2020-03-15

"シンメトリー" Hermann Weyl 著

小雨じめつく中、なんとも虚ろな気分で古本屋を散歩していると、数学を文学のように嗜める書に出会う。こいつぁ... 群論の入門書ではないか!いや、そこそこかじって余韻に浸る書であろうか。厳密な数学を空虚な気分で眺めると文学になるのか... ここに抽象化の真の意味が暗示されていそうな... なるほど、数学の詩人と謳われたヘルマン・ヴァイル。空虚な空間には、高度なシンメトリーが具わっているらしい...
しかしながら、よりずっと厳密に理解を要請する大著「空間・時間・物質」が、本書の横で手ぐすね引いて待ち構えてやがる...
尚、遠山啓訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

数学屋たちは、数と数字の違いにこだわる。数は概念を示す。だから、万物は数である... との信仰が輝く。数字はそれを表す記号。すなわち、ただの手段。この手段を文学作品のように記述できれば、概念化され、心に調和をもたらす。
シンメトリーとは、まさに人の心に調和をもたらす空間概念である。この空間において、芸術は左右対称を、論理学は二項対立を根本原理とし、数学はその双方を相手取る。哲学は、二律背反の原理に中庸を見い出そうとし、数学は、数の抽象化によって調和を発見しようとする。
数の抽象化で最高峰に位置づけられるのが、群論である。合言葉は... 自己同型の集まりは群をつくる!自己同型とは、代数的な性質を保ちながら写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出てしまう。演算結果が同じ体にとどまるかどうかを探ることは、数の性質を知る上で重要な鍵となり、方程式の解が代数体にとどまるならば、その方程式には代数的な解が存在することを意味する。解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見するってことか。そして本書の中に、数学は哲学である... との持論を再発見するのであった...

ニュートンは絶対空間や絶対時間なるものを論じたが、そんなものが存在するかどうかは知らんよ。ただ言えることは、相対的な認識能力しか持ち合わせない生命体には、到底及ばないってことだ。直接認識できないとすれば、概念によって認識できる気分にはなれそうか。何事にも気分は重要だ。特に、心の持ち主には...
左も右も、善も悪も、相対的な概念であって、人間社会によって都合よく決められた基準に過ぎない。はたまた対称性も非対称性も。美術史家ダゴベルト・フライは、こんなことを言ったとか...
「シンメトリーは静止と束縛をあらわし、非対称は、運動と弛緩をあらわす。前者は秩序と法則を、後者は不分明と偶然を、また、前者は、法則のもっている厳密性と強制を、後者は、生命と遊戯と自由とをあらわしている。」

シンメトリーとは比の調和によって支えられる、いわば主観の概念である。鏡映、平行移動、回転といった幾何学操作によって点集合を変換し、この同型を探る過程に数学美を見る。ここに絶対客観なるものは見当たらない。だから、客観性なのである。
客観性とは、自己同型群における不変性を問うことであろうか。普遍的な美を追求することであろうか。様々な変換によって、どこまで同型を保ちうるか、どこまで代数的性質を保ちうるか、そして、どこまで数学美を体現できるか、などと問えば、その先に、自己相似形を追いかけるフラクタル幾何学が見えてくる。フェリックス・クラインは言う、「幾何学は、変換群によって定義される。」と...
ただし、本書には「フラクタル」という用語は見当たらない。

ところで、おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。子供の頃からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
よく数学で用いられる連続体やら、よく物理学で用いられる空間やら、こうした用語は単なる概念、もっといえば、人間の想像の産物にすぎないのではなかろうか。あらゆる関連性も...

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