうとする派閥。これに世代間対立が加わるものの、両派とも歳を重ねて時間が経てば、ちょうど折り合いの良いところで落ち着く。かつて激しく対抗していた浪漫主義と自然主義も、近代化にともなって急速に距離を縮め、写実主義の下で融合をはじめる。写実主義とは、見たまんまを映し出そうとする主張で、つまりはリアリズムの追求。伝統的な画壇では、信仰的な崇高さや人間救済といったテーマが象徴的に描かれてきたが、近代の芸術家に、人類を救え!などとふっかけても仰天してしまうであろう。
科学が相対主義を立証すれば、相対的な人間性、すなわち多様性というものに焦点が移る。そして、誰もが分かる芸術から、分かる人にしか分からない芸術へ。それは、概念の解放と解することもできよう。分からない人には、芸術家が高みに登ってこいと暗示しても、相変わらず「作者は何が言いたいのか?」などと最低な感想をもらし、無力感をさらけ出す。そして、政治から芸術に至るまで、分かる人は優越者となり、その他大勢との差別化によって身分の再編成が始まる。こうした様相もまた新たな階級闘争なのかもしれない。ただ、分かる人だって、どういうふうに分かるのかが分からないでいる。言葉で説明できるからといって理解していることにはならない。ここが人間の理解力の奥深いところ、むしろ沈黙の方に真の理解があるのかもしれない。
実は、人間の認識能力では現実と非現実の区別が厳密にできないってことはないだろうか。夢の中にでてくるありえないシチュエーションに対しても、妙にリアリティを感じて必死にもがき、目を覚ましてやっと夢だったと安堵する始末。現実主義とは、言い換えれば、現実っぽく見せること。芸術家は、けして現実に忠実である必要はない。人間の感覚は真理よりも真理っぽいものを欲する。大衆は真実っぽいフェイクニュースに群がり、嘘もまた本当になってしまう。観客はますます刺激を求める。ますます感覚が贅沢になり、芸術家にとことん芸術性を求めてくる。空想的な世界に飽きるとリアリティを求め、神々に見守られた理想世界に飽き飽きすると、悪魔的な本性を剥き出しにした現実世界を覗こうとする。
フューチャリズム(未来派)は、社会諷刺を題材にしてファシズムに受け入れられた。風刺とは、ある意味、人間の悪魔性を投影している。
キュビスム(立体派)は、ルネサンス以来の単一焦点による遠近法を放棄し、構成要素の極端な解体、極端な単純化、極端な抽象化の流れをつくった。人間の素朴な叫びは、ピカソの作品「ゲルニカ」に体現される。それは、数学に着眼した観念論とでもいおうか。絵画芸術に立方体、円筒体、円錐体が現れ、プラトン風イデアへの回帰にも映る。主体性の強い芸術が、客観性を帯びると、こうなるのであろうか...
「芸術は自己を侮辱することにおいてほど、その本来の魔術性をあらわにしたことはなかった。この自殺的行為によって、芸術は芸術たり得ている。自己否定において、芸術はその存続と、そしてその勝利とを奇蹟的に自己にもたらしたのであった。... 芸術の使命は、その魔術によって想像の世界を出現させることにある。」

では、非人間化を指摘したホセ・オルテガ・イ・ガセット自身は、どちらの派閥に属すのであろう。彼は、世代的にも、分からない!側に属すとしながらも、なかなか物分りのいいオヤジぶりを披露する。近代芸術にけして否定的ではなく、自然の流れとして受け入れるというのだから。本音は運命論としての諦めの境地にあったのかもしれんが...
そして、オルテガが生きた時代の後、シュルレアリスム(超現実主義)が出現し、さらにポップアートなるものも出現することになるが、それでも彼は寛容でいられたであろうか...
「作品への嫌悪感が理解不能によるとき、人は何となく自尊心を傷つけられたように思い、この種の劣等感は胸中の憤懣をぶちまけることで鎮めるほかはない。若い人の作品はただそこに存在するだけで、平均人に、自分がまさに平均人であり、芸術の神秘に心を打たれることもなく、純粋美を知る目も耳も持たぬ者であることを痛感させる。」

ところで、「非人間化」というからには、人間的とはどういうことかを問わねばなるまい。人間はきわめて主観性の強い動物。それは、自己存在という根底意識に支えられている。人間社会は、主観性の強すぎる時代から、若干の客観性を加えながら発達してきた。客観的な視点が自己を解放してきたのである。
その行き着く果てが非人間化ということか。人間は、自己を解放することによって、自己を見失おうとしているのか。自己を知ることは至難の業。自己を知るということは、無知を知ること。それはソクラテスの時代から問題とされる難題中の難題。オルテガも人間を定義するなら、「無知な愚かな人」とするのが適切だと言い放つ。
しかしながら、無知ということにこそ人間性を見い出すことができよう。自己を知るために自己から距離を置く。これが客観的な視点。人間を忌み嫌い、厭うべき存在として眺めてみなければ、人間の神聖さも見えてこない。それは人間嫌いの傾向か。自我という偶像を破壊しなければ、到達しえない領域が確かにある。遠近法を放棄すれば逆遠近法へと導かれ、あまりにリアリズムを追求しすぎると、逆に現実逃避へ向かわせる...
「ワグナーにおいてメロドラマは一つの頂点に達した。さて、芸術形式は頂点までのぼりつめると、反対側へとのめり込むことが多い。ゆえにワグナーの楽劇では、人間の声は主役であることをやめて、壮重な管弦楽の中に埋没されている。だが、これ以上の変化がその後に続いた。音楽はプライベートな情緒の重荷から解放され、模範的な客観化の過程をへて浄化された。この仕事をしたのがドビュッシーである。ドビュッシーのおかげで、われわれは恍惚や涙の心配なしに、平静な気分で音楽に耳を傾けることができるようになった。ここ数十年の音楽の発展は、ドビュッシーという天才が開拓した新しい超世界的世界において進転している。主観主義から客観主義へのこの転向は、その後に起こる分化・派生がそれほど重要とは思われなくなるほど、決定的であった。ドビュッシーは音楽を非人間化し、これにより音楽に新時代をもたらしたのである。」

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