2020-10-04

"小説神髄" 坪内逍遙 著

 そういえば、おいらは「小説」という言葉に疑問を持ったことがない。今日、novel の訳語として定着している、この言葉に...
小説家たちは、ノベルで何を述べようというのか。小さな説と書くからには、大きな説というものがあるのだろう。元は中国に発し、取るに足らないつまらない議論、あるいは民間の俗話の記録などを意味したという。国家の思惑を物語るのに対して、大衆の本音を物語る。どちらが取るに足らないのやら。上っ面の教説や良識めいた美談を綴るのに対して、悪徳や愚行に看取られた人間の本性を暴く。どちらが大きな説なのやら。
小説家に、人類を救え!などとふっかけても詮無きこと。人間の本性に迫るからには、精神を自由に解き放たなければ...

かつて小説を書くためには、まず小説とは何かを知らねばならぬ時代があったとさ。小説ごときを、けしからん!などと、有識者たちが憤慨した時代である。江戸戯作に親しみ、西洋文学を渉猟した若き文学士が、明治の世に物申す...
「我が小説の改良進歩を今より次第に企図(くわだ)てつつ、竟には欧土のノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に美術の壇頭に煥然たる我が物語を見まくほりす。」

何事も、文化として居座る仮定では低俗扱いされるもの。ざっと時間軸を追うと、近くに漫画やアニメ、遠くに能や歌舞伎を見つける。芸能文化は、人間社会への批判を間接的に皮肉る形で根付いてきた。つまりは、諷刺や滑稽の類いである。世阿弥らが編んだ「花伝書」は、滑稽演芸を理論化し、芸術の域にまで高めた。何事も本質を観るには、遊び心がいる。憤慨していては、見えるものも見えてこない。哲学するには、自ら滑稽を演じてみることだ...

「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。」

人間は情欲の動物であり、いかなる賢人も、いかなる善人も、これを避けるのは至難の業。百八を数える煩悩を避けるには、よほどの修行がいる。自分の煩悩を克服できなければ、他人の煩悩を目の敵にし、他人の欠点を攻撃する。人情の解放と煩悩の克服は、まさに表裏一体。自己を克服するには、もはや自分の煩悩を味方につけるしかあるまい。なるほど、まず情ありて、人の心を動かさぬものは小説にあらず... というわけか。
しかしながら、心を動かす者もいれば、動かさぬ者もいる。芸術とはそうしたもの。分かりやすいものは重みを欠く。寓意ってやつは、チラリズムとすこぶる相性がいいときた。心が動かされなければ、作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらす。芸術ってやつは、芸術家のみならず、鑑賞者をも高みに登ってこい、と要請してくる。暗示にかかった鑑賞者は、刺激がますます貪欲になり、もっと深い、もっと凄い表現を求めるようになる。情欲を相手取ると、まったく底なしよ。ここに、小説の無限の可能性を見る。

ところで、小説の意義とはなんであろう...
それは、単なる勧懲の道具ではないという。人情に共感したり、反面教師にしたりして、人間性を磨く。となれば、人情の描写こそが小説の意義というのは、尤もらしい。
そして、ノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に... 小説は美術なり!というわけである。逍遙は、小説の四大裨益を挙げている。

第一に、人の気格(きぐらい)を高尚になす事。
第二に、人を勧奨懲戒なす事。
第三に、正史の補遺となる事。
第四に、文学の師表となる事。

拙筆なおいらにとっては、第四の裨益が一番大きい。優雅な文章を魅せつけられると、惚れ惚れする。言葉に惚れ、フレーズに惚れ、しかも、皮肉たっぷりに。それが、生きる指針になり、座右の銘となる。道徳家や教育家の安っぽい教説よりも心に響くのは、そこにチラリズムがあるから...
寓意や教訓の類いは、ここに発する。それは自省へと導く。他人の行いをも自省と解するよう。相対的な認識能力しか持ち合わせない精神の持ち主が、悪を知らずして善を知ることはできまい。他人の欠点が目につくのは、自分自身にもあるってこと。自分自身に欠点がなければ、そんなものが目についても、さほど興味を持つこともあるまい。
それゆえ、偉大な哲学者たちは、自省論なるものを様々な形で遺してきた。小説の主脳は人情なり... とするなら、小説はまさに自省の語り草となろう...

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