2020-03-01

"燃えさかる火のそばで シートン伝" Julia M. Seton 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風のような... そんなフレーズに出会った。
「バッファローの風が私たちの生活の中を吹くとき、私は燃えさかる火のそばで耳を傾けた。最初私の耳はその音をそのままに聞くことはできなかった。私の耳が調和しなかったのだ。しかし私は常にその風の存在には気がついていた。ただ長い間、はっきりそれを理解できないことで、私の心は落ちつかなかった。私には聞きとれなかったし、はっきりとわからなかったが、しかし私はそれを感じていた。」

おいらは、美少年と呼ばれていた頃から科学が大好きだったが、その中で敬遠してきた分野がある。生物学がそれだ。特に動物学を敬遠してきた。「シートン動物記」といえば、絵本で見たような... そんな感覚がかすかに残るだけ。小鳥を飼ったり、昆虫採集をやったりもしたが、あまり長続きしなかったような...
この感覚は未だ継続中で、呪縛を解こうと必死にもがくも、純真な子供心を取り戻すことは、脂ぎった大人には難しすぎる。ダーウィンの大作に触れるのにも、かなりの時間を要した。そして、シートンの大作となると、これに向かう勇気はまだない。おいらのタスク管理ツールには、このような ToDo リストに昇格しきれない、準 ToDo リストで溢れてやがる。
とりあえず、アーネスト・トンプソン・シートンの二番目の夫人ジュリアが記したシートン伝でお茶を濁すとしよう...
尚、佐藤亮一訳版(早川書房)を手に取る。

ボーイスカウトの創始者としても知られるシートン。幼き彼が会得した生活信条がこれだそうな。
「生きる喜びを求めよ!」
そして、天与の権利とは何か?と問いかける。
動物と人間の権利が衝突した場合、人間の方を優先するのは文明社会では当たり前。これに疑問を投げかけようものなら、環境ヒステリーなどとレッテルを貼られ、猛攻撃をくらう。それは、シートンの時代だけでなく、現代とて炎上沙汰をくらう。確かに、どんな議論にも右派もいれば、左派もいるし、中庸でいることの方がはるかに難しい。ただ世紀が変わると、どちらがヒステリーだったか再評価されるのが、人類の歴史である。
殺してしまった夥しい生命の権利はどうなるのか?と問えば、人間社会における最高の権利、すなわち、強者の天与の権利などという考えが浮かんでくる。そして、人間社会の合理性は自然界の合理性に適っているだろうか?と問わずにはいられない。かつて、希望の満ちた土地にバッファローの風が吹いていた。やがて、バッファローやカモシカの姿が消え、風は止んでしまった。動物の息苦しい世界は、人間だって息苦しい...

とはいえ、人間社会に嫌気が差さないと、なかなか自然には目を向けないもの。社会学者マックス・ヴェーバーは、学問は自然の真相に到達するための道である... と説いた。かつて科学は自然哲学と呼ばれ、自然との調和から人間の合理性というものを問うた。いつの間にか、その対象は自然物に対して人工物で区別され、人間社会における合理性を問うようになった。
産業革命に始まる経済的大成功は、爆発的な人口増殖を招く。そして、人に依存し、組織に依存し、社会に依存しているうちに、最も依存しているはずの自然との関わり方が見えなくなる。そもそも人間が多過ぎるのだ。地球という有限のアクアリウムにおいて、人間の数だけは限りがないなんてことはありえない。
自然は常にそこにある。目の前に見えなくても。自然は自立自尊している。だから依存症患者の憧れの的。原始林の中では、誰にも罰せられずに野蛮人でいられる。いや、文明社会だって競争原理に囚われた野蛮人で溢れている。天災と人災はどちらが恐ろしいだろうか。天災が神の仕業なら、人災は悪魔の仕業か。そして、神と悪魔が手を取り合って、もっと恐ろしい災いに見舞われるのかは知らん...
「まったく虚構というのは、一般的には扱いやすい。『半分が真実である嘘は』詩人の言葉によれば『危険なものである』という。その中に存在する僅かな真実の要素が、それに戦う力と生命とを与えて、もっと悪くしてしまうからだ。... そういう危険な語り方をするのが、民間伝説なのだ。そして時代から時代へと残存していくすべての伝説にみられるその力の強さは、僅かの事実に由来するということは、かなり確かなことである。」

それにしても、これは科学だろうか。ある者は文学だという。また、ある者は描く動物があまりに人間的だという。動物の生き方を人間の感情に対比させ、さらには神話や古典文学にも対比させ、まるでイソップの寓話。この動物物語を科学と呼ぶには、ちと躊躇する。
ここでは、シートン流の言語哲学を垣間見る。彼は、緻密な科学者である面と、想像力豊かな物語作家である面とを奇妙に合わせもっていたという。詩情や哀愁に満ちた物語... くだけた文章へのこだわり... こうした要件が、堅苦しい論説よりも説明に余裕を持たせる。科学書を読みやすく配慮することによって、読者の心を用語にではなく、考え方に向けさせる。学者連の論説では、難解きわまる特殊な用語を多用しては自分の研究に権威を与えようとする動きが見られるが、シートンはこうした傾向に一石を投じる。
動物観察は、多様性に満ち満ちており、専門用語でひと括りに説明できるものではあるまい。それは、人間観察とて同じ。シートンは、動物を説明するのに三つの要件を挙げている。

  • 第一に、例外的な動物を一匹選んでもよい。
  • 第二に、それと同類の動物の冒険や性質を、その一匹に代表させてもよい。
  • 第三に、作者は同類の動物が実際にそんなことをするのがわからなくても、種々の行動をさせてもよい。

もはや、客観性を放棄しているような、いや、客観性の限界を生物学に投影しているような。要するに、あらゆる動物行動は、可能性でしか説明のしようがないということか。つまりは、確率論でしか。物理学にしても、しばしば量子の個々の運動を確率的に論じ、統計力学で処理する。ましてや、その量子の大集合体である動物の個々の行動を説明するとなると...
ここに多様性が、確率論を通じて普遍性と結びつく思い。さらには、文学が多様性を通じて科学と結びつく思い。もう一つついでに、シートンの観察哲学にダーウィン思想を見る思い。自然と戯れるとは、こうした結びつきを楽しむことを言うのやもしれん。そして、この言葉がいつまでも残るのであった...
「人間のこの世における一番重要な仕事は、『自分自身を知ることである』と教えられた。」

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