「真理が女である、と仮定すれば...、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ...」
善悪の彼岸に立とうとすれば、道徳論と向かい合うことになる。おいらは、道徳ってやつが大の苦手ときた。道徳哲学なんてクソ喰らえ!むしろ、メフィストフェレスに肩入れしたい... などと心の奥で呟いてやがる。しかしながら、ニーチェが語るとなると話は別。天の邪鬼な性分がそうさせるのか...
伝統的な道徳哲学は利己心を退ける。では、啓発された利己心となるとどうであろう。伝統的な宗教は懐疑心を忌み嫌う。では、健全な懐疑心となるとどうであろう。いずれの立場も、愛ってやつを最上級の情念として崇める。ならば、正妻と愛人ではどちらが格上かと問われれば、素直に愛人と答えるさ...
愛の暴走ほど手に負えないものはない。愛は憎しみを生む。肥大化した愛国心が国家を危険に晒してきた。愛情劇が愛憎劇に変貌するのに大して手間はかからない。これが人間社会の掟というものか。ニーチェは利己心を人間の本性として受け入れ、「自分の徳を信じる = 疚しからぬ良心」といったものを定式化して魅せる。愛とは利己心の象徴のようなものか...
副題には、「未来の哲学の序曲」とある。哲学が真理を探求する学問であるなら、善悪のいずれにも立場をとる。そして、その立場は、健全な懐疑心と啓発された利己心によって支えられるであろう。ただし、ニーチェが健全かどうかは知らん。
そもそも健全ってなんだ?常識とやらに囚われた人間で溢れている社会で、健全さをまともに問えば、狂うしかあるまい。
では啓発ってなんだ?自己陶酔の類いか。そもそも私利私欲を知らなくて、道徳が行えるのか。道徳哲学ってやつは、病理学に属すものらしい...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。
1. 反対物の信仰
ニーチェは、偉大な形而上学者たちの先入観は、様々な価値の反対物を信仰することにあると攻撃する。攻撃対象は、カント、スピノザ、デカルトたち。真理が誤謬から生じるとすれば、誤謬の能力にも価値が認められよう。真理への意志が迷妄への意志から生じるとすれば、あるいは、無私の行為が私欲から生じるとすれば、それらの行為にも価値が認められよう。だが、ニーチェは、そんなことを夢見るのは阿呆だと吐き捨てる。老カントの定言命法に対しては、見返り命法とでも言いたげに...
また、ニーチェの女性蔑視は周知の通りだが、ここではイギリス人嫌いを披露する。ベーコン、ホッブズ、ヒューム、ロックらを、何ら哲学的な種族ではなく、機械論的な愚劣化であると。彼らに反抗して立ち上がったのがカントだったとさ...
しかしながら、ニーチェの懐疑心こそ、見事に反対物の信仰から編み出されているではないか。その反対物とは、皮肉である。哲学は哲学によって喰い物にされる。そこには共喰いの原理が働く...
「古代の最も立派な奴、プラトーンに、どこからあんな病気が取り憑いたのか。やはりあの悪いソークラテースが彼を堕落させたのか。ソークラテースはやはり青年を堕落に導いたのではあるまいか。だから自ら毒杯を飲まされるに値したのではなかろうか。」
2. 人間畜群
ニーチェが生きた時代は、世界が急速な近代化によって大量生産へ邁進していき、やがて工業力が国力の指標と結びつき、ファシズムや国粋主義を旺盛にしていく時代である。特にドイツでは、リヒャルト・ワーグナーの解釈をめぐっての論争が巻き起こり、歌劇「マイスタージンガー」と民族主義が結びついていく。
ニーチェは、フランス革命以来の民主主義社会の弱点を明るみにする。民主主義運動は、政治機構の頽廃形式だけでなく、人間の頽廃形式であり、集団的退化であると。凡庸人を黙らせよ!と。
民主主義社会の理想は、賢明な少数派がその他大勢を支配する形式であり、結局は畜群本能に帰着するというのか。そうかもしれん。賢明な主人と愚昧な奴隷という構図は、アリストテレスが唱えた「生まれつき奴隷」とやらを彷彿させる。ただ、この主従関係は、従来の封建的な地位や身分の序列や、世襲的な序列などではない。あくまでも賢明な人が支配する形式が望ましいということである。
しかしながら、賢明な人ほど謙遜の意を表明するもので、こと人間社会においては理想と現実があまりに乖離し、理想が高ければ高いほど逆の現象へ引きずり込まれる。実際、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に陥れ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。おまけに、彼らを批判する道徳屋はいつも憤慨してやがるし、道徳では心は鎮められないと見える。
そして今、グローバリズムに邁進し、共有という概念が崇められる時代にあって、大衆社会に問われているのは、大衆がいかに賢明な大衆になりうるか、ということであろうが、そう問えば問うほど... 個々で静かに問うしかなさそうか...
ニーチェは、畜群本能に対して、高貴な人間モデルを提示する。彼に言わせると、自己否定や控え目な謙遜は徳ではなく、むしろ徳の浪費ということである。この手の人種は、自己を価値規定できる能力を持ち、他人から是認されることを必要としないという。
大抵の人は他人に誤解されることを嫌うものだが、それは虚栄心の強さを示している。自己に対して畏敬を持つことができれば、他人の目など気にしないはず。真理の道は遠く、愚鈍な評判なんぞにかまっている暇はあるまい。高貴な人間とは、自己を克服する能力の持ち主ということになろうか。そうした人間を支配階級に据えるという考え方は、プラトンが理想とした哲学者を統治者に据えるという考えに通ずる。プラトンは哲学者を愛智者とした。過去の偉大な哲学者たちを散々こき下ろしておきながら、結局は古典回帰か...
4. 言語のるつぼ
哲学には、伝統的に根本的な問題を抱えいてる。無知を知るという問題が、それである。哲学が表現するものには、形容矛盾が多分に含まれる。いわば、言葉の遊び、いや、言葉のるつぼ。それは、真理ってやつを人間が編み出した言葉で記述するには、限界があるということだろう。
しかしながら、この状況を克服するために、人間の言葉には高等テクニックがある。ある抽象的な存在を、一つの用語で定義しちまうという。そして、その用語を理解した者は誰もいない。実際、人間社会には人間自身が理解できていない用語で溢れている。おそらく、「道徳」という言葉もその類いであろう。「理性」という言葉も、「正義」という言葉も、「愛」という言葉はその最たるもの... だから感情的になれる。なぁーに、心配はいらない。無知、無学、虚偽を知った上で学問の道が開けるというもの。
そして、言葉の呪縛から解放されようと、形而上学が位置づける最上級の意志を覚醒させればいい。それが、ニーチェの言う「自由の意志」ってやつか。やはり「自由」という言葉ほど定義の難しいものはあるまい...
5. 箴言集
本書には、間奏のために、箴言を集めた章がド真ん中に配置される。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この章をメインに読んでいる。ちょいと気に入ったものを拾っておこう...
「認識それ自身のための認識... これは道徳が仕掛ける窮極の陥穽である。これによって人々はもう一度、全く道徳に巻き込まれる。」
「ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての爾余の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然り。」
「平和な状態にあるとき、好戦的な人間は自己自らに襲いかかる。」
「自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお軽蔑者として自分を尊敬する。」
「どうだって?偉人だと?私が見るのは常にただ自分自身の理想を演じる俳優ばかりだ。」
「道徳的現象などというものは全く存在しない、むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」
「人間が自分をそう容易に神だと思わないのは、下腹部にその理由がある。」
「賢明な人間にも愚行があることを人々は信じない。何という人権の侵害であろう!」
「悪意のように見える不遜な善意もある。」
0 コメント:
コメントを投稿