2019-11-24

"道徳の系譜" Friedrich Nietzsche 著

おいらは、「道徳」という言葉が大っ嫌い。「理性」という言葉も大の苦手ときた。道徳の書を読むのは、ある種の拷問だ!道徳を云々するということは、怖じ気もなく自己の傷を曝け出すことにほかならない。いわば、羞恥心との戦い。
では、なにゆえこんなものを。天の邪鬼の性癖が、こいつに向かう衝動を掻き立てやがる。怖いもの見たさってやつか。パスカルは言った... 哲学をばかにすることこそ真に哲学することである... と。書き手が書き手なら読み手も読み手。ニーチェの皮肉ぶりを皮肉って読むのがええ。類は友を呼ぶ... と言うが、負けじと病理に付き合うのがたまらない...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。
「人間は余りにも久しく自分の自然的性癖を悪い眼附きで見てきたために、その性癖は人間のうちでついに良心の疚しさと姉妹になってしまった...」

副題には「一つの論駁書」とある。誰を論駁しようというのか。道徳の起源についてはショーペンハウアーと対決し、無価値や虚無といったものに意味を与えたプラトン、スピノザ、ラ・ロシュフーコーを攻撃し、カントの定言命法に至っては見返り命法とも言うべきものを呈示して魅せる。ダンテは恐るべき創意をもって、地獄の門に「われをしもまた永遠の愛は創れり」と刻んだが、ニーチェは大胆な辛辣をもって、キリスト教の天国の門に「われをしもまた永遠の憎悪は創れり」と刻むのである。
ただ、正しく批判できなければ反駁書もつまらない。それは、批判対象者たちの書物を精読していることを意味する。実は、彼らのファンなんじゃないの...
「進め!われらの旧道徳もまた喜劇に属する!」

反感ってやつは、力の余ったところに生じる。反感道徳またしかり。ニーチェはよほど力が有り余っていたと見える。生きようとする意志では満足できず、より高く生きようとする意志。自己保存の衝動から脱皮した自己増大の意図。愛憎の葛藤から卒業した高貴性。こうしたものが力への意志と言わんばかりに...
人間の健忘症は甚だしい。いまだ古代哲学の呪縛に囚われたまま。善と悪の関係は借方と貸方の関係のごとく。道徳上の負債は先送りされ、バランスシートは赤字の一途。ただ、道徳の系譜もさることながら、責任の系譜も歴史は長い。道徳上の責任を誰に押し付けようというのか。ナーダ!ナーダ!
「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲する...」

本書の扉の裏に「最近公にした『善悪の彼岸』を補説し解説するために」とある。「善悪の彼岸」では、善悪の判断能力を持つための高貴性というものが強調されていた(前記事)。賢明な少数派、すなわち高貴な人々にその他大勢の支配を委ねるという形は、哲学者を統治者にするという理想を掲げたプラトンに通ずるものがある。ここでは、人間の高級な型と低級な型の種別がより鮮明となり、支配する側の指導者道徳と従う側の隷属者道徳なるものを説く。
だが、支配欲は人間の本質であり、これから逃れることはできまい。いったい何を支配しようというのか。自己の支配に失敗すれば、他人を支配にかかる。それだけのことかもしれん...

1. 三篇の論文
本書は、三篇の論文で構成される。
第一論文「善と悪、よいとわるい」では、キリスト教的な心理学を論じ、善悪という道徳的判断の起源を暴こうとする。その起源の正体とは、奴隷人間の怨みっぽく悪賢い、反感の精神から生まれた奇形児で、伝統的な支配階級に対する抵抗運動であり、キリスト教的な暴動であったとさ...
「人間に対する恐怖とともに、われわれは人間に対する愛、人間に対する畏敬、人間に対する希望、否、人間に対する意志をさえ失ってしまった。人間を見ることは今ではもう倦怠を感じさせる... これがニヒリスムスでないとすれば、今日のニヒリスムスとは何であるか... われわれは人間に倦み果てているのだ...」

第二論文「負い目、良心の疚しさ、その他」では、良心の心理学を呈示する。世間で良心と呼ばれているものは、人間の内なる神の声なんぞではないという。もはや外に向かって放出することもできない、行き場を失った内向的な、いや、内攻的な残忍性であると。この残忍性の本能を認めようとしないのは、近代社会の軟弱化のためだと断じる。真理への愛のみが、この事実を発見し確信できると...
「残忍なくして祝祭なし。人間の最も古く、かつ最も長い歴史はそう教えている... そして、刑罰にもまたあんなに多くの祝祭的なものが含まれているのだ!... 却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。」

第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」では、禁欲者の心理学が論じられる。禁欲主義的とは、僧職者的ということである。そして、彼らの理想は、何にもまして有害であり、終末への意志であり、無への意志であると断じる。
とはいえ、僧職者の背後で神が命じているなどと信じられてきた歴史は長い。その由来は、これまでは他に理想がなかったからと、一言で片付ける。競争相手もなく、反対の理想が欠けていただけと。しかし、その反対の理想に対しても、嘆きを憚らない。
「科学は今日あらゆる不平・不信・悔恨・自己蔑視・良心の疚しさの隠れ場所である。...それは無理想そのものの不安であり、大きな愛の欠如に基づく苦しみであり、強いられた満足に対する不満である。おお、今日では科学は何とすべてを蔽い隠していることか!何と多くのものを少なくとも蔽い隠さなくてはならないことか!」

2. 結婚という人生戦略
結婚に関する名言は、枚挙にいとまがない。ソクラテスは言葉を残した... とにかく結婚しなさい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば哲学者になれる... と。キェルケゴールも負けじと言葉を残した... 結婚。君は結婚しなかったことを悔やむだろう。そして結婚すればやはり悔やむだろう... と。ヘンリー・ルイス・メンケンは断じた... 真の幸せ者は結婚した女と独身の男だけ... と。シリル・コナリーはつぶやいた... 孤独に対する恐怖は、結婚による束縛に対する恐怖よりもはるかに大きいので、俺達はつい結婚しちまうんだ... と。そして、バルザックは指摘した... あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている... と。
結婚ほど所有の概念と強く結びつくものはないらしい。所有とは支配欲の源か。結婚(けっこん)と血痕(けっこん)が同じ音律なのは、偶然ではなさそうだ。運命の糸が血の色というのも道理か。
さて、ニーチェは、この人生戦略について何を語ってくれるだろう...
「これまで偉大な哲学者たちの誰が結婚したか。ヘーラクレイトス、プラトーン、デカルト、スピノーザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー... 彼らは結婚しなかった。のみならず、彼らが結婚する場合を考えることすらできない。結婚した哲学者は喜劇ものだ... これは私の教条である。そして、ソークラテースのあの例外はどうかと言えば... 意地の悪いソークラテースは、わざわざこの教条を証明するために、反語的に結婚したものらしいのだ。」

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