悲劇の死... それはまさに悲劇!
作家たちは、なにゆえ悲劇を書くのか。自分の不幸を愛し、絶望感に浸る自我に酔い、自分の傷口を舐めるように書く。心の叫びを聞いてくれ!と。ただの寂しがり屋か。そんな芸当のできる人間は、あまり幸福ではあるまい。そもそも幸福な人間が、小説や戯曲などというものを書けはしまい。ものを書く人は、好意的な批評を前にした時でも、反抗的な態度をとりがちだという...
尚、喜志哲雄、蜂谷昭雄訳版(筑摩書房)を手に取る。
「文芸批評は厳格さだの証明だのとは無縁だと私は信じている。正直な文芸批評とは、強烈な個人的体験によって他人を納得させようとすることである。」
ジョージ・スタイナーは、オーストラリア系ユダヤ人の家に生まれ、あの過酷なナチスの時代を生きた。彼は、自らの体験から現代における三つの傾向を指摘する。
第一に、悲劇は本当に死んでしまったということ。
第二に、技術的形式の変化はあっても、悲劇の基本的な伝統は生き残っているということ。
第三に、悲劇は生き返るかもしれないということ...
「言語については、骨格のこわばりが明らかに見てとれると、私は思う。われわれの文化における言語的習慣の多くは、もはや現実に対する新鮮な反応や創造的な反応ではなく、様式化されたしぐさにすぎない。人間の知性は今なおそれを能率的にやってのけるが、それによって得られる新しい洞察や新しい感情という報酬は逓減する一方である。われわれの用いる言葉はすり切れて手垢のついたものに感じられるのだ。それはもはやもとの無垢さや啓示力を内に秘めていない。そしてわれわれの言葉は倦み疲れているから、ダンテやモンテーニュやシェイクスピアやルターがかつて言葉に担わせた新しい意味と複雑さという重荷に、もはやたえられそうもない。」
そもそも悲劇とは、なんであろう。こいつの定義となると、なかなか手ごわい。痛ましい結末や惨めな結末で締めくくれば、それだけで悲劇と言えるだろうか。涙を誘えば悲劇、笑いを誘えば喜劇といった単純化にも抵抗がある。理不尽な運命を強いられ、なんで?なんで?と無意味に問い続けるしかないとすれば、実に哀れだが、主人公が間抜けなだけという解釈もできよう。非業な死というのもあるが、運命論に身を委ねるのもどうであろう。裏切り、奸策、騙し討ち、裏工作などが繰り広げられれば、まさに滑稽芸!そんな中で苦悩し、絶望し、様々な人間模様を曝け出せば、まさに人間喜劇!拡大解釈すれば、ロマンスにも悲劇の要素がある。
こうして、悲劇は喜劇に上書きされていくのか。悲劇の概念が曖昧になると、喜劇の概念までも曖昧になる。悲劇の死は喜劇の死をも意味するのであろうか。いや、二項対立で捉えることもあるまい。悲劇的な要素と喜劇的な要素は十分に共存できるし、なにより人間性に根ざしている。そして作家たちは、そんな枠組みに囚われず、リアリズムへと傾倒していく...
「芸術作品があらゆる私的ヴィジョンをとり囲んでいる柵を越えることができるのは... 芸術作品が詩人の鏡を一つの窓となしうるのは... 芸術家が何らかの信仰や仕来たりの枠組を作品の受容者と共有している場合だけである。それは、私が神話と呼んで来たものが生きた力をもっている場合にだけ可能なのだ。」
悲劇を中世風に定義すると、「大いに栄えながら、高位より没落して逆境に入り、悲惨な最期を遂げる物語」となるらしい。ダンテは、「悲劇と喜劇は逆方向に進む。」としたとか。その理屈からすると、あの「神曲」を喜劇とした意図も頷ける。地獄から煉獄を経て天国へと昇天していくのだから。ダンテは皮肉屋か!
では、シェイクスピアはどうであろう。ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、リア王の狂乱劇とくれば、これらは本当に悲劇なのか。四大悲劇と呼ばれながら、その魅力はなんといっても道化が登場するところ。真理の語りは、この世から距離を置くものの言葉に重みがある。人間に語らせれば、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。
悲劇と呼ばれる偉大な作品は、悲しみと喜び、堕落していく悲哀と、そこから這い上がってくる歓喜とが、その結末において溶け合う。そのおかげで、鑑賞者は救われる。人間は老いてゆく運命にあり、実人生もまた悲劇に満ちている。
ならば、自ら滑稽に振る舞い、道化でも演じていないと、やってられんよ。苦難をも笑いにする奥義を会得できれば... こうして悲劇が克服できるとしたら、まさに悲劇の死!
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