2019-11-10

"大衆の反逆" José Ortega y Gasset 著

大衆は臭い!
いくら平等になっても、差別癖は治らない。いくら自由になっても、人のやる事に寛容ではいられない。これはもう人間の本質である。王侯貴族の時代、その他大勢や雑多な輩などと呼ばれてきた人々が意識を共有するようになると、群れをなし、ある種の社会的地位を獲得してきた。世間では大衆と呼ばれ、いまや支配階級の無視できない存在に...
群れるからには、質より量がモノを言う。封建的な残留物を処分しようと人民が蜂起すると、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ各地に連鎖していった。フランス革命はその象徴的な出来事だが、共和国を掲げながら直ぐさま恐怖政治と化し、ナポレオンの呼び水となった。この事例は、独裁制が危険なことは周知であったが、民主制の暴走も同じくらい危険だということを世に知らしめた。どんなに良い事でも、同じことをやる人間が集まり過ぎると、何かと問題になるのが人間社会。大衆社会は、大衆がいかに賢明な大衆になりうるかという問題を突きつける...

ところで、大衆とは、どのくらいの人が集まると、大衆となるのだろう。この問い掛けは人口問題を暗示している。産業革命に発する技術革新は、人類史上例を見ない人口増殖をもたらした。この増え方は自然に適っているだろうか。なんだかんだいって科学技術が、多くの問題を解決してきたものの。この異常な、いや異様な増殖に対抗するには、人類が地球外生命体へ進化するしかなさそうである。いま、人口減少に転じているのは、人間社会に防衛本能が自然に働いているのかもしれない。そもそも人間が多すぎるのだ。寿命が延びれば、それも自然であろう。
エリートの政策立案者たちは相も変わらず、経済が枯渇すれば消費を煽ることに奔走し、少子化問題に直面すれば子供を産むように働きかけ、もはや目の前の現象をそのままひっくり返すだけの対策しか打ち出せないでいる。どこぞの組織の戦略会議でもよく見かける光景だ。そして、かつて経済学が古臭いとして葬り去ったマルサスの人口論が、今になって再認識させられるのも皮肉である...

ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大衆と呼ばれる圧倒的多数が奮起してきた現象を、自由主義的デモクラシーと技術進歩という二つの側面から論じる。資本力によって産業が拡大し、豊かさがもたらされると、ブルジョア階級が牽引して情報や知識、そして意識が民衆に浸透していく。封建的な支配者階級が打倒され、次の対立構図は資本家階級と労働者階級ということに。そして、よく論じられる形が、マルクスをはじめとする階級闘争の理論である。
しかし、オルテガは、社会階級という論点に一線を画し、「優れた少数者」「大衆」という二つの人間の型で論じる。優れた少数者とは、自己に多くを要求し、自己啓発に励むタイプをいい、大衆とは、自己に対して特別な要求を持たず、自己実現の努力をなそうとしないタイプをいうらしい。とりあえず、哲学する者と哲学なき者の区別としておこうか。どちらの型に属すにせよ、人間が排除好きな動物であることに変わりはない。大衆は理解の及ばない異物の排除にかかり、小グループは大衆と一緒にすな!と言葉を荒らげる。
こうした論点は、なにも真新しいものではないが、オルテガが生きた時代にいち早く着眼したことに注目したい。彼に言わせると、大衆とは「最大の善と最大の悪をなしうる力にほかならない」という...
尚、桑名一博訳版(白水社)を手に取る。
「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。...(略)... すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、締め出される危険にさらされている。」

本書が書かれた時代には、大衆の意志が一気にファシズムに向かった背景がある。我を忘れさせるのにもってこいの方法論が熱狂的な政治と言わんばかりに、扇動者たちが大々的なプロパガンダに励んだ時代。
しかし、言葉を乱用すれば言葉の権威を失い、政治家たちの言葉を安っぽくさせるのは、いつの時代も同じ。人間社会には、どんなに勢いのある流行り事に対しても、そこから距離を置き、沈黙する少数派がいる。その時代には、時流に乗れないとして馬鹿にされながらも、後世、賢明な人々と呼ばれる人たちが。彼らは自己観念が強すぎるから、大衆に馴染めないのかもしれない。偉大な科学者に多いタイプで、コペルニクスやガリレオもそうした人間だったのだろう。
少数派が点在する現象は、まさに21世紀の社会が、そうしした傾向を強めているように見える。ただ、ソーシャルメディアなどのツールを活用して少数派の間でグループを形成し、沈黙せずに済むという特徴も同居している。小グループの成員たちは、それぞれに共通の哲学を育んでいるようである。
インターネットは、情報が誰にでも手に入るという点で、見事に機会均等を実現しているかに見える。しかしながら、情報は向こうからはやってこない。向こうからやってくるのは、テレビ放送のような従来型メディアぐらいなもの。そして、自発的に情報を入手する習慣を身につける者と、向こうからやってくる情報をそのまま受け取るだけの者とに分かれる。この二つの習慣の違いは大きい。大衆の中で意識格差をもたらし、人間社会は、あらゆる思想、思考、意識において二極化していく。放送とは送りっ放しと書く。送りっぱなしであるからには、平均人を扇動するには最も効果的なメディアとなる。
とはいえ、平均人というのが大衆の中にどれぐらいの割合を占めるのだろう。小グループへの分散化が進めば、それぞれに多様化が進み、そのうち大衆よりも少数派の寄せ集めの方が圧倒的多数ということになりそうである。実際、テレビ番組のような従来型の大衆娯楽から視聴者が離れつつある。それでも完全に無くなることはないだろう。受動的なメディアに縋って生きている人たちも少なからずいる。だから多様化なのである。
一方で、これだけ流行っている SNS を嫌う人も珍しくない。ツールを活用する場面の多い技術業界にあっても、共有を嫌う技術者は意外と多い。極端な立場では、コメントは不要!とする人たちもいる。読みたいヤツには読ませ、読みたくないヤツは黙らせろ!と。コメンテータという存在は、視聴率を煽るには最高の俗物となる。
また、情報だけでなく、情報収集の手段も多様化が進み、大勢で群がる手段に固執すれば、やはり大衆に飲み込まれてしまう。大衆に飲み込まれてしまえば、自己の中で健全な懐疑論を唱えるのも難しい。ただ、それに気づかなければ、それが一番幸せ。大衆って臭いわりに、臭さに慣れちまえば、結構居心地がよかったりする。臭いフェチか...
確かに、大衆から距離を置き、炎上騒ぎに巻き込まれないようにする賢明な人々が静かに存在しているのを感じる。人生の意義を日々考えながら生きていれば、大衆に付き合っているほど暇じゃない!と。自己の存在に意味があると考えること自体が人間の思い上がりであろうが、そうでも考えないと苦難を乗り越えることは難しい...
「近代思想が犯している最も重大な誤謬の一つは、社会と協同体を混同することであったが、後者はほぼ前者の逆に位置するものである。社会は、意志の同意によって形成されるものでない。」

では、社会を真に支配する者とは...
支配力といえば、つい権力や武力を思い浮かべてしまうが、オルテガは、ちと違った見方をしている。支配とは、他の力を奪い取ろうとする態度ではなく、力を静かに行使することだという。つまるところ、支配力とは精神力にほかならない、というわけである。
そこで、暗黙の支配力として「世論」という用語が浮き彫りになる。この用語がいつ登場したかは知らんが、これに似た概念は古くからあり、古代の王ですら民衆の心を重視したことが神話となって伝えられる。人間ってやつは、結局は人目を気にしながら生きているということだろう。現在の政治指導者たちは、世論を無視して権力を行使するわけにはいかない。オルテガは、世論が理念や思想といった形而上学的なものを身にまとうことができれば、大衆も捨てたもんじゃない、とかすかに希望を抱く...
「哲学が支配するためには、プラトンが初めに望んだように、哲学者が支配する必要はないし、次に、プラトンがより控え目に望んだように、皇帝が哲学することさえ必要ではない。厳密に言えば、いずれもきわめていまわしいことである。哲学が支配するためには、哲学があればじゅうぶんである。」

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