2020-10-11

"現象学的心理学の系譜 人間科学としての心理学" Amedeo Giorgi 著

心理学は、科学であろうか。アメディオ・ジオルジは明言する。科学であると...
原題 "Psychology as a Human Science" は、1970年刊行とある。ジオルジの生きた時代は、科学といえば自然科学を意味し、人間性と科学は矛盾するという立場が優勢だったようである。彼は、「人間科学」という用語を持ち出す。これは自然科学という意味では、科学ではない。が、科学の定義の仕方によっては科学になりうる。それは、現象学に基づくアプローチによって... これが、ジオルジの主張である。
尚、早坂泰次郎訳版(勁草書房)を手に取る。
「心理学は科学である。なぜならば、科学の目的に関与するから、すなわち、関心のある現象に対して批判的態度をとったり、方法論的、系統的なしかたでそうした現象を研究しようとするからである。しかしながら、その主題には人格としての人間が含まれているので、自然科学がその目的を求めていくのとはちがったやり方で、目的を達成しなければならない。」

ところで、科学とはなんであろう。科学たるには、どうあるべきであろう。
まず、「客観性」という観点がある。この用語ほど、基準が曖昧でありながら権威ある言葉もあるまい。あらゆる学問が理論武装のために、この言葉にあやかって科学する。
但し、この用語には水準や度合いといったものがある。客観性のレベルでは、数学の定理は他を寄せ付けない。この方面では、古来、もてはやされてきた方法論に演繹法ってやつがある。
だが、現実世界を記述するのに演繹的な視点だけでは心許なく、帰納的な視点も必要である。人間を相手取れば、尚更。研究対象が人間自身に向けられると、自然科学から乖離していき、人文科学や社会科学などの学問分野が編み出されてきた。それで人間が自然的な存在かどうかは知らんが、少なくとも学問は自然的な存在であってほしい。
デカルト風に言えば、人間は思惟する存在である。つまり、人間が意識する過程では、主観が介在するってことだ。意識なくして学問は成立するだろうか。客観とは、主観に支配された人間の憧れか。
ちなみに、政治屋や有識者たちが客観的に主張すると宣言して、そうだったためしがない。それで、自らの語り口に権威を持たせられるかは知らんが...

一方で、芸術家たちが体現する精神に、無我の境地なるものがある。無我とは、意識を放棄したわけではなく、むしろ自意識を存分に解き放った末に達しうる何か。彼らは、なにかに取り憑かれたように自我に籠もって熱狂できる資質を持っている。無我とは、自己否定の過程で生じるのであろうか。あるいは、高みにのぼるために、主観と客観を対立させるのではなく、調和させるということであろうか。いや、客観性というより普遍性といった方がいい...

ジオルジは、現象学を心理学に応用する立場である。現象といえば、まず観ること。科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察哲学がある。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する態度であり、21世紀の科学者とて、その境地に達したとは言えまい。正しく観察できなければ、適格な判断ができない。正しいとは、何を基準に正しいとするか。この態度には、誤りを適格に観ることも含まれるが、健全な懐疑心が持ち続けるのは至難の業。現象を正しく観ることの難しさは、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。ましてや、人間現象を相手取るのに主観は避けられない。主観を客観的に観察しようにも、観察者の側にも主観がある。
となれば、観察サンプルを増やし、統計学的に、確率論的に分析するのが現実的であろう。心理学が、臨床医学と結びついて発達してきたのも分かる気がする。但し、医学は病を相手取る。いわば、精神状態の例外処理であるが、心理学では例外処理とはなるまい。

こうして眺めていると、心理学が量子論に見えてくる。量子力学が唱える不確定性原理は、位置と運動量を同時に正確に観測することは不可能だと告げている。それは、観測対象である物理系に観測系が加わっては、もはや純粋な物理現象ではなくなるということである。量子ほどの純粋な存在を観測するには、ほんの少しでも不純物が交じると正確性を欠く。となると、主観を観察するには、若干なりとも主観を含んだ客観性の眼では、やはり正確性を欠くのだろうか。いや、精神ってやつが、それほど純粋な存在とも思えん。自由精神は、物理的には純粋な自由電子の集合体なんだろうけど。
いずれにせよ、純粋客観なる精神状態を人間が会得するには、よほどの修行がいる。それには、人類がまだ若すぎるのやもしれん...

そこで、手っ取り早く分析する方法に、条件を限定するやり方がある。条件を絞りながら因果関係を紐解き、徐々に条件を広げていく、といった考え方は、解析学でもよく用いるし、経済学や社会学でもよく見かける。
例えば、金銭欲や物欲、あるいは、名声欲や権力欲といったものに限定すれば、行動パターンがある程度読める。市場原理は、様々な価値観を持った人間が集まれば、欲望が相殺しあって適格な価値判断ができるのだろうが、あまりにも欲望が偏っているために、しばしば市場価値を歪ませる。政治屋や報道屋が仕掛ける扇動は、大衆心理を巧みに利用した者の勝ち。文学作品ともなれば、心理学以上に心理学的だ。リア王やマクベスの狂乱に触れれば、それだけで精神分析学が成り立つ。
心理学の学術的な地位がいまいちなのは、こうした背景もあろうか...

問題解決のためのプロセスでは、現象を整理、分析し、本質的な内容や意味を探り当て、その方法や手段を編み出す。本書は、心理学が内容や手段に目を奪われ、方法論に特権的地位を置こうとする、と苦言を呈す。
ただ、あらゆる学問がそうした傾向にある。方法論が編み出せるということは、それが条件付きとはいえ、ある種の結論に達していることを意味している。
しかし、心理現象を結論づけることは至難の業。多義的な上に、これといった答えが見つからない分野である心理学では特に、整理や分析といった前工程、すなわちアプローチが重要だというわけである。メタ心理学は、精神をメタ的な地位に押し上げたために、現実世界でメタメタになるのかは知らんが...
ジオルジは、アプローチを一つのカテゴリとして確立することを提案している。方法論と一線を画する視点として。人間のタイプは、知力、武力、政治力、カリスマ性、徳性など、能力の数値化によってある程度の種別はできる。シミュレーションゲームのように。実際、企業の人事部などでも数値データが人材評価に用いられる。そうした数値化は、ゲームに勝つため、企業戦略を機能させるため、といった目的が明確な場合では有効となろう。
では、もっと普遍的なレベルでの人間性となるとどうであろう。人間目的なんてものをまともに答えられる人が、この世にどれほどいるのだろう。精神の正体も、人間の正体も分からずにいるというのに。人間精神の多様性は、果てしない宇宙に見えてくる。無理やり結論を出すぐらいなら、分析過程を大切にする方がよさそうである...

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