2019-11-03

"大学の使命" José Ortega y Gasset 著

古くから、行いの悪さを教育のせいにしたり、行儀の悪さを育ちの悪さとしたりする考えがある。そうした傾向があるのも確かであろう。国民が偉大であるということは、その国の教育制度もまた偉大なのであろう。
しかし、それだけだろうか。どんなに立派な条文を謳ったところで、どんなに立派なスローガンを掲げたところで、形骸化する事例はわんさとある。制度や契約といった取り決めは慣習と結びついて効力を発揮するもので、慣習法の意義がここにある。どんな集団社会にも暗黙の了解といった、なかなか手強い社会規範がある。「空気を読む」という特徴は、なにも日本人固有のものではあるまい。表現の仕方は日本人らしいにしても、集団社会によって読み方が違うだけのことで、主張すべき時に主張しなければ、やはり空気が読めないのである。こうした感覚は、価値観、世界観、人生観の違いとして現れ、長い年月をかけて無意識に慣習化していき、やがて文化として居座る。
「生きた思想、生きた文化は、自己を取り巻く自然的・精神的・歴史的・社会的諸環境との対話においてのみ形成されるとはオルテガの根本思想である。」

注目したいのは、大学の機能の一つとして挙げられる「教養」を文化として捉えている点である。ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大学を三つの機能で結論づける。一つは、教養(文化)。二つは、専門教育。三つは、科学研究と研究者の養成。近代教育の特徴は、その大部分が科学に発するとし、まず科学の在り方にメスを入れる。だが、危機に瀕しているのは科学ではなく、人間である。専門化が進み、分裂した人間を生きた統一体へと蘇生させること。これが、オルテガの意図するところである。
ここには、当時のスペインの教育事情が透けて見える。ワーテルローで勝利したイギリスや普仏戦争で勝利したドイツを見て、即座にイギリスの中等教育とドイツの高等教育の制度を導入せよ!そうすれば、スペインも偉大な国民性が身につけられる、といった教育論で盛り上がっていく様子が。オルテガは、これに苦言を呈す形で教育論、いや、文化論を展開する。いやいや、酔いどれ天の邪鬼の眼には、古臭い国粋主義的教育論を皮肉っているように映る。まずもって、他国の制度を真似ればいいなどと安易な教育論を持ち出す有識者どもを再教育しろってか...
尚、本書には「大学の使命」、「『人文学研究所』趣意書」の二篇が収録され、井上正訳版(玉川大学出版部)を手に取る。

どこの国でも、社会を先導する大半が大卒や大学院卒の知識層。オルテガは、彼らを「平均人」「近代の野蛮人」などと呼び、以前よりもいっそう博識ではあるが、同時に無教養な専門家に成り下がっていると指摘する。
学問が研究を深めるほど専門性を強めるのは自然の流れであろう。そのために、総合的、統合的な視点を疎かにしがち。ジェネラリストとスペシャリストはどちらが重要かという議論は、現在でもお盛んだ。どちらを目指すかは個人の問題だとしても、偏狭な知識によって社会が先導されるとすれば、やはり問題である。現代社会では、総合的な知識も一つの研究分野として成立しており、その意味では、誰もがスペシャリストということになるのかもしれないが...
教養というものは、人間性とセットで育まれる。そのために、オルテガは一般教養の意義を再認識させようとする。近代の教養が科学的観点を基調とし、その傾向をますます強めているのは確かであろう。主観性の強い人間にとって、学問に客観性を求めなければ、学問の意味そのものを失ってしまう。オルテガは、この傾向を少しばかり弱めて人文学的観点を取り戻そうとしているだけで、科学を蔑んでいるわけではない。それどころか、大学は科学によって生きる!科学は大学の尊厳である!科学は大学の魂である!... とまで言っている。
「もし教養と専門が、たえまなく発酵している科学、つまり探求と接触せずして、大学内で孤立するならば、両者はまもなく麻痺状態に陥り硬直したスコラ学になり終わるであろう。」

そして、五つの教養科目を提示する。
1. 物理学的世界像(物理学)
2. 有機的生命の根本問題(生物学)
3. 人類の歴史的過程(歴史学)
4. 社会生活の構造と機能(社会学)
5. 宇宙のプラン(哲学)。

近代の教育機関は、ガリレオやデカルトたちによって創始された新科学の下で生を授かった。ヒルベルトの時代には、どんな問題でも科学で解決できると信じられたが、20世紀になると行き詰まりを見せる。
おまけに、科学技術が工業生産や大量生産の呼び水となり、これに国力が結びついてファシズムやナショナリズムを旺盛にしていき、平均人の知的底上げが急務となる。
オルテガの大学論は、そんな時代に書かれた。彼の信念には、研究第一主義から教養第一主義への移行が伺える。
「科学者はあらためて人間化されなければならない。」
当時の人文主義者にも苦言を呈す。
「人文主義と呼ばれているものは、つまるところ、文法学者の独裁の謂であった。」

では、これらの知識を総合的な視点から調和させるものとはなんであろう。オルテガは、一つの解決策として理念を持ち出す。そして、真によき医師、よき裁判官、よき技師を育成せよ!社会はよき専門家を必要とする!と。賢明なエリートほど社会にとって有用な存在はないが、愚昧なエリートほど有害な存在もない、と言わんばかりに...
「理念なくしては、われわれは人間的に生きることができない。われわれのなすことは、常に諸理念に依存している。そして生きるとは、あれこれのことをなすということにほかならない。だからインド最古の書物でこういわれた -『あたかも牛車の車輪が牛の蹄に従うごとく、われらの所為はわれらの所信に従う』と。かくいわれる意味 - そのようなものとしてそこには、なんと主知主義的なものは含まれていない - において、われわれはわれわれの理念である。... 教養とは、各時代における諸理念の生きた体系である。」

ところで、理念ってなんだ???
教育機関に何を期待するかは個人の問題としても、そこまで重荷を背負わせるのもどうであろう。本当に重要なのは、大学や大学院を卒業してからの学び方である。実際、教育機関に頼らなくても独学で啓発する人たちがいる。彼らは、自分自身でありたいがために戦い、自己投資や自己実現に励むかに見える。
今、この難解な書を読み終え、疲れ果て、溜息をつき、結局、この言葉に救いを求める他はなさそうである...

「人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである。」
... ガリレオ・ガリレイ

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