2020-03-08

"ビーグル号航海記 新訳(上/下)" Charles Darwin 著

ヒトという種は、猿の進化版か、それとも猿の方が進化版か。地球に住む生命体の物理構造を辿れば、だいたい同じ分子に行き着く。糖質、タンパク質、核酸といった生体高分子と呼ばれるやつに。さらに辿れば、この宇宙に存在するすべての物体は、素粒子レベルでは同じ物理構造を持っている。種の起源を辿れば、やはり同じこと。自由意志の正体が単なる自由電子の集合体なのかは知らんが...
ここで注目したいことは、種が変化するってことだ。分子の組み合わせを微妙に変化させながら、体内に侵入してきた病原体に対して抗体を形成したり、厳しい気候に適合するために身体部位を変化させたり、環境が違えば、そこに住む生物の特徴にも違いを見せる。地理的に同じ諸島に属していても、それぞれの島で生物の特徴が違うばかりか、生態系からして違う。
本旅行記は、地球を一周しながら実に多種多様な光景を物語っており、ここに進化論構想の源泉を見る思い。進化とは、まさに変化を言う。いや、退化もそうか...
尚、荒俣宏訳版(平凡社)を手に取る。
「自然の偉大な運行においてまるっきり用をなさないように見える動物に遭遇すると、われわれはすぐに、なんでこんなものが創造されたのか、と首をひねりたくなる。しかしつねづね肝に銘じておくべきは、ところ変わればそれが社会の欠くべからざる成員であるか、あるいは過去の一時期そうであったものだろう、とみなす心がまえである。」

とはいえ、人間は変化を嫌うところがある。キリスト教世界では、種は神の創造物であり、生まれつき運命づけられた存在とされる。生物種が変化していくなんてもってのほか。世間では、チンパンジーの身体にダーウィンの顔をくっつけた風刺漫画が舞った。
ただ、あまりに変化なしでは退屈病を患わせてしまう。安住できる程度の小さな変化を求めてやまないのは、進化の過程があまりに長い年月を要するからであろう。物質ってやつは、原子が個々で存在する分には殺風景だが、分子として結合を始めるとまるで落ち着きを見せない。変身願望にでも取り憑かれたように。
この願望エネルギーが溜りに溜まると、ポテンシャル障壁を破って突然変異まで引き起こす。生物種に普遍の原理を求めるとすれば、まさに変化こそが法則ということになろう。
ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化する必要がある、というのが真意のような気がする。ここでは、普遍性と多様性の相性の良さを物語ってくれる。現代社会では、どんな良いことでも同じことをする人が多すぎると何かと問題になる。一つの種が多すぎるとなれば、同じ種の中で多様化するほかはあるまい...

自然界では、運動する物体はすべて動力機関として働く。生物もまた一つの動力機関であることは確かだ。その証拠に、ひたすらエネルギーを消費する存在で、喰って排泄するだけの存在。人間社会で人が生きるということは、ゴミや排泄物を出すってことだ。そして、街づくりで最も深刻な問題がゴミ処理と排泄物処理ということになり、ここに文明の度合いが顕れる。もやは現代人は、野生のポテトを見る機会を失った。曲がったキュウリすらとんと見かけない。それが、高度な文明なのかは知らん...
「人は長いこと粗末な肉食だけをつづけると、脂肪分がとてもほしくなる。そこで純粋なオイル状の脂肪を、平気で大量に消費するようになる... これは、おもしろい生理学的事実だ。」

自然界には、生命が存在することによって台無しにしてしまう領域がある。不毛な土地の奇異な眺めにも、植物すら存在しないがために、ある種の威厳が備わる。敬愛する大自然がここまで残酷になれるものか、と嘆かわしい現象を引き起こすこともしばしば。
だから、人間は大自然に神を見る。自然は、宗教が安易に唱える「調和」ってやつの難しさを教えているようでもある。
人間社会には、何事も経験しなければ分からない、とする考えが蔓延している。奴隷に冷たい人は奴隷の立場に身を置いたことがない、としか想像できないとすれば、なんと絶望的であろう。人間社会は、永遠に奴隷制度に依存するほかはあるまい。
ちなみに、昔から言われてきた説に、こんなものがあるそうな。「利己心というのものは残虐行為が行きすぎるのを止める」という説だが、あながち否定はできまい...

1. 科学者魂を垣間見る...
「ビーグル号航海記」は、艦長ロバート・フィッツロイ大佐が表明した一つの要望によって生まれたという。大佐は科学者の同乗を望み、これにダーウィンが志願する。その目的の裏には、政治的思惑と科学的好奇心が複雑に絡んでいたことだろう。海運国家としての使命も付け加えておこうか。地質学調査は金脈探索や鉱山開発を目的とし、原住民調査は後の奴隷支配を匂わせ、宣教師の派遣は精神的支配の布石。
しかし、ダーウィンの科学者魂は、そんな政治的な思惑をとうに越え、純粋な好奇心に邁進する。彼の記述には、旅の風景を喜びで彩るという思索が感じられる。まるで画家のように。どんな光景を前にしても失望はなく、ここにダーウィン流観測哲学を見る思い...
「わたしが強く信じてしまったことは、こうだ ―― 音楽を例にとると、音符が全部理解できて正当な感受性をもっている人は、音楽全体をもっと完全に楽しむことができるだろう、それと同じように、一つのすばらしい風景をあらゆる角度から調べる人も、風景が見せる全体の組み合わせの効果を完全に理解できるのだ、と。したがって、旅をする人はまず植物にくわしくなければならない。なぜなら、どんな風景も主たる装飾は植物が担っているからである。大きな裸岩が集まった光景は、どんなに殺風景であっても、少しのあいだなら壮大な印象を与えてくれるが、すぐに単調な眺めとしか思えなくなってしまう。ただし、この岩だけの眺めに、たとえば北チリのように、明るく多彩な色を塗りつければ、幻想的な風景となる。植物で覆えば、美しい絵とはいかないまでも、それなりの景色になるに違いないのだ。」

2. サンゴ礁に関する考察は圧巻...
「リーフをつくるサンゴは、地下面に上下の振動があったことを物語る驚くべき記念碑を、ずっと積みあげつづけ、しかも、それを守ってきた。われわれがいま見るバリアリーフはどれも、大地がそこで沈んでいることを示す証拠物であり、アトールはどれも、島が海中に沈んだことを示す記念碑なのだ。こうしてわれわれは、一万年の長寿に恵まれて変化の記録をずっととりつづけてきた地質学者から教えを受けるかのように、一つの巨大なからくりに関する手がかりを、いくつか獲得することになった。それは、地球の表面を切れぎれにして、陸と海をとりかえてしまうからくりなのである。」

3. ガラパゴスへの思い...
このような大自然物語に触れていると、人類には、どこか本能の奥深いところに自然回帰を欲するような原始的な意志が、まだ残されているような気がしてくる。原生動物の記憶か?遺伝子か?は知らんが、都会的な気取ったものに反抗心を抱くところが、なんとなくあるのだ。単に天の邪鬼な心が、そうさせるのかもしれんが...
文明化の波が地球の隅々に伝わり始めた19世紀、ゴールドラッシュの波がインディオの土地を穴ぼこだらけにしちまったとさ。21世紀の現在でも、余暇に自然を求めてやまない人々の影で、観光客の群れに荒らされる世界遺産という構図がある。ここに物語られるガラパゴス諸島の光景には、やはり癒やされる。大衆の目には触れさせてはならぬ楽園が、地上にはまだまだあることを教えてくれるのだから...
しかしながら、「ガラパゴス化」という用語は、現代社会では忌み嫌われる。孤立を恐れてはソーシャルネットワークに縋り、電子機器の奴隷と化し、ますます依存症を深めていく。慢性的な退屈病を患えば、いつも刺激を求めて徘徊し、慢性的な関係依存症を患えば、仮想社会を徘徊してやまない。騒々しい空間で自己を見つめ直そうとすれば、孤独を渇望し、誰とでも繋がろうとする社会ともなると、逆に孤独愛好家を増殖させる。人間社会に嫌気が差さないと、なかなか自然には目を向けないものである。
人間は何かに依存しなければ生きてはゆけない。空間にあっては集団社会に寄りかかり、時間にあっては自我に振り回され、そして、なによりも自然界の一員として存在する。自然だけを相手取るならそれほど悩まなくて済みそうだが、集団社会に自我が結びついた途端に人生は修羅場と化す。
そして、現代社会における恐怖の最たるものが、孤独死ってやつだ。なにゆえ、こうも恐れるのか。誰に看取られて逝きたいというのか。どんなに立派な墓を作ったところで、時代の流れと共に無縁墓となるは必定。墓の面倒を見る人がいなければ、共同墓地に入る方が賑やかそうだ。
そこで、無人島に真の自由を夢見る。群島は、それ自体が一つの小宇宙。嘆かわしいのは「ガラパゴス化」の方であろうか。いずれ、この忌み嫌われる用語に生命の故郷を感じる日が来るやもしれん...

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