小惑星の名にもなったハンナ・アーレントは、ドイツ生まれのユダヤ系女性。彼女が「暗い時代」と呼ぶのは、全体主義が世界を覆った20世紀前半である。資本主義が自由市場において醜態を晒せば、人々は全体主義へ傾倒していく。政界は党派ではなく徒党を組み、文壇は流派ではなく流行を追い、市場は生産ではなく仲介に走り、あらゆる場所で政治的な騒乱の力学が作用する。あくびの出そうなつまらぬことで大騒ぎをやらかす日々。大衆社会ってやつは、こうした全体主義的な風潮から生じたという。
ハンナは嘆く。公的な領域に光が失われ、もはや私的な領域までも失ってしまったと。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、公共性を欠くと自己を見失い、孤立すれば、理性も見えなくなる。集団の中に多様な価値観が共存するということは、自己を見つめるためにも有意義なことなのだろう...
「人間は人間であることで十分だ!」
ここで紹介してくれるのは、知る人ぞ知るややマイナーな人々。彼らは多様性に富み、世代も違えば、職業や信念も違い、一つの例外を除いて互いに知り合うこともなかった。見い出せる共通点といえば、同じ時代を生き、ヒトラーやスターリンから逃れ、一時的にマルクス主義に身を寄せながらも、やがて自分自身を取り戻していく、といったところ。政治の騒乱と道徳の退廃に満ちていながら、科学と芸術では驚異的な発展を遂げた時代を分かち合うかのように。類は友を呼ぶ... というが、直接触れ合うことがなくても、互いに共感し、影響し合うことはできる。評伝という媒体を通して...
「過去が伝統として伝えられるかぎり、それは権威を持つ。権威が歴史的に現われる限り、それは伝統となる。」
尚、本書には、ゴットホルト・エフライム・レッシング、ローザ・ルクセンブルク、アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカーリ(ローマ教皇ヨハネス23世)、カール・ヤスパース、アイザック・ディネセン(カレン・ブリクセン)、ヘルマン・ブロッホ、ヴァルター・ベンヤミン、ベルトルト・ブレヒト、ワルデマール・グリアン、ランダル・ジャレルの十名の評伝が収録され、安部斉訳版(河出書房新社)を手に取る。
冒頭を飾る論文「暗い時代の人間性」では、レッシング考が語られる。それは、1959年、ハンブルクで行われたレッシング賞の受賞演説で用いられたものだそうな。ハンブルクといえば、ハンザ同盟でも知られる自由の象徴のような街。この場で、賞や公的名誉の意義、自由という言葉の重みと自立的思考が知識の酵母となること、真理への思いと対話の可能性といったものが熱く語られる。十人の中でレッシングだけが18世紀の人。ハンナはこの人物を師と仰ぎ、彼の言葉を借りて言論の抑圧と偏見へ挑戦状を叩きつける...
"Jeder sage, was ihm Wahrheit dünkt, und die Wahrheit selbst sei Gott empföhlen!"
... Gotthold Ephraim Lessing
「各人は自分が真理と思うことを語ろう、そして真理それ自体は神にゆだねよう!」
ところで、この手の書に触れると、いつも思うことがある。それは、「ユダヤ人」という言葉の定義が一筋縄ではいかないってことだ。ユダヤ教を信仰する人々というのでは説明が弱く、その子孫までも対象となる広範な意味を含んでいる。人種の枠組みを超えたような。ハンナの場合、伝統的な宗教儀式から解き放たれた新たな時代の人間ということになろうか。
とはいえ、キリスト教徒にしても、カトリックやこれに反発するプロテスタントの枠組みを超え、宇宙論的な解釈で独自に信仰する人も少なくない。仏教徒にしても、信仰形式の多様化が進み、無神論者にしても既存の宗教に属さないだけで、なんらかの信仰や信念を持っており、いまや、人種や宗教で区別する意味すら薄れている。
本書に登場する人々は、本人がユダヤ人であったり、妻がユダヤ人であったり、あるいはその子孫であったり、はたまた異教徒の立場から憐憫の情をかけたりと、なんらかの形でユダヤ人との関わりを持っているが、それも偶然ではあるまい。特に、この暗い時代では苦難を強いられたグループに属していただけに。
これを偏りと見るかどうかは別にしても、歴史的にはやや控え目な存在に着目するハンナのセンスは、見事に歴史を掘り起こしてくれる。こういう人々こそが、真の意味で歴史を作ってきたのであろう。そして、歴史を作ってきた人物も、詩をこしらえてきた人物も、音楽を奏でてきた人物も、ただ引用されるために、そこにいてくれる...
「物語の語り手が物語に... 忠実であるとき、そこでは、終には沈黙が語るであろう。物語が裏切られるところでは、沈黙は空虚でしかない。しかし、私たち忠実なるものは、最後の言葉を語り終えたとき、沈黙の声を聞くであろう。」
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