実際主義の流れを汲む中に、ガンディーを嫌う人は思いのほか多い。歴史を振り返れば、理想主義が現実社会を破壊した事例はわんさとあるし、平和主義者の理念が国家主義者の横暴を許し、戦争を招き入れた事例も少なくない。
「マハートマ(偉大なる魂)」の称号を持つこの人物はというと、確かに理想高すぎ感はある。が、夢想家と呼ぶ気にはなれない。「塩の行進」や「糸車で紡ぐ」などの日常生活に根ざした民衆運動は、近年の市民運動にも通ずるものがある。宗派や人種を超えた象徴として...
ただ、非暴力運動の実践となると、人類はまだまだ若すぎると見える。おいらは、この人物が好きでも嫌いでもない。ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。それも、まったく敵わないと、心の中で白旗を上げている。そして、ガンディーのものとされる、この言葉が好きなだけだ。
"Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」
実は、この言葉を拾うために本書を手に取ったのだが、合致するものに巡り合うことはできなかった。邦訳版だからなんとも言えないけど。それでも、この言葉の哲学は充分に味わえる。
ちなみに、おいらは言葉を追い求める夢想家だ。その証拠に、未だハーレムという言葉に救いを求めている。未練は男の甲斐性よ...
1930年、ガンディーはヤラヴァーダー中央刑務所に収監された。彼は、アーシュラム(修道場)の弟子たちに宛てて一週間ごとに手紙を送ったという。厳粛なる道徳的観点からの戒律を。牢獄の時間は、哲学原理を沈黙思考するには貴重な時間だったと見える。
おいらは、戒律ってやつが大の苦手ときた。抑圧的で説教じみていて、なにより息苦しい。だがここに、そんな感覚はない。それは、真理を第一のものと位置づけているからであろう。真理は実在に由来するという。神は真理なり、というよりは、真理こそが神。真理を探求し続けることこそ、修行の道というわけである。
しかしながら、真理ってやつが本当に存在するのかも、よう分からん。この酔いどれ天の邪鬼には、単なる認識の産物ではないかとさえ思える。それでも、宗教が唱える神の存在を信じるよりは、真理の存在を信じる方がはるかにましか...
尚、森本達雄訳版(岩波文庫)を手に取る。
「最高の真理は、それ自体で存在するのです。真理は目的であり、愛はそこに至る手段(みち)です。わたしたちは、愛の法(のり)に従うのは容易ではないことを承知していますが、愛すなわち非暴力とは何か、については知っています。しかし真理については、その断片を知るのみです。完全に真理について知ることは、完全に非暴力を実践するのと同様、人間には成しがたい業です。」
1. 宗教家か、政治家か...
ガンディーは、宗教家であったのか、政治家であったのか。真理の探求者が、なにゆえ政治なんぞに深く関わったのか。彼の生きた時代は、イギリス帝国主義からの独立を経て、インドとパキスタンが分離独立に至った激動期。時代が使命感を駆り立て、政治へと向かわせたのか。プラトンは、哲学者による統治という理想国家像を描いて魅せたが、これに通ずるものを感じる。
力なき者が巨大な国家を相手取るには、ゲリラ戦の様相を呈する。民衆運動という集団戦術によって。ガンディーは、弱者の非暴力ではなく勇者の非暴力を唱え、不服従運動を人間の誇りの運動に位置づける。そのために、真理の哲学を用いたというわけか。
しかしながら、真理ってやつは意外と脆い。なにしろ、真理めいたものはすぐに見えても、本当の真理はなかなか姿を見せてくれないのだから。
なるほど、真理は神に似ている。ただ人間ってやつは、神の存在を強烈に意識し、それを恐れても、真理の存在はあまり意識せず、恐れることもあまりない。
古来、宗教と政治は両立しうるかという問題がある。今日、政教分離の原則が声高に唱えられるが、ガンディーは、宗教なくして政治はありえないという立場で、道徳性や精神性の欠いた政治は避けるべきだとしている。
彼の言う宗教とは、互いにいがみ合うような盲目的な信仰ではなく、寛容の精神に基づくような普遍宗教のこと。その意味で、真理の探求者もまた宗教家ということになろうか。いや、信念を持ち続けることができれば、誰もが宗教家なのやもしれん。ガンディーは、世界宗教なるものを夢見ていたのだろうか...
「すべての宗教は、聖なる霊に触発されて生まれたものですが、それらは人間の精神の所産であり、人間によって説かれたものですから、不完全です。一なる完全な宗教は、いっさいの言語を超えたものです。ところが不完全な人間が、それを自分に駆使できる言語で語り、その言葉がまた、同じ不完全な他の人びとによって解釈されるのです。いずれの人の解釈が正当だと主張できましょうか...」
2. インド的な戒律
身分制度の歴史は、どこの地域にも見られるが、現在でも色濃く残るものとしては、カースト制度が挙げられる。法律でいくら規定しても、慣習の力は強すぎるほどに強い。ガンディーは、不可触民制の撤廃を強く唱える。特定の身分や家柄の生まれというだけで、その人々に触れると穢れるなどと考えることは理不尽きわまる、このような制度は、社会の癌!宗教を装いながら宗教を堕落させている!と...
また、スワデシーという国産品愛用の呼びかけも、インド的。暑いインドでは、塩は特に重要。海岸線や山中からも採取できる自然の贈り物に対して、外国政府が管理し、課税するとはどういうわけか。
さらに、伝統的な紡績産業に目を向け、国産品に愛着を持つという運動で「塩」や「糸」がシンボルとなる。
但し、こうした運動は、外国人に悪意を抱くことでも、憎悪崇拝でもないとしている。
しかしながら、凡人は、こうしたことで愛国主義を旺盛にしていくもので、海外製品のボイコット運動を引き金に、外国人排斥運動を激化させていく。製造品が、そのまま人種や民族と結びついて...
それは、21世紀の現在とて同じ。ただ現在は、まだ救われているかもしれない。自国製品や自国企業が、もはや自国のものではないことを多くの人が知っている。外国製品をボイコットすれば、自分の首を絞めてしまうことを。
とはいえ、グローバリズムを旺盛にすれば、同時にナショナリズムを旺盛にさせ、社会はますます二極化していく。人間社会で中庸を生きることは、よほどの修行がいると見える...
3. 人間は生まれつき盗っ人か...
不服従運動に執心するガンディーの姿は、みすぼらしい。彼は、不盗の戒律を唱えているが、それは、人の持ち物を盗んではならないという社会常識を説いているような、ちっぽけな話ではない。まず、地上で生存するためには、衣食住のすべてが何らかの形で自然の恩恵を受けている、と考える。
そして、生活に必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、その日の糧を得なければならない人から自然の恵みを略奪していることに... 食べきれないほどのご馳走をテーブルに並べ、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人から食べ物を横領していることに... といった論理を働かせて、不盗の戒律を無所有の精神と結びつける。必要以上を求めない、パンのための労働を、と。必要以上に所有しない、自己放擲と犠牲の精神を、と。
しかしながら、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と分かれるところ。自己放擲や犠牲にしても、凡人は自己満足で終わる。事業で大成功し大金持ちになった人が、私的な慈善団体を設立するのも、必要以上に儲けてきたことへの償いであろうか。いや、貧乏人にだって、憐れみの情念はある。
人間はみな幸福を願って生きている。しかし、幸福が誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、豊かさが誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、そんなことを素直に願うことができようか... これが、ガンディーの問い掛けである。
さて、自分の欲望とどう向き合うか。主犯格は嗜欲か。死を運命づけられた人間にとって、人間目的がはっきりしないのは実にありがたい。謙虚な人ほど自らの謙虚さを意識せず、大層な目的を知らないことも素直に認め、自然に振る舞えるものなのかもしれん...
2020-10-25
"獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著
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