2021-04-11

"過去と未来の間 - 政治思想への 8 試論" Hannah Arendt 著

おいらは、政治ってやつが嫌いだ!大っ嫌いだ!真理の探求者が、なにゆえこんなものを...
西洋の歴史には、ソクラテスの時代から受け継がれてきた「政治哲学」というものがある。プラトンは哲学者が統治する国家を理想像として描き、アリストテレスは倫理上の観点から政治学という学問分野を創設した。東洋史にも、諸子百家の面々が名を連ね、孔子や孟子といった偉大な哲学者たちが政治を論じてきた経緯がある。
しかしながら、如何ともしがたい理論と現実のギャップ。統治する側がどんなに賢人であろうと、統治される側の圧倒的多数は愚人。やがて、マキャヴェッリやホッブズが唱えた近代的な政治理論に取って代わり、いまや、ロックやモンテスキューが唱えた権力分立論で落ち着いている。
いつの時代も、政治は倫理や道徳の限界をつきつける。毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないってことを。その証拠に、21世紀の現代でも、何か揉めるごとに第三者会議を設置しては、民衆の非難を避けようと躍起だ。とかく善意の第三者ってやつが、一番の曲者だったりするのだが...
人間というちっぽけな存在は、無限の過去と無限の未来の間に薄っすらと立ち現れるのみ。過去と未来が交差する場でしか、真理と現実が干渉する場でしか、その存在意義を見いだせないでいる...


とはいえ、人間の本性を観察するのに、これほどうってつけの場もあるまい。政治のキーワードとなる自由と正義、権威と理性、責任と義務といったものが、いかに利用され、いかに有効な動機となりうるか。言葉の本当の意味なんてどうでもいい。言葉で威厳をまとうことができれば、それで十分。それゆえ、政治屋ってやつは、集団が形成されるあらゆるところに出没するのであって、その性質は政治家の専売特許ではない。こいつを観察するには、集団から距離を置く必要があろりそうだ。
ここでは、ハンナ・アーレントが八つの遠近法を提示してくれる。「伝統と近代」、「歴史と概念」、「権威とは何か」、「自由とは何か」、「教育の危機」、「文化の危機」、「真理と政治」、「宇宙空間の征服と人間の身の丈」という試論をもって...

彼女は、古代ギリシアから受け継がれる形而上学の枠組みから人間の存在と人間の条件を問い、アリストテレスが定義した「人間はポリス的動物である」という切り口からコミュニケーションのあり方、教育のあり方を現実世界に照らしながら、政治と哲学の狭間でもがき続ける。「政治哲学」とは、なんと矛盾に満ちた用語であろう... と。
尚、引田隆也、齋藤純一訳版(みすず書房)を手に取る。

「プラトンが理解していたような政治哲学のこうした失敗は、西洋の哲学や形而上学の歴史の端緒から存在する。また、ヘーゲルや歴史哲学が哲学に課した務め、すなわち近代世界を今日あるものに作り上げた出来事や歴史的現実を概念的に理解し把握する役目を、やはり哲学が果たせないのが明らかになったときにも、実存主義は生じなかった。だが、古来の形而上学の問いが無意味であること、つまり近代人の精神や思考の伝統をもってしては、直面しているアポリアに解答を与えるのはもとより、適切で有意味な問いを掲げることすらできぬ世界に住んでいるのに近代人が気づいたとき、事態は絶望的となった。」


本書には、真理と政治の矛盾はもちろん、権威主義に対する険悪な態度も目につく。ハンナは、ナチズムが旺盛な時代を生きたユダヤ人女性。大衆社会が暴力と結びつく光景を目の当たりにし、権威の根源というものを考えずにはいられなかったのだろう。権威がもたらす秩序は、ある種のヒエラルキーをなす。ピラミッドのメッセージは、権威の象徴であったのかは知らんが...
権威は服従を要求し、暴力もまた服従を要求する。しかし、権威は威圧と相反し、暴力は威圧と相性がいい。権威ってやつは威厳をまとうものであって、強制力が発揮されると、たちまち喪失してしまう。権威は権威主義とも、似ても似つかない。伝統的な慣習や宗教が権威主義に昇華した形態もあるが、権威主義という用語にはたいてい悪い意味が込められる。特に、自由主義社会では...
しかしながら、自由主義ってやつは、その名にもかかわらず、自由の概念を政治の領域から締め出すことに一役買ってきた。政治の存在理由を問えば、多くの人は答えるであろう。民衆の自由のため!と。
だが政治では、なによりも生命の維持とその利害の保全が優先される。生命が危機にさらされる局面では、すべての行為は必然性の支配下におかれ、自由の制限こそが政治の意味となる。最大限に自由を尊重するなら、政治は安全保障に制限されるべきで、小さな政府が望ましいが、経済が不安定な局面では、社会福祉の充実を求め、民衆は大きな政府を望む。いつの時代も、民衆は強力な指導力を持った政治家の出現を望んできた。だがそれは、自由とは矛盾する。
では、真理は自由の方にあるのか、制限の方にあるのか。歴史を振り返れば、どんなに残虐な独裁者であっても、民衆の自由意志を完全に無視することはできなかった。自由に制限があるように、圧政にも制限があるのだろう。
自由主義と保守主義は、世論が激しく対立する中で生まれた。両者は、理論的にも、イデオロギー的にも、対立する相手がいなくなれば、互いに存在意義までも失ってしまう。サディズムとマゾヒズムも、そんな関係なのであろう...

「真理を語ることを職業とする者に驚くほど顕著な暴政的傾向は、性格的な欠陥というよりも、むしろ常日頃から一種の強迫の下で生活しているための緊張から惹き起こされるのであろう。」


人は、真理に魅了されるのではなく、真理めいたものに魅惑される。真理ってやつは、愚人には見えぬものなのか。人は嘘をつく。自らの行為を正当化するために。嘘を語る者が行為の人なら、真理を語る者は行為の人でないというのか。神は愚人には冷たい。真理ってやつをなかなか見せてくれやしない。芸術家も愚人には冷たい。何かが見えるまで高みに登ってこいとそそのかしておきながら、平気で挫折感を喰らわす。いまやプレゼン能力が問われ、やってます感を演出することが支持率につながる政治の世界。真理が無力だとすれば、真理はいったいどんなリアリティを持つというのか...

「政治哲学は、政治に対する哲学者の態度を示す。すなわち政治哲学の伝統は、哲学者がいったんは政治に背を向けながらも、自らの尺度を人間の事柄に押しつけようと政治に立ち戻ったとき始まった。その終焉は、哲学者が政治のうちに哲学を実現しようと哲学に背を向けたとき到来した。これこそマルクスの企てであった...」

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