2020-04-05

"科學の言葉 = 數" Tobias Dantzig 著

小雨降りしきる中、しとしとぴっちゃん気分で古本屋を散歩していると、なにやらノスタルジックな奴に出会った。琥珀色に染まった紙面が風格を漂わせ、そればかりか、書き込みがあちこちにあって元持ち主の情熱までも伝わってきそうな...
初版、昭和二十年(1945年)... 改訂第二版、昭和三十二年(1957年)... とある。おいらは、まだ生を受けていない。ただ、暗示にはかかりやすい。むかーし教科書を赤線だらけにし、何が重要なのか分からないほどにしちまった記憶がかすかに蘇る...

本書は、「数える」という行為をめぐっての物語である。扉を開けると、「数学者でない教養ある人々のための批判的概観」と見出しされる。著者トビアス・ダンツィクは、学校の数学過程が文化的な内容を削って、技術の骨格ばかりを追いかけているために、多くの優秀な人材を遠ざけてしまった、と考えているようだ。そこで、数の進化を文化的に、いや、人間的に物語ろうというのである。
「数」という概念と「数える」という行為は、ともに抽象化の道を歩んできた。数える行為を合理化するために記号を発明すれば、記号の関係性を求めて関数を編み出す。やがて、同じ性質を持つ数の集まりをひと括りにし、性質そのものの関係を探るようになる。「数」という概念は記号で抽象化され、「数える」という行為は関係性を結びつけることに抽象化されてきたのである。
さらに、無限までも数えてやろう!という願望に及ぶと、数の大小という関係は、濃度という概念へ飛躍する。「数える」というからには整数論の領域にあるわけだが、まったく数に見えないのに整数とはこれいかに?有限界の知的生命体が無限界に口を出そうとすると、まったく悪魔じみてやがる。とはいえ、すべては「一対一の対応」という手続きの元で引き出された知識であったとさ...
尚、河野伊三郎訳版(岩波書店)を手に取る。

数の学問は、数を数えることに発する。原始の時代、人類は指を折って数え始め、数の概念はまずもって両手合わせて十本の指に乗っ取られた。人間社会が十進法に席巻されるのも、その名残りか。女性が妊って十ヶ月で出産するのは、単なる偶然かどうかは知らんよ。ある原始民族では、手足合わせて二十進法を用いたという説もあるらしい。
「数える」という意識は、人間の本能に植え付けらたもののようにも感じられる。精神病患者や知的障害者は、心が落ち着かない時に数を数え始めると聞く。ある種の儀式のように。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ったりする。数には、なにやら心を落ち着かせるものがある。数えるという行為は、人間の進化論とも関係がありそうな...
ちなみに、おいらが美少年と呼ばれた小学校低学年の時代、さんすうが大の苦手であった。放課後、一人残されては計算をやらされる。数ってやつがまったくイメージできず、机の下に手を隠して指を折りながら数える。すると叱られるのだ。堂々とやれ!って。ごもっとも!当時の女の先生が鬼にも、天使にも見えたものである。やがて数の概念が理解空間と結びつきはじめると、いつの間にか、数の虜に。鶴亀算があまりにもすんなり数える概念と結びついて、こいつが方程式ってやつだと理解するのに大して手間はかからなかった。しかしながら、大学の初等教育で再び奈落の底へ突き落とされ、高校までの数学がいかに算数であったかを思い知らされる。抽象化の概念は、指では数えられんよ。数学の落ちこぼれは、こうして今に至るのだった...

しかし、だ。数の学問において、十進法ほど厄介な道具もあるまい。コンピュータは二進法とすこぶる相性がよく、計算機工学やソフトウェア工学などで、8進法や16進法が用いられる。つまり、2の冪乗数があらゆる計算において優れているということだ。ラプラスは、こんなことをつぶやいたとか...
「ライプニッツは二進法の算術に『創造』」の形象を見た... 『一』は神を表し、『零』は空を表す...」
なのに、人類が十本の関節を持つ指を授かったがために、十の数が崇められる。こんな自然法則に反するものを、誰が授けたかは知らんが... ただ人類はどんなことでも、いかようにも解釈できる性癖も授かった。その見返りかは知らんが、幸福の原理として...
ピュタゴラス学派は、当時の四元素「火、水、空気、土」を底辺にした三角数 (4 + 3 + 2 + 1 = 10) をテトラクテュスと呼んで崇めた。三角形の頂点には、神に通ずるものがあるらしい。ただ、数学者が概念でねじ伏せようとも、計算ではレジのおばさんの方が位取りで一枚上手ときた。
ちなみに、鏡の向こうから「十の時が流れる」という名を持つ野郎が、顔を赤らめてこちらを見つめてやがる。どうやら数に酔ったらしい。あヤツはテトラクテュスの申し子か?ダンツィクの言う「人間は万物の尺度である。」という言葉が、嫌みに聞こえてくる...

1. 心を乱す無理数 vs. 心を癒やす超越数
計算において、なにかと面倒なヤツがいる。無理数ってやつが、それだ。しかも、幾何学で最も純粋とされる図形に出現しやがる。正方形の対角線と、直径を 1 とする真円周の長さに...
有理数があれば、どんな微細な数でも記述できそうなものである。分母の桁をどんどん増やしてやればいいのだから。数直線上の連続性を保つために無理数の存在が欠かせないとは、これいかに?おかげで、数学は分裂症を患わずに済むのだけど、ヤツの存在を隠蔽しようとしたピュタゴラス教団の考えも分からなくはない。
無理数の存在が面倒であるように、有理数が無限と絡むとやはり面倒となる。コンピュータだって万能じゃない。実際、実数演算は近似法で誤魔化されている。もし浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754 の意義を匂わせてやればいい。2の冪乗数は偶数であり、奇数は奇っ怪な存在なのかは知らん。素数は、奇っ怪な存在か純粋な存在かも知らんが、暗号システムを根底から支え、ネット社会では絶対に欠かせない存在である。有理数と無理数の絡みでは、オイラーの等式にゾクゾク感を喰らう。超越数の代表格とされる自然対数の底と円周率が虚数を介して絡むと、整数になるというのだから...

  e = -1

自然美の対を心底感じさせるものといえば、なんといっても二本の脚線美。これに、おっ!πが絡むと、空虚な精神を平穏に整えてくれるのは確かだ。超越数ってやつは、そこに法則性を見い出したとしても、人間が編み出した概念なんぞでは説明の及ばない、もっと形而の上にある存在のように見えてくる。だから、超越した数なのである。

「神霊は、我々が負の単位 -1 の想像的平方根と呼ぶ解析のあの驚異のうちに、あの理想世界の前兆のうちに、存在と非存在との間のあの両棲類のうちに、その崇高なるはけ口を見出した。」
... ゴットフリート・ライプニッツ

2. 演繹法 vs. 帰納法
あらゆる体系を抽象化する思考アプローチに、二つの極性がある。演繹法と帰納法が、それだ。演繹法は、基本となる大前提から小前提に向かって法則性を導いていくアプローチで、三段論法がその代表。帰納法は、多くの事象から共通点を見出して法則性を導いていくアプローチ。数学の王道は、おそらく演繹法であろう。演繹法による帰結は反証の余地を与えないが、帰納法は一つの反証によって崩れる脆さがある。普遍的な言明と事例的な言明とでは、前者の方が圧倒的に説得力がある。そりゃ、現象をすべて演繹できるならそれに越したことはないが、現実世界は帰納法に頼らないと説明できない領域があまりに大きい。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、王道だけでは心許ない。
ダンツィクは、「数学は演繹的科学」としながらも、帰納法を「出直しによる推理」と位置づける。出直し... 大いに結構ではないか。あらゆる常識も一度は疑ってみて、再検証してみるのがええ。演繹的と表現するからには、完全演繹とはなるまい。四色問題やケプラー予想で用いられた戦略は、まさに帰納法的な思考であった。カオスの世界では、最も客観性を重んじる数学ですら確率的な厳密さを受け入れざるを得まい。
そして、厳密に対する準厳密、定理に対する準定理... といった位置付けも必要となろう。客観性を最高レベルで用いようとする数学であっても、やはり主観性からは逃れられそうにない。人間が思考するということは、そういうことだ。ガリレオの逆理をついたカントールは、論理の王国を直観の王国へ引き戻した。無限と戯れる才能豊かな連中にとって、厳密な世界は息が詰まると見える。王道は肩がこる。おいらは邪道を行きたい。王道とは、邪道があってこその王道なのだから...

「数学の本質はその自由にある。」... ゲオルク・カントール

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